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★『街とその不確かな壁』村上春樹

世界はきっと、共有され、共感され、そして変容されていくに違いない──
望まれたように、<永遠>に。

 ただ望めばいいのよ。でも心から何かを望むのは、そんなに簡単なことじ
 ゃない。時間がかかるかもしれない。
 その間にいろんなものを棄てていかなくちゃならないかもしれない。
 あなたにとって大切なものをね。でも諦めないで。
 どれほど時間がかかろうと、街は消えてなくなりはしないから
 (本文p11)

『街とその不確かな壁』村上春樹

2023年4月、3年近くかけて完成させたといわれる村上春樹の最新作、長編『街とその不確かな壁』が書下ろしで発表された。

『街とその不確かな壁』村上春樹

本書の巻末に記された「あとがき」によると、この作品の核となった作「街と、その不確かな壁」は、今から40年以上も前の1980年に文芸誌『文學界』誌上に中編小説として掲載された。
しかしその完成度に作者自身が不全感を抱き、単行本として出版されることはなかった。

その後、作者は長編小説として1982年に『羊をめぐる冒険』を上梓した後、「街と、その不確かな壁」を書き直そうとしたとのことだが、そのストーリーだけで作品を完成させるには「無理があった」ので、「もうひとつまったく色合いの違うストーリーを加えて、「二本立て」の物語にしよう」と思いついて完成させた。
それが1985年に出版された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編作品だった。

つまり、今回発表されたこの作品は──少なくともその半分は──「二本立て」の物語のうちの一本として、すでに40年ほど前に完結した一つの作品の一部となって、呈示された物語だった。

私自身、最初に発表された『文學界』掲載作品「街と、その不確かな壁」を
読んでいないので、作者の初期の意図が、今回出版された『街とその不確かな壁』にどれだけ継承されているのか(いないのか)、あるいはその作品と今回の作品との関係性がどのようなものなのかについて、論じる資格を持たない。

しかし、前作の5年後に発表され、著者も関連性を認めている『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は最近再読し、書評も新たに記したので、この作品との関連については──少なくとも、その半分の物語との関連については──少し語れることがあるかもしれない。

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17歳の<ぼく>は、「エッセイ・コンクール」で共に受賞した16歳の<きみ>と表彰式で出会った。
別々の学校に通っていた二人は手紙を送り合うことで交際をはじめる。
時おり休日にどちらかの町で会う他は、手紙のやりとりを続け、互いにかけがえのない存在になっていった。

しかし、ある日突然、彼女と連絡が取れなくなり、それきり再び会えないまま<ぼく>は地元を離れ大学に進学し、大人になった。
そして45歳になるまで、何度かの恋愛を経ても、結婚し家庭を持つこともなくすごし、そしてある日突然、「穴」に落ちた──。

それを契機に<ぼく>は、高校生のとき<きみ>が「本当の自分」が住んでいると言った「街」へ入り込み、<きみ>と再会する。
それは『世界の終り──』で描かれた「街」と同じく、時の無いもう一つの世界──アナザー・ワールドだ。
そしてそこは<影>を持たない、心を無くした人々が住む永遠の時が流れる「街」だった。

そこで<ぼく>は多くの人が残した古い夢を読む「夢読み」として図書館で彼女と再会し、やがて自身の<影>と別れ、その世界で生きていくことを選び、自分から切り離れた<影>が「現実の世界」へ戻るのを見届けて家路につく──。

ここまでがこの物語の「第一部」で、『世界の終り──』で描かれたダブルノベル(二重小説)のうちの半分の物語、「世界の終り」とほぼ同様のストーリーが展開する。
読者はこの「第一部」を読むことで、『世界の終り──』において、唐突に示された<僕>の意識内世界(とされている「世界の終り」)=「街」の成立由来、前史ともいえる因果を知ることになる。

読者はその「街」が、『世界の終り──』の物語で描かれたように、<僕>の意識回路の変更によって偶然成立した世界ではなく、彼と深く結びついた他者──<彼女>(<きみ>)が深く関わる世界であり、むしろその元々の成立主体が<きみ>であることを知ることになる。

