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◆自分が幸せかどうか知る基準

誰でも、小さな子どものころ、そして小学生低学年くらいまでは、自分の気持ち一つで気の合う友だちと遊んでいたと思います。しかし、歳を重ねていくうちに、その関係性にいろいろな要素がからんできて、純粋に「一緒にいたい」という気持ちだけの友だちは減っていくと思います。

特に女性は、男性よりも、その感覚がよくわかるのではないかと思います。というのも、女性のほうが現在のところ、自分の役割的属性を多く持つ傾向にあるので。娘、学生、労働者、妻、嫁、子どもの保護者、さらに趣味の仲間、近所づきあい、などなど…もっと多い人もいるでしょうね^^;

役割的属性が多いということは、もちろんよい面もあります。たとえば、仕事であまり上手くいかないことがあっても、親としての喜びがあったり、仕事や家庭とは切り離れた、趣味の集まりで息抜きができたりすると、自分の生活のある一面での困りごとを別の角度から見ることができたり、年齢や立場の違う人の意見を聞けたりして、困りごとそのものが解決するだけでなく、それが原因で生まれた自分の中の負の感情を和らげることも期待できます。

一方、そんな多くの役割的属性それぞれの中で、ある種の「幸せ競争」があるのもまた事実です。仕事の面で出世したり、よい親、よい夫に恵まれたり、子どもが賢かったり、介護の心配がなかったり…それぞれの属性の中での幸不幸によって、その属性で知り合った人との真の関係性が試される、というとオーバーでしょうか。

すべてが上手くいく人、すべてが思うようにいかない人は、そんなにいないと思うのですが、他人から見て上手くいっているようでも、本人は案外、失敗だらけだと思っていたり、不幸そうに見えて、本人は満足していたり、その本質は案外違っていることもまた多いものです。

なので、究極、何が幸せなのかは、すべて本人の気持ち次第、なのかもしれません。また、年齢を重ねていくと、その時はすばらしく幸運だと思えることでも、後になって、それが不幸の遠因になっていたり、逆に、大きな失敗と思われたことが契機となって、かけがえのない出会いがあったり、単に気の持ち方だけでなく、実際問題として、幸不幸はピンポイントでは決められない、ということが実感されてくるのです。

それゆえ、自分が幸せかどうかということは、その役割的属性の中で、人の幸せをどう感じられるか、ということが一つの基準になるかもしれません。一緒に喜べる場合はもちろん、妬ましい、と一瞬思ったとしても、それが本当にその人にとって幸せなことかどうかは、これからの本人のあり方と、ある種の運命が決めるということが実感をもって理解できれば、長く続く負の感情にはならないので、自分の感情が上手くコントロールできているという意味で「幸せ」といえるのではないかと思います。

ただ、人の幸せがあまりに妬ましく、不幸せを願ってしまうときは、その役割的属性に属することそのものが、自分にとって無理があるのかもしれません。その役割の中では満たされない何かが、きっと自分の中にあるはずです。

それをそのままにすることも、一旦その役割から切り離れてしまうことも、どちらも自分次第。自分が幸せを感じるために、致命傷にならない程度に、自分の「本当」を知る手がかりかもしれません。

人の幸せを喜べない自分に気づいたとき、それは本当に自分が幸せになる大切なきっかけだと思いたいものです。




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