夏のせい

夏が来た。長かった梅雨が明けて、ようやく一年で一番好きな季節の到来である。電車やスーパーやデパートなど、自分が普段よく出入りするエリアの、なんという極端な寒さよ。そして、そこから抜け出た瞬間の、扉一枚隔ててまるで別世界に飛び出したような気温の変化に目眩がするけれどその感じも決して嫌いではないのである。平日の午後。今日は仕事で外出の予定があったため、会社を出て電車移動し、都内某所へ来ていた。照り付ける日差しを、すぐさま日傘でガードする。日差しは避けることができても暑さは避けられない。ランチを摂ろうと駅から出てすぐのところにある行きつけの蕎麦屋に立ち寄ろうとしたが、目的地へと向かう途中、ある店が目に止まり、一瞬悩んだ挙句、新しいもの好きの性に従って、蕎麦ではなくパスタを選択した。そこの店は以前、友人と飲んでいた日の夜、ほろ酔い気分で2件目の店を散策していたときに入ろうとしたイタリアンで、当日は満席のため入店を断られた店だった。あれだけ混雑していたのだから、ランチでも大きく外れるということはないだろうと予測し、扉を開ける。店は2階建てとなっていて、店の中央にらせん状の階段があった。階段から降りてすぐのテーブル席を案内され、着席する。メニューはすべてパスタで、ランチセットはサラダとフリードリンク付きで800円前後だった。パスタはS、M、Lとサイズを選択でき、どれも値段は変わらない。こりゃ高コスパかもしれないと期待に胸を膨らませ、食い意地の張っている私は、迷わずLを選択した。飲み物はセルフサービスで、アイスコーヒーを取りに行っている間に、もう席にはサラダが運ばれていた。早い!と自分の選択が間違っていなかったことに心の中で小躍りする。パスタもすぐに運ばれてきて、味も普通においしかった。食べ進めながら、ここはリピありかもなーなんて呑気に考えていると、目の端に黒く動く物体を捉えた。ん?と思ってもう一度見ると、目の前の床を、丸々と太ったネズミが通りすぎてゆくのを発見する。瞬間、パスタを喉に詰まらせそうになった。やばい、店の人に言わなきゃと思ったのと同時に、2階から階段を下りてきた20代前半と思われる女性二人組が「きゃーっ!」と悲鳴をあげた。しかしその悲鳴は、チカンや変質者などに遭遇した際の不快を表すものとは違い、どちらかというとアイドルのコンサートで上げられるそれであった。「やだあ、ネズミ!?」などと言いながら、階段の途中で足を止めている。私は口の中にあったパスタをすべて飲み込んで、店員を呼び、ネズミがいることを伝えた。対応した若い男の店員は、目の前のネズミが階段をすごい速さで登っていくのを、まるで明日も学校で会う友達を見送るようなテンションで「あー」と言いながら見送った。再び甲高い声を上げた女子2人組は、ネズミと入れ違いに階段を下りて会計へと向かう。「私、ネズミって嫌いじゃないかもー」「ってか、かわいいよね」と話しながら。私はその瞬間に世界に絶望した。可愛い?ネズミが?そうね、オッケー、そこはかろうじて認めよう。私も実家でハムスターを飼っていたこともある身だ。しかし、ネズミが出る飲食店=不衛生という方程式は彼女らの中には存在しないのか?それは可愛いものとして、まるで町歩きの際にコロッケなど頬張りながら、目の前を横切る野良猫を愛でる気持ちと一緒だというのか。全く理解不能である。私は自分の選択を、ひどく後悔していた。どうして蕎麦屋にしなかったのだろう。ネズミが出てしまったのは仕方ない。しかし、この店の対応には驚きを隠せない。さらに、"この店に似合いの客"の反応が解せない。何よりもそんな店を、選んでしまった自分の直感を今すぐ日本刀で八つ裂きにしてやりたい。飲食店ではネズミの出没など日常茶飯事なのかもしれないが、これがもし、ゴキブリだったとしたらどうだ?さっきの女性2人組の悲鳴は間違いなく歓声ではない方のそれとなったであろう。そして、ゴキブリだったらあの1ミクロンもやる気というものを感じられない店員も、潰すなりの対処をしようと試みたのではないか。いや、店員の反応は変わらなかったかもしれない。クソだ。クソの掃き溜めみたいな店だ、ここは。1秒でも長くここに居たくなかった。しかし半分以上パスタはまだ皿の上にある。不快な思いをしたからと言って、残して帰るのはもったいないと根っからの貧乏根性がこんな事態でも自動的に働いてしまう自身の性を呪った。ものすごいスピードでサラダとパスタを平らげ、アイスコーヒーを飲み干し、伝票を掴み取ると、レジへ向かう。会計はさっきの店員が対応した。よっぽど、「ネズミ、放置ですか?」って嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、そんなことを言ったところで私には微塵も得がないと思い直し、口を噤む。特になんの謝罪もなく、不愛想な態度で機械的に会計をする店員に、領収書くださいと一言告げた。途端、店員の顔色が変わったのがわかった。あれ、と思うが、その理由はすぐに理解した。そう、この目の前にいるやる気ゼロの店員は、私のことを、覆面調査員だと勘違いしたのだ。覆面調査員とは、普通の客のふりをして来店し、店の衛生面や接客などをチェックする、本社が店舗の現状を評価するために雇う人間のことだ。私も以前、接客業をしている際に、覆面調査員が来店し、店長から評価の周知があったためにそのような存在があることを知っていた。そして、覆面調査員は、必ず領収書を請求するのだ。店員のお釣りと領収書を渡す手がかすかに震えていた。なんだこいつ?やる気ないんじゃなくてただの小心者か?ネズミを退治する勇気がなかったのを、カッコつけでスルーを決め込んだダサ坊か?「あ、あの」その場を立ち去ろうとする私に、店員が口を開く。「さっきは、お騒がせしてすいませんでした」「…いえ」颯爽と店のドアを開けた。媚びるような笑いを浮かべ謝罪とは言えない謝罪をする様子を見て、デジャブに襲われる。小学生の頃の、掃除の時間。先生がいない時間はサボっているくせに、先生の足音が廊下から聞こえた途端、「みんなー、ちゃんとサボってないで掃除しようぜー」とか言い出す男子がいた。当然のようにそいつはクラスで嫌われていた。そりゃそうだ。先生の前でだけいい子のふりして、さらに自分以外の皆はサボっているという最悪の嘘をつくクソ野郎。そいつを、思い出していた。強き者には決して逆らわず、弱き者を挫く。社会に出てもこういう人間は数多に存在する。しかし反面、世渡り上手とも言えるかもしれない。実際に、上から気に入られる人間が出世していくのも周知の事実だ。しかし、そいつが何かで失墜したとき、差し伸べられる手はないだろう。それにしても、昨日、実家に帰ったら、母曰く、4年住んでるのに一度も出たことがないというゴキブリが出た。翌日はネズミとの遭遇。これも夏の風物詩か。照りつける太陽はこんな小さな出来事に腹を立てているちっぽけな私を嗤っている。本格的な、夏が始まろうとしていた。    ー完ー

2019.08.17

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