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世界は、あなたが見ている形をしていない?

この間、若松英輔さんと対談をした。

そのときに若松さんは、「この本『目の見えない白鳥さんアートを見にいく』は、多くの人が読み終わらない本だね」とおっしゃった。
「えっつ!どうしよう!?分厚すぎ!?いや、つまんないから!?」
と、どっと冷や汗をかいたわけだけど、その意味するところは別のことだった。(ほっ!)

どうもそれは「本を閉じた後に、今度は自分のこととして考え始める。だから”読み終わらない”」という意味。あああー、それならばよかった。それは素敵な”読み終えられない”だ。こんなかっこいいことをさらっと言える若松さんはやはり若松さんだなあ。

二週間ほど前に、「週間読書人」から誰かと対談しませんか、という話をいただいた時に「ええと、じゃあ若松英輔さん!」と答えたのは私でした。

というのも、若松さんの本を読んでいると、ああ、そうだ、私が言いたかったことってこういうことじゃないか・・・っていつも思ったりする。自分の思考や表現力が足りず書けなかったことが、若松さんの本で見つかることもしばしばある。

現代社会では、こうした大体不可能な営みまでもが、気が付かないところで、誰かの手に預けられているという印象があります。それはどこかですでに「答え」があり、それが与えるのを待っているように感じられることもあります。こうした精神性に生まれたのがファシズム(全体主義)だったのです。
幸福も希望も生きがいも、それぞれ個々別々なはずです。そして、それぞれが見つけ出さなくてはならない。それにもかわかわらず、こうしたものさえ、どこかで売っているかのような世界を作ってしまったのかもしれないのです。世にただ一つのものを取り戻す、それが今、私たちの眼前にある問いなのかもしれません。(『弱さの力』亜紀書房)

去年の夏、これ読んだ時に、そうだよな、と頷いた。その時私は書くということにめちゃくちゃつまづいていたのだけれど、世にただ一つのもの、個々別々の幸せについて書こうというのは漠然と思っていた。それはひとりひとりの幸せの話であり、ひとりひとりが幸せになれる社会の話だった。

私からは、若松さんにそんなことをお話ししたいと思っていたのだが、若松さんはどんどん自分の感想をお話していくので、あまりちゃんとお伝えできなかった。さらに若松さんは「この本は『世界とは、自分たちが思う形をしていない』ということがわかる本」だと言ってくださった。

これについては、私にもすぐにわかった。
この本は「見る」ということが大きなテーマである。人間はカメラではないので、「見る」という客観的にも考えうるシンプルな行為の中には、実は、「記憶」「感情」「価値観」の3つが常にごちゃまぜになって入り込んでいる。見ることは非常に高度な行為だ。

もしなにひとつ「記憶」というものがなければ、たとえ視覚に問題がなくても、実質的に見ることは非常に難しくなる。これは『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』でも描かれているとおりだ(とても興味深い本です)。「見る」は視覚ではなく、脳の問題なのである。

そんなこともあり、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』は、アートというものを媒介にして、「見る」という話から、この「記憶」「感情」「価値観」の話に広がり、さらには人間の「存在」について考えていくものだ。

誰もが同じものを見ても、同じように見ているわけではない。当たり前のことなんだけど、しばしば私たちはそれを忘れてしまう。

私もよく「えー、どうしてわかってもらえないの、あんなに素敵なのに!」「悔しい、私の価値観が否定された!」「わかってもらえない、きーー!」みたいに思ったりするわけだけど、実は本当はそれこそが自然なことなんだよね。そうだ、ちゃんと今日も自分が行ったことを覚えておこう。

それと関連してちょっと帯の話もしたいと思うんだけど、今回の本、帯は作家の岸田奈美さんにお願いした。

さかのぼること二ヶ月ほど前のこと。

いつもの通り「帯を誰に頼むのか」問題が持ち上がった。毎回これは悩むところで、いつもいろんな人の名前が上がる。

今回も作家から研究者、芸能人、ミュージシャンまでいろんな人(星野源さんとかも出た笑)の名前があがった。そんななか「岸田奈美さんにお願いできないか」と言ったのは私だった。

岸田さんの文章はずっとnoteで読んできた。そして、『家族だから愛したんじゃない、愛したのは家族だった』も読んだ。

ご存知の方がほとんどだと思うけれど、岸田さんは弟さんはダウン症で、お母さんは難病患い車椅子生活をしている。別にそれだから頼みたいというわけではなく、ただ岸田さんのものