今日も朝がやってくる

 眼が覚めた。暗闇のなか手探りでスマホを探して、電源をつける。まばゆい光に眼を細めた。ディスプレイには、午前四時半と表示されていた。最近、いつもこんな時間に起きてしまう。

 どうしてこんな時間に、眼を覚ましてしまうのだ。とにかく、はやく寝なければならない。今日も仕事があるのだ。

 眼を閉じた。まぶたの裏に白いもやが滲んでは消えていく。そこにはまるで、無数の白い光の粒子がはりついているようだ。テレビの砂嵐……蚊の大群……フクロウ……白百合の花……都会の鳩……頭の中にうかんでくるランダムなイメージ。眠気は遠のくばかりだった。

 そもそも眠れぬ原因など、わかりすぎるほどわかっているのだ。頭のなかで「はぁ……」という課長のため息が響き、つい先日の出来事がよみがえる。

「ノルマ達成もできてないのに、のんきに昼飯か……」とぼくの後ろでつぶやくような声がした。課長だった。急いで弁当を片付ける。

「昔だったら……」と低い重たい声で「ゼロ点なんて許されんかったけどな……俺だったら必死こいて営業してたけどなぁ……」

「申し訳ございません」

 すると、ますます課長の口はなめらかになり「べつに謝らなくていいよ……結果さえもってきてくれれば…………もうお前今年で三年目だろ?……考えて行動してないからそうなってるんじゃないの?……新卒の子たちやって初成約あげはじめてるのに……三年目の先輩が二ヶ月もタコってるってどうなん……才能ないんじゃないの……」

「はい……大変申し訳ございません……これから……」

「そもそも」と課長がぼくの声をさえぎり、いつものお説教がはじまる。もう耳がすりきれるほど聞いた定型文……営業マンは自営業者と同じだから、売上をあげないと会社が潰れる……常日頃から考えて行動しろ……トーク改善は毎日しろ……まあ俺は午前と午後に変えてたけどな……未達は犯罪……タコはいないのと一緒……

 もはや眠れるはずがなかった。上半身を起こし、背中を丸めてうなだれる。まるで虚脱したように、体に力がぬけていった。弛緩しきった唇から、ねばっこい白いあぶくが布団にしたたりおち、黒いしみになった。スマホを見ると、もう六時前だった。

 ねばつく口をゆすごうと、足でゴミを蹴りわけながらキッチンへと向かう。手をお椀にして、水を何度か口に含み、少し飲んでみた。すると、とつぜん強烈な吐き気がこみあげてきた。急いでトイレに駆けこみ、便座カバーを勢いよく叩きあげ、そこに顔をつっこんだ。

「おぅえっ……」と嗚咽がもれるが、水っぽい唾液がでてくるだけで、吐けそうな気配はない。涙目になりながら、こういうのは吐いてしまった方が楽なのだと自分に言い聞かせ、左手の人差し指と中指を喉の奥に無理やりつっこんでやった。すると、なにやら透明な液体が、胃のなかから吐き出された。喉がやけるように熱い。口のなかに、不快な酸味が広がる。いったい、なにをしているのだと思う。余計に、気持ち悪くなっただけだった。

 トイレの水面にぼくの輪郭が黒くうつしだされていた。底からわき上がってくる腐敗した臭気が、夜の静寂を包み込む。その臭いは、まるで長いあいだ放置され、腐敗してしまった人間と人々の営みとが、交じりあって生みだされた忌まわしい記憶のようであった。

 立ち上がり、手も洗わずに、おぼつかぬ足どりで部屋に戻った。ドアノブに、ベルトが輪っかになってかかっている。試しに、そこへしたから頭を入れてみた。かるく喉仏にベルトの皮をあてると、少しひんやりして気持ちよかった。

 ふいに、死んだ父のことを思いだした。父は癌で死んだ。病気が発覚した時にはもう手遅れだった。都会の大きな病院まで行ったが、手術はできないと言われた。その後、地元の病院の緩和ケアを受け、苦しみながら死んでいった。あのとき父は、どんな気持ちで病床に伏していたのだろう。あのときはまだ小さな子供で、死ぬ直前まで、いつ父は退院してお家に戻ってくるのだろうと思っていたっけ……

 父は最後に手紙を残した。そのなかに、いつまでも見守っていると書かれていた……

 お願いします。見ないでください。ぼくはだめな人間なのです。父さんとの約束も守れない不出来な息子です。嘘ばかりうまくなり、人を騙して生きている姑息な卑怯者です。
 そこにいるのですか?……父さん……見ているのですか?……父さんは見ているだけなのですか?……やはりぼくが父さんとの約束を守れなかったからですか?……だから見守るのではなく、ただ沈黙してぼくが首を吊って死ぬのを待っているのですか?……なにもいわないのですか……こんなことになるなら何も残さないで死んでほしかった……違う……悪いのはお前だ……全部お前が悪い……なにも変わっていない……成長していない……お前もただ見ていただけだ……だからお前の家族もああなった……お前のせいでバラバラになった……父さんのかわりにお前が死ねばよかったのだ……そうすれば家族もあんなことにはなっていない……お前が悪い……お前だけが悪い……お前がお前がお前がお前が……




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