つまり『街とその──』において「街」は、その成立においてすでに他者と共有された世界だったということだ。

そのことは、『世界の終り──』の物語の最後で、<僕>は「街」を自分自身が作りだした世界であり、そこに残ることを選んだことで責任を果たす、と語っていたのだが、その選択の意味がより明確に、因果も含めて明らかにされたのだった。

『世界の終り──』の最後に示された<僕>の選択は、<自>の中にすでにある<他>の存在を肯定する選択であり<影>を失い不完全な自己となったとしても、なお否定し難い<他>への共感だった。

『街とその──』の物語は、この『世界の終り──』の最後に示された<僕>の最終的な世界観から始まる物語だ。

そして多くの読者はこの後、第二部からの物語は、前作『世界の終り──』で「世界の終りの街」に残ることを選択した<僕>の、「夢読み」としてのその後の物語が続くものと思うだろう。
しかし、物語は「第二部」の幕開きと同時に、全く別のステージを迎える。

「街」に残ったはずの「世界の終り」に住む<僕>──自身の世界の中に確実に存在する<他>とともに生きることを選択した<僕>が、<私>となって再び「実際の世界」に戻ったところから、物語は唐突に新たな展開を迎えるのだった。

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この種の作品はいわゆる「マジック・リアリズム(現実と非現実が入り混じる不思議な世界観:この物語中にもこれについて言及されている箇所がある)」、あるいはスピリチュアルノベルといわれる作品に分類されるようだが、このような非論理的で超現実的な展開をもつ物語に対しては、好き嫌いがはっきりと分かれるのかもしれない。

このジャンルが好きな人、あるいは現実にこんなことがある(あるいはあり得る、さらにはあってほしい)と思える読者は、親和性をもってこの物語に入っていくことができるだろうが、そうでない読者にとっては、この物語で展開される世界は、なかなか受け入れ難く、奇妙で不可解な読後感しか残らないだろう。

しかし、そのような超自然的な世界を描くことが自体が、この物語にとっての目的というより、その「マジック(しかけ)」は、物語のテーマそのものについて、よりリアルに詳細にその様相を語るための一つの手段なのだと思う。

平たく言えば、人の心の深い領域について描こうとすれば──そしてそれが、作者自身にも不可知な領域の事柄であるとすればなおさら──論理的な、そして日常的な枠組みの中で語られる言葉や構造では、容易に表現することが不可能なのかもしれない。

現実と非現実、物質と非物質、意識と無意識、<自>と<他>、そして生と死──この物語は、常に別の性質をもつ、別の次元にある、別のシステムによって成立する二つの世界──について語り続ける。

それぞれの世界の様相について。
そこで生きる人々の姿と内面(もしあるとしたら)について。
そしてその二つの世界の間で惑う人間について。

何らかの極めて個人的な理由で、「実際の世界」に居場所を見つけられない
だけでなく、自分自身についても、拭いきれない違和感を持つ人にとって、
自分が自然に息のつける世界を強く求めて「実際の世界」から離れるということはあり得るのかもしれない。

それが不条理な運命だろうが、不可避な遺伝だろうが、個人的嗜好の問題だろうが──その因果にかかわらず、<世界>対して、また自分自身に対して、
消し難い重い違和感を痛みのように感じている人間たちが目指す場所──それが「街」なのではないだろうか。

<永遠>の安寧を求め、<永遠>の愛を求め、喪った大切な人を探し求め、
痛みや苦しみや孤独、そして混乱のない、自分にとって<完全な>世界へ行きたい、そんな世界を求めて彷徨う人々。

自分の悲しみや苦しみと向き合う人々にとって、本当に生きるに値する世界はどこにあるのか、自分は何者か、そして他者の心の真実を理解することはできるのか──物語は何度も<私>に、そして読者に問いかけ続ける。

 私にかろうじてわかるのは、自分が現在おそらくは「あちら側」と「こち
 ら側」の世界の境界線に近いところに位置しているらしい、ということく
 らいだった。ちょうどこの半地下の部屋と同じだ。
 そこに差し込む光は淡く、くぐもっている。
 私はおそらくそのような薄暮の世界に置かれているのだろう。
 どちら側ともはっきりとは判じられない微妙な世界に。
 そして私はなんとか見定めようとしている。
 自分が本当はどちら側にいるのか、そして自分が自分という人間のいった
 いどちら側(本文傍点)であるのかを。(本文p421)

