たまにシャッフルしたくなる

どこにでもありそうな文章なら書く価値がない。かと言って、どこにもない文章を書くことは難しい。また同時に、どこにでもある文章を書くことも難しいだろう。

アウトプットのできない読書は価値がないのか? かのショーペンハウエルは「読書とは、ザルに水を通す作業にひとしく、知識やためになるものはザルの網目に残った水滴ほどしかない」という言葉を残した。「読書について」というその著書は高名な読書論を教えてくれるものとばかりに思った。意気揚々と書店で手に取った僕は、その1時間後愕然とする。辛辣な言葉のオンパレードだからだ。だけど、結論的には僕はその本を読んでよかった。あの藤原さんもしきりにだすデータで「本を読む人間はそれだけで10人に1人の人材になる」と言っている。あくまでこの文言の中では、有能かどうかということに言及していないのが嫌らしいけど、どうか言葉そのままに受け取ってほしい。読み手の社会学的想像力(Sociological Imagination)に委ねる。

遠回りになったが。読書について一部ではこれだけ有用だと語られているのにもかかわらず、本は10人に1人しか読まれていない。しかしその1人は、ザルの網目に残った水滴を舐めることで生きようとしている。生きようとしている、とまでは言わなくとも、やはり読書の習慣がある人は、「ただ本をめくっているだけで快感で〜」とかいうはずもなく、何らかの目的意識があって読書瞬間を迎えていることだろう。この「読書瞬間」という言葉だけど、前に書いていたブログでよく読んでいた(読んでくださってもいた)方が使っていたもので、結構好きで自分の中で使っている。読書瞬間とは、活字を目で追う一瞬一瞬にパッと浮かんだことや、あるいは浮かんでしまったことを指している。浮かんでしまったというのは、ペンや付箋がない時にその場で書き残せなくて冷や汗をかくことになるのだ。まあ、しかたなしにページの端っこを内側におっておく。活字を目で追っていると何故か、その本に関係ないことや忘れていた別の仕事などを本来であれば思考を必要としている事に対するアイデアが一瞬ひらめくのだ(「スマホにメモをすればいい」というのはナンセンスです。物理的にそこに書きたい)。

ひらめきといってもそれは別に、全てが全てお金になることやイノヴェーションのなるようなアイデアであるべきではない。ただ、机にかじりついているだけでは思い浮かばなかったことが、(そのことに全く関係のない)本を読んでいる瞬間に「あ、こういう考え方ができるかも!」というように「別の見方を教えてくれる」 。
なぜ本を読むかは色々ある。あげたらきりがない。随時思いつくがままに書いていこうと思うが、中でも、上の現象は僕の中では本を読む理由として、結構有力なものとして根を張っている。

今日は本当は、ジャズを聴くことにおいて店で聴くのと家で聴くのは何がどう違うのか、前者は快感があり、後者は比較的快感が薄いのかについて経験的に考えたことを書こうと思っていたが、余計な書き出しからここまで進めてしまったので、今日はここまで。



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