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 とても小さな小さな島があった。
 そこは誰も近づくことも立ち入ることもできず、故に誰にも発見されることもない島。その島には沢山の”キカイ”と少女が一人いるだけで、他には何もない。”キカイ”に囲まれて過ごす少女がいるだけの”何もない”島。
 どこが始まりだったのかは分からない。ただ一人の住人である少女が、それを知ろうとしないし、誰も訪れないのだから、明らかになることもない。
 少女の1日は近くの小川から水を汲むことから始まる。1日に使う分だけの水をバケツに取り、少し歩いた所にある”キカイ”へと流し込む。あとは”キカイ”と向き合っているだけで、日が暮れると毛布に包まり眠りにつく。この”キカイ”が少女にとっての世界そのものであることは間違いない。そうは言っても、その ”キカイ”自体が世界そのものなのであるのだから、少女の世界も別の意味で世界そのものであると言えるかもしれない。
 その ”キカイ”からはあらゆる音が流れていた。島の中でさえずる小鳥の声だけでなく、島の外の人々の会話や通信さえも拾い上げている。それらの音を聴くことが少女の日課となっていた。
 ”キカイ”から溢れる沢山の声を聴いて言葉を学び、沢山の話を聴いて想像をした。島から出ることのない少女にとって、音以外のものは想像でしかない。もしかしたら、"水"は"リンゴ"かもしれないし"ボール"かもしれない。しかし、少女の世界は音の世界なのだから、言葉や形などどうでもよかった。
 そんな不確定の音の中で最もわかりやすいのは音楽だ。少女は音楽を聴くと、それを真似てよく口ずさむ。自分が上手いのか下手なのかは分からない。しかし、それは楽しいことだった。
 そうして少女の1日は終わっていく。

 ある日のことだった。いつものように少女が”キカイ”の拾い上げる音を聴いていると、
「……ロー、ハロー」
 それは低めだが、それでもどこか幼さを思わせるような感じの声だった。そして何よりも、その声が自分に呼びかけているかのように聴こえた。そんなことはない、と分かってはいてもその声に惹かれるのを抑えられないことが、少女にとっては不思議だった。
「あー……、まだ顔も名前も知らない君に」
 声の主がそう言ってから、しばらくの間を置いて音楽が響き始める。
 弦楽器の音。長く伸びた棒状の木にいくつかの弦が通されていて、その先に空いた穴で音を響かせる楽器。確か、弦がそれぞれで太さが違ったり、指で弦を押さえることで音階を変える。
 何と言ったか。何と言う楽器だったろうか。
 少女が思い出そうとしていると、通った声が聞こえ始めた。
 これまでに聴いてきた音楽の中では、あまり上手とは言えない。声がつっかえたり裏返ったりで、その楽器の演奏もぎこちない。しかし、その音楽は少女を夢中にさせた。何に惹きつけられたのか、何が良いのか、到底説明なんて出来ない。
 不意に音が止まる。
「実はまだここまでしか出来てないんだ。今度はちゃんと完成させておくよ。……それじゃ」
 それを最後に”キカイ”は別の音を拾い始めた。
 少女は思い出すように、忘れないように、そして何よりも楽しむように口ずさむ。その音楽が途切れるまで。途切れたら、また最初から。それをいつまでも繰り返した。

 それからしばらくした頃、同じ声が”キカイ”から聴こえてきた。少女が1日を終え、毛布に包まった時だった。
「ハロー、ハロー」
 その声は以前に聴いた時より少し低くなり、幼さが消えていた。それでも同じ声だと分かるくらいにはっきりとした声をしている。
「荷物の整理をしていたら、古いギターを見つけて、顔も名前も知らない君のことを思い出したよ」
 そうか、あの楽器は”ギター”と言うんだ。少女はその音を思い出す。
「実はさ、完成していたんだ。でも、なんだか恥ずかしくってさ」
 その声も以前を思い出したかのように無邪気にはしゃぐ。少女もなんだか嬉しくなった。
「今更だけど、顔も名前も知らない君に届けるよ」
 そうして、前と同じような間が開き、音楽が響き始める。前のような拙さはどこかへ行っており、一つ一つの音がしっかりと出ている。やがて、流れる声も安定感を持ちゆったりとした気持ちで聴いていられた。気が付くと一緒になって歌っていた。
 そして、初めて聴く部分になるとじっと耳を澄ます。なめらかに繋がったメロディは少女をわくわくさせた。
 やがて歌が終わり、ギターの音も止む。声は何も発することなく時間は流れた。 少女はじっと耳を澄ましたが、何も聴こえず ”キカイ”は新たな音を拾い上げ始めた。
 少女はさきほどの音楽を覚えるように、忘れないように繰り返し口ずさむ。

 それからまた少しした頃、少女がいつものように口ずさみながら ”キカイ”に耳を傾けていると、自分の歌っているものと同じ音楽が流れ始めた。しかし、所々で少し変わっている。使われている楽器もギターだけではないし、言葉も変わっている部分がある。それでも、あの声は同じだった。あの時の声が歌っている。
 その日から、あの声を耳にする頻度が上がり、多い時は1日に3回も4回も流れてきた。音楽は種類を増していき、気付けば両手でも足りない数になっていた。
 しかし、しばらくするうちに段々と声を聴くことがなくなり、数日に1度が数ヶ月に1度となり、やがては数年にあるかないか程になった。それでも少女はいつでも、最初に聴いたあの音楽を口ずさんでいた。

 ”キカイ”があの音楽を拾わなくなってから、随分と過ぎた。少女は変わらず、水を汲み、 ”キカイ”の前で音を聴き、そしてあの音楽を口ずさんでいる。
「ハロー、ハロー」
 前と同じ声だが弱々しい。絞り出すような声。
「顔も名前も知らない君へ。私の声は届いただろうか。私はここにいると分かって貰えただろうか」
 少女はその声の問いかけにじっと耳を傾ける。何を答えるでもない。ただ、その声を一言も聴き逃さんとするように。
 その声は歌い出した。以前のような勢いもない。沢山の楽器も、ギターの音もない。それでも、その声は音楽を創り出している。咳き込みながら、声を途切れさせながら。
 始めはじっと聴いていた少女も一緒になって歌った。そうするとその声が自分の隣にいるように思えた。
 音楽が終わりに近付いた頃、その声が完全に止まった。少女もそれに気付いたが、音楽は最後までやめなかった。歌い終わると ”キカイ”はまたいつものように別の音を拾い上げていた。

 それからも少女はいつまでも繰り返し歌った。この音楽が自分の顔も名前も知らない誰かに届くことを想像して歌った。

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