『街とその不確かな壁』村上春樹


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『世界の終り──』の物語は、外圧によって始まった「パラレル・ワールド」の冒険とその顛末であり、ある特殊な災難に見舞われた特別な人間の物語として、いわば<他者の物語>として、読者はある意味安心して楽しめばよかった。

そこでは不条理な暴力にさえ、まだユーモアの入り込む余裕があったし、<僕>が戦う相手も、ある程度はっきりしていた。
それは非人間的な何か──個人の自由や心を失わせるもの──<悪>を含むものだった。
そしてそれらが排除された世界が存在し、物語はその世界・「街」の本質と、そこで生きることの意味を問うた。

<僕>は主体として、<他者>を、そして「街」を、どう判断し、どう働きかけるのか、そこにはまだ切り分けられた<自>と<他>の区別があった。

しかし今回発表された『街とその──』の物語では、「街」は、死者からの目線での新たな意味付けによって(子易さん)、さらに「実際の世界」に居場所のない人間(図書館の少年)の移行によって変容し、その場所が<ぼく>にとっての<もう一つの世界>としてのもつ意味、そしてその様相も変化し、曖昧性を増して混沌とししている。

「街」はすでに、<ぼく>の永遠の、そして絶対的な恋人である<きみ>の住むかけがえのない世界、というシンプルな成立由来を持つものではなくなっているのだ。

<私>にとっても「街」は、かけがえのない<きみ>に会える世界であることに変わりはなくても、その世界が本当に自分が生きる世界であるのかどうか、そもそも「本当の自分」とは何なのか、物語の最終盤まで<私>は二つの世界、そして二つの<自>の間で惑い、揺れ続ける。

 結局のところ、私の意思を超える何らかの別の意思がそこに働いていたと
 しか思えないのです。
 しかしそれがいかなる意思なのか、私には皆目わかりません。
 そしてまたその意思の目的も(本文p375)

『街とその不確かな壁』村上春樹

「街」は、季節は巡るのに時は流れず、心から望んで成立させたはずの世界なのに、<きみ>とそこにいる人々は「心」を持たない。
そして<心(光)>のない世界には<影>も無い。
苦しみや悲しみも諍いも、人間が由来する<悪>も無いが、本当の喜びや「愛」という感情も行為も無い。

時を持たない、永遠の現在として存在していたはずの「街」が、その形や内容を変え、新たな意味づけをされて存在する──『世界の終り──』で描かれた「街」は、苦しみや悲しみを排除した世界であり、少年が移行した「街」は、彼にとって不必要なものを排除した生き易いシステムを持った世界だ。

そして最後に、<ぼく>あるいは<私>が選んだ、生きる場としての世界とは──。
二つの世界の間を<生きながら>行き来し、文字通り揺れ続けた<私>にも、やがて彼自身の生きる世界の選択の時がおとずれる。

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二つの世界は、どちらが現実で、どちらが意識の内的世界なのか、二つの世界の人間の、どちらが実体で、どちらが<影>なのか、そして、そのどちらの世界で、<私>は生きていくべきなのか。

『街とその──』の物語の中では、<他者>の心だけでなく、自分の心にさえ、自らがうかがい知れない領域があること、そして自らの選択も、自らが意識できる意志や価値観などの基準が意味を持たない、という現実が前提となっている。

心の中の未知の領域、それは本文中にも登場したように、箱の中にまた小さな箱が永遠に入っているように、探せば探すほどだんだんと永遠に小さくなり、遠ざかっていくイメージなのかもしれない。

そしてそのような個人的な不明感、不全感をもって生きることを如何に肯定──とまではいかないまでも、なんとか受け入れて生き続けることができるのか──これがこの物語の最終的な着地点だと思う。

しかしその着地点が容易に見つからないのが、この物語をかくも長く複雑なものにした要因だったのではないか、とも思う。
「実際の世界」の過酷さは、この物語の中でも、そして読者一人一人が現実に身を置く世界でも同じだ。

