「デレク・ハートフィールド」を検索するという通過儀礼。と、「デスペラード」
うっかり騙されちゃって検索しちゃうワードの一位と思しき「デレク・ハート・フィールド」は、村上春樹の「風の歌を聞け」に出てくる架空の作家です。
左手に傘をさしてエンパイア・ステートビルから飛び降りてなくなったことになっていますが、傘をさして飛び降りると、普通に自殺既遂率下がるので、やめた方がいいよねと思います。そういうことするなら、ゴダールの「気狂いピエロ」のフェルディナンみたいに、顔に青いペンキを塗ったっくって、体にダイナマイト巻くくらいのほうが良いですね。別に青いペンキを顔に塗ったからって、自殺既遂率は下がらない。…といっても、作品ラストのこの自殺は、葉巻に火つけたら、うっかり引火しちゃって「こんな死に方があってたまるか」ってつぶやいて死ぬ顛末だったと思うので、それが彼にとって幸せだったかは別だけど。
惜しむらくは、フェルディナンが死ぬ様は、観客にしか目撃されていないことですね。漫画雑誌しか読まないフェルディナンが彼女を連れて強盗しまくった挙句にそんな奇怪な死を遂げるという映画だったと記憶するけれど、彼のやったことよりもうっかりな彼のこの死の有様ほど、人に印象をあたえることってないのにね。
閑話休題。デレクハートフィールドの話をなんで思い出したかというと、風の歌を聞けの一節を最近何度も何度も思い返すんですよ。「人生は空っぽだ。しかし、救いはある。なぜならそれはもともとは空っぽではなかったからだ」。
過去に読んだ時には意味不明な言葉でしたけれども、というのも人生が空っぽだという意味も、人生がかつて空っぽではなかったということがなぜ救いになるのかも、私にはわからなかったので。
思うに、一人でいて、何かに幻想をもって、何かを美しいと思って、何かに憧れ、何かになれるというときに、空っぽではないんだけど、そういうさまを空っぽって言っちゃう歌もありますね。イーグルスのデスペラード、それからより具体的な歌詞なら、カーペンターズの青春の輝き。完璧な幸福や才能や永遠なんぞ求めずに、手近にある生活を愛しなさいとだいたいそういう話ですね。ただ、この二つの曲ってるんるん翻訳し始めると、その一言に集約できないような「あいだ」があるので、そんなつまんない話に収束しないのが名曲たるゆえんだなとも思うんだけど。
この文章全体の趣旨は「目撃されないものに意味はあるのか」っていうこと。フェルディナンの死に方。自分自身が感じた、考えただけの物事。目撃されないもの。ずっとそういうことを私は考えている。
それで、私は思うわけです。むしろ、目撃されない瞬間瞬間の、何かを受け取った印象のみに意味があるし、それをどのように写し取っておくか、それを決めておくことは幸せの一つの形だということです。それを何かに写し取る方法がある人は幸せ。
だから、映画パフユームの主人公は幸せですね。彼は何かの印象を香りに書き留めておけたからですね。モーツァルトも、ピカソも、そういった人、誰でも。
人生は実に空っぽだし、明日消えても構わないんだけど、何かあったとすれば、その香りであったり、音であったり、言葉であったり、それだけだと、私は思います。そして、そういう人間に生まれつくことの不幸と幸福というのがあるとも。
そういう人間に生まれつくことの不幸としては、基本的に客観的な幸せはあまり期待できない場合があること。そして、幸福な点としては、自分の自由で幸福にも不幸にもなれるということ。外の景色が何であろうと。
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