文字を読む、書く、それはリハビリである

好きなものを好きなときに、悩まず買える大人でありたい。

わたしが目標とする「大人」像は、せいぜいそんなものである。
22歳、大学4年生。学生と言えど20を過ぎればもう社会人と遜色なく、大人としてカウントされるのではないかと思う。少なくとも、子どもということは難しいという実感がある。それゆえに私はよく「若輩者」という言葉を使うが、これはこれで些か年齢を免罪符にしすぎているような気もするし、何より許されようとする魂胆がしっかりと透けて見える。レントゲンくらい透けている。いやまぁ実際、若輩者であることに変わりはないのだが。

今日の書き出しにも特に意味はなく、何となく思いついたことを書き出してみただけなのだ。文脈も、脈絡も、理由も、意味も、なにもない。
なにもないというのは実にわたしらしい。褒められたことではないが。

閑話休題

最近、ことばに関する精度がだいぶ落ちていると感じることが多い。語彙が減っている、これまで蓄えた知識の繋がりがプツンと途切れている、文字がうまく読めない。言語感覚というものが極端に鈍っているような気がする。思ったように、うまく言葉が出てこない。
じゃあ私の全盛期はいつだったのかと考えたとき、それは確実に高校3年生の頃だった。学校では携帯が使えない。友達も少ない。誰かと喋るよりも本の世界と対峙している時間の方が遥かに長かったあの頃、私のセンスは確かに研ぎ澄まされていたように思う。
学校新聞も作っていたから、文章を読むか・作るかの生活だった。受験勉強で小論文も書いていた。とにかく言葉というものに向き合う時間がたくさんあった。それをわたし自身も誇りのように感じていた、部分がある。
それが今はどうだろう。言葉を、紡がないわけではない。が、どうにも、出力が弱い。かつてのわたしのような切れや深みがない。理由を考えたとき、それはまず間違いなく活字に触れる機会が激減しているということだ。やはりスマートフォンばかりいじっている弊害は、確実に存在している。あの頃の能力はどこかに遠くに行ってしまったのか、それとも奥深くに封印されてしまったのか。
取り返すには、恐らくあの頃と同じように、活字に触れ、活字を生み出すしかないのだろう。いわばリハビリテーションである。
何か意味のある文字列を生み出さねばならない。

わたしの人生において、定期的に話題にするネタがある。何かというと、「とある劇場アニメにえらく感動して便箋5枚からなる長文の手紙をしたためアニメーションプロデューサーに送ったらお礼のハガキが返ってきた」ことである。
あのハガキを受け取ったときはいたく感動したものである。ちゃんと届いたのだ、と。
これも言わずもがなというのか、高校3年生の頃の出来事である。

高校3年生。あの頃は、「好き」に対する想い、熱量を全部文字にすることができた。それゆえの便箋5枚ファンレターである。あの頃のわたしは一体なにをそんなにたくさん書いていたんだろう。どんなことを伝えたかったんだろうか。
恐らく、これはつい最近までできていた、と思いたい。それが、最近どうにも難しい。「好き」を「好き」という言葉以外で言い表せない……というのはさすがに行きすぎだが、熱量を上手く文字として落とし込むことができないのだ。困った。
あとついでに、文字を読むのも何だか一苦労になってしまっている。高校生の頃の愛読書・京極夏彦の作品なんて、今でもちゃんと読めるのだろうか。(※京極夏彦の百鬼夜行シリーズは毎巻分厚過ぎて『鈍器』とか言われている

やはり文字、あるいは言葉というものに対する感覚が鈍っている、としか言いようがない。リハビリが必要だ。
小さいことから、コツコツと。何でもいいから何か書いて、読んでを繰り返していきたいと思う。
これは所信表明である。
所信を表明して何か続いた記憶が全くないのだが、そこはもう自分次第である。本当にかつての感覚を取り戻したいと思っているのなら、頑張ってほしい。頑張るしかない。
年内に好きな声優へファンレターを書きたいと思っているが、それまでに熱意を込めて人に読ませられる文章を書けるようになるだろうか。あと1ヶ月半。死闘である。


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