新たな出会いや変化を繰り返す未来は不確かで、ささやかな幸福さえ約束されることはなく、断絶や破壊はある日突然やってくる。
そこはユートピアとは程遠い世界──そして死さえもまた、恩寵ですらない。

<永遠>がコインの表側だとしたら、その裏側にあるのは<無>かもしれない。それを最も明確につきつけてくるのが「死」という事実だろう。
<私>は子易さんとその家族の死からそれを知る。
「死」は過酷な現実を終りにしてくれるものでさえない。
その先にあるものが<無>であるとすれば。

<他者>の死に直面した<私>はその<無>の肌触りをしっかりと感じとっている。

 しかしそのことは私に、生きた誰かを失ったときとは少し違う、形而上的
 にと言ってもいいような不思議に静かな悲しみをもたらした。
 その悲しみには痛みはない。ただ純粋に切ないだけだ。
 彼のさらなる(原文傍点)死を仮定することによって、無というものの確
 かな存在を、私はいつになく身近に感じとることができた。
 手を伸ばせば実際に触れられそうなくらい。(本文p414)

『街とその不確かな壁』村上春樹

作者はこの作品の「あとがき」の中で、この物語は第一部、つまり「街」の詳しい因果が語られたところまでで終わるつもりだったと書いている。
それでも、「やはりこれだけでは足りない。この物語は更に続くべきだ」と
思い直して、第二部、第三部を書いたという。
そしてその理由(と思われること)を次の言葉で表している。

 要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の
 移行=移動する相の中にある。 
 それが物語というものの神髄ではあるまいか。
 僕はそのように考えているのだが。(あとがきp661)

『街とその不確かな壁』村上春樹

作者が、人間の真実というものを、移行=移動という変化のなかに見出したように、物語の中の<ぼく>も、自分が変貌する存在であり続けること、そして世界も、一人一人異なる人々の光と影の両方の感情のすべてを呑み込み
「変容していく場」であることを知る地点に立ったのではないだろうか。

 何かが始まろうとしているのだろうか?
 私は何かが始まることを望んではいなかった。
 私が必要とするのは、何も始まらないことだ。(本文傍点)
 このままの状態が終わりなく永遠に続くことだ。
 しかしいったん始まった変化は──それがいかなる種類のものであれ──
 もう止めることができないのではないか、そんな予感があった。
 (本文p610)

『街とその不確かな壁』村上春樹

愛する人を喪い、違和感を抱えながら生きる「実際の世界」でも、また、そんな苦しみや悲しみ、そして生き辛さが排除された<永遠>のサイクルで閉ざされた「街」でさえも、<私>は他者の「痛み」を受け入れながら少しずつ変容していく──少なくとも、変容することを許容する感覚、それが起こることを待ち続けることで、自身の生の新しい姿を手にすることができたのではないだろうか。

それはたしかに物語の最初の方で、<きみ>が<ぼく>に告げたように、大切なものを棄てることだったのかもしれない。

「さようなら」

この言葉は、物語の最初の方で<きみ>が<ぼく>に最後の手紙で告げた言葉だ。そして物語の終りに、やっと<ぼく>は<きみ>に別れを告げる。

「さようなら」

しかし、これは本当に別れの言葉だろうか。

「左様なら」──私には、<ぼく>のこの言葉は、<ぼく>の前から去らざるを得なかった<きみ>を、やっと本当に受け入れて、そして再び、待ち続けることを始める言葉のように聞こえる。
変容を続けながら。

他者を心に持ちながら生きること、他者と自分の領域を共有し、「痛み」に共感して生きることによってしか、人は<無>に抗することはできないのかもしれない。

そしてその共感を抱き続け、静かに伝え続けていくこと。
長い物語を読み終わるころ、私もなんだか<私>が感じた純粋な切なさを分かち合っているような気がしたが、それと同時に、私の切なさも、生き難さも、いつか誰かが受け止めてくれるのではないかと思った。

それがどんな<他者>なのか、もう一人の自分=<影>なのかは分からないけれど。
ほんとうに、心から望めばいいのだ。<きみ>が言うように。
それはきっと、共有され、共感され、そして変容されていくに違いない。
──望まれたように、<永遠>に。

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