テューバ奏者のアイデンティティ

 よく、テューバのことをよく知らない人向けに、テューバの役割について紹介する時に「みんなの土台になる、縁の下の力持ち」などという表現を使う。小学生の頃からそう信じて吹き続けてきて今に至るのだけれど、コロナ自粛の中で、「それってつまりどういうことなの?」と、アマチュアなりに考えてみた。

 まず、「私たちがステージ上でやっていることの多くは残念ながらほとんどの聴衆の耳に届いておらず、それどころかほとんど認識すらされていない」という悲しい事実があることは明白である。それでも演奏者として、懸命に与えられた仕事を遂行しなければならない。誰からも称賛を浴びることなく(それどころか気付いてもらえることもなく)、ただただひたすらに
・伸ばし
・刻み(頭打ち)
・休符
などの単純作業で占められた楽譜を追うことを苦としないメンタルが求められる。
 テューバ奏者は、いわゆる「目立つ楽器」(何の楽器かは、読む方のイメージにお任せします!)の人たちには絶対に理解されないであろう葛藤と戦わねばならない、という現実は、間違いなく存在している。ダメ押しの一手として挙げるとするならば、「そうしたことを強いられているテューバ吹きのほぼ全員が、自らの希望でやっているのではなく、人数の都合や性別・体格等の都合により半ば強制的にやらされている」ということも決して忘れてはならない。

 では、テューバ奏者は決して救われない、かわいそうな存在なのだろうか。私は決してそうではない、と考える。現に、私の周りの大人でテューバの演奏を続けている方々はみんなとても楽しそうで、生き生きしている人がとても多い。活動にも積極的で、毎週末の練習日には県を超えてまで練習に参加するような熱意に溢れた人もいる。そして何より、みんなテューバという楽器を心から愛しており、テューバ奏者が集まるとテューバに関する話が止まらない。私の主観では、他の楽器をやっている人たちも当然自分の楽器を愛しているとは思うが、テューバ奏者のそれはちょっと異常なのではないか?と思わざるを得ないほどである。

 なぜそこまで愛が膨らむのか?と考えてみた時にふと考えたのは、やはり自分たちに与えられている使命に誇りを持っているからだろうということだ。地味で目立つことのない譜面であったとしても、みんな、心のどこかでは「テューバがいないと合奏は完成しない」と思っているのだろう。だからこそ、自分の出す音には拘りたいし、少しでも良い音を出して、上の音域で主役を張っている他の楽器に安心して演奏させたいと思っているのだ。そういう意味では、もしかしたらあなたが所属している、もしくはあなたが演奏を聴きに行こうとしているバンドのテューバ奏者は、ソリストと同じほどの熱量を持って演奏に取り組んでいる(かもしれない)。

 …以上、完全に自論なので、人によってはハマらないお話かも分かりませんが、今現在の思考を垂れ流しておきたいと思いました。


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