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腰が重くて、疲れて、でも書く?

タイトルタイトル。それにしても。 
何を書くにしても初めが一番たいへんだ。腰が重い。労力がいる。ぶつぶつ言っていないで書こう。基本的には、とりとめもなく思ったこと、考えたことを書いていく。
 早速、「なんの基本だよ」と心の中で自分に毒づいた。学生時代はあれだけだらだら書けたのに、今いざ自分でお金を得るようになり、本をまあ自由に買えるようになったはずなのに、「書けない」のはおかしいだろう。たくさんインプットしたら、アウトプットしなきゃ。もはや強迫観念だ。5月は書籍に2万5千円払った。僕にしては頑張った。学生時代の社会学ゼミの指導教官は、「君たちはねあの立花隆に倣って、3万円を握り締めて池袋のジュンク堂か新宿の紀伊國屋にいけ」と言った。いやいやいや。3万円の価値を知っているか? 1500円だけ持って居酒屋に行くのと違うんだぞ、と。1500円のそれも到底抑えられないんだが。その彼は北区十条の出身だった。大学の副学長をしていて、最近少し体調を崩したという。国際開発やら交流やら精力的なお方で、ゆっくり休むなり身を案じてほしい。

 「なんで書く?」。これはあらゆる人にとっての疑問だろうし、書いている人は一度や二度、場合によっては書くたび毎回思うことだよね。別に、今そこに強い共感を生みたいわけではないのだけど、学生時代よりは「なんで書くのか?」を毎回考えながらエントリーを積み重ねていきたいと思う。突然の意思表明。「ブログを書くこと」については何度も書いて考えて、その都度、棚卸ししてきたつもりだった。でも、ふと立ち止まって考えてみると「?」が頭に浮かぶ。理由の一つは、年齢もそうだけど、今いる自分の環境によってその「理由」が変わるからだろう。もう一つは、そもそも目的が明確ではないから? 明確であってはならないから?
 書く能力を上達させるためにブログを書くのは非生産的でしょう。わかっている。非生産的だとまで言わなくとも、そこまで重要な手段としては挙がらないはずだ。日々、仕事で「書くこと」をしているのに(報告や企画立案、インタビューまとめ)、言葉が上達しないのはなぜだろう? いや、そもそも上達とは何をもって上達というだろう? 一つ断定するたびに、疑問するたびに、問いが生まれる。前に進まない。進まなければならない。

 前に書いていたブログではたびたび見ず知らずの人にコメントをもらうことがあった。たまに「書き方が好きです」とか「視点が参考になりました」。それ本当に思ってるのか? と疑ったけど、一方でそれに喜んでいる自分がいた。「明日もがんばろうか」と思える瞬間だった。「村上春樹は教養のカタログ本です」とかもあった。匿名の人とコメ欄で議論して面白かった。

 上手くなりたいわけではない。着地点を設定しているわけでもない。平成中期に出現したとされる「自分探しの旅」は、知らない土地で異文化に触れ、常識の中で形成されてきた個性を無くすための自分失くしの旅」と解釈できるのではないか、というコメントだったか発言を見たことがある。結構面白かった。またつい先ほど。文章を書くことについて、カラス代表の牧野さんが「精神の排泄行為」と表現した。こういう面白い表現がたくさん転がっているカオスなところに、僕も「排泄行為」として吐き出せたらと思う。30分ばかりだけだけど座っていて腰はだるいし、疲れたけど、なんとか細々とやっていきたい。凡人なので、テーマとか、ページのコンセプトなんて決められない。前にやっていたところでも、結果的になんか形になったし。その場しのぎの、フリースタイルの、何かになればいいや。
 一つだけ言えるのは、一人でもいいから誰かに聞いてほしい、ということ。そして、その一人が少しずつでも増えていけばいいな、とも思ったりする。これからの時代、書ける人は強いってさ。どんな分野でもいい。「強い人」になりたいから書こう。

(続)


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