◆目の前の人にいる人に気を遣う人

基本的には、「話せば分かる」と思っています。話さないで忖度し合うのも美しい関係かもしれませんが、私はそんなふうに自分の中でいろいろ想像して、相手のことをおもんばかる体力に欠けているようです。特に、自分が直接会って話したり、一緒に行動したりしていない事柄を、伝聞で聞いてそのことについていろいろ思う気力もありません。

なので、誰かが別な人に、自分のことをこう言っている、と聞いても、そのまま受け取ることはありません。たぶん、それは真実とは別の何かだと思うから。たとえそれを言っている人が信頼できる友人や家族であっても、それを直接言った本人から聞かない限り、そこには、伝えた人の想いや意図が、多少なりとも含まれるので、言われたことを根拠に、誰かのことを決め付けたり、関係を変えたりすることはありません。

わざと意図的に悪意をもって、正しくない情報を伝えるのは論外ですが、これは、善意で伝えられる情報についても同じことがいえると思うのです。もちろん、悪意に比べると罪は軽いのかもしれませんが…。

しかし個人的には、悪意に基づく誤った情報よりも、むしろ善意に由来する(と伝える側は思っている)情報のほうが、より真実をつかむのが難しいと感じています。それは悪意と違って、本人が無意識に行う自己防衛に近い行為だから。

人は誰しも、多かれ少なかれ、そのとき目の前に居る人にとって良い人でありたいと願うものだと思います。そのこと自体、悪いことではなありません。でも、相手との違いを表面化しないまま、関係を続けていくと、閉じた自分の心の中で、真実とは別の自分の想像上の、相手の像が形成されていくのではないでしょうか。

そしてそれが独り歩きして、自分を苦しめる。そしてその苦しさから逃れるために、自分自身が閉じた心の中で形成した、真実そのものではない相手の情報をまた第三者に伝えてしまうのです。

平和に穏やかに暮らす方法は、人それぞれかもしれませんが、あまりに目の前の人との関係に穏便さを第一に行動すると、自分の心が勝手に作り出した現実に縛られて、真実が見えなくなってしまうかもしれません。

そして、それを回りに広げても、真実とは遠い、誰かにとって都合のよい現実だけが一人歩きするのだと思います。いつも正直であるべきだとは思いませんが、異なる価値観、人それぞれ違う感情、感覚に蓋をすると、自分自身にさえも自分の心の真実さえ分からなくなってしまいます。



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