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「物わかりのよい女」を卒業した日

わたしは今日、30歳の誕生日を迎えた。

幼稚園の頃から芸能界に憧れを持ち、10代前半でその世界に飛び込んでからは、目先の小さな仕事を必死にかき集めて、“タレント”という定義の曖昧な肩書きを守ることだけに尽力してきた。

そんなわたしの薄っぺらい人生において、若さは大きな価値だった。だから20歳を迎えたときは得も言われぬ絶望感を覚えたし、25歳に突入し「アラサー」になった日には、現実から逃れるためにとんでもない量の酒を飲んで意識を手放した(幸いにも、病院のお世話になるような事態には至らなかったが)。

それほどまでに加齢を恐れていたわたしが、今日、30歳の誕生日を迎えた。

しかし、今のわたしは思いのほかショックを受けていない。強がりではなく、本当に自分の加齢に対して何の感情も動かないのだ。これは恐らく、28歳くらいの頃に「物わかりのよい女」から卒業したことが、加齢の恐怖から逃れられた大きな要因のひとつであると思う。

理不尽な世の中を上手に生きていくためには、高度なスルースキルか、物わかりのよい振る舞いが求められる。でも、わたしは自分の身に起こった出来事を一つひとつ真正面から受け止め、くよくよと無駄に考え込んでしまうタイプなので、スルースキルを体得することは不可能だった。

その代わり、理不尽な事象にもっともらしい理由理屈をつけて「それなら仕方がないか」と、自分自身を無理矢理納得させる術を身に着けた。要するに「物わかりのよい女」を演じる道を選んだのだ。これは時に、自分の心を守る盾にもなってくれたので、必ずしも間違っているとは今でも思わないけれど。

でも、気が付いたらわたしは「物わかりのよい女」の呪縛にがんじがらめにされていた。どんなに許せない出来事も、辛い経験も、すべて自分に落ち度があると思い込むようになり、誰にも助けを求められなくなってしまったのだ。

そんなわたしを救ってくれたのが、偉大な女性たちが残してくれた力強く温かい言葉の数々だった。彼女たちは、わたしが「それなら仕方がないか」と諦めてきた理不尽な出来事を、強い口調でハッキリと否定してくれた。

そして、わたしが加齢に対して得体の知れない恐怖を感じていたのも、すべて、世間の意見をありのままに受け入れすぎていたせいだと知ることができた。

「年齢はただの数字だ」なんて、子ども騙しなことを言うつもりはない。わたしは一年一年、確実に歳をとっている。もしかしたら、女としての魅力や価値は少しずつ目減りしているのかもしれない。でも、それこそが世間から向けられる不躾な物差しであり「物わかりのよい女」をやめた今のわたしには何の関係もないことだ。

わたしは、わたしが「良い」と思える歳のとり方ができればそれでいい。そのためにわたしは、今日も小さな命を燃やしながら、この理不尽な世の中を生きていく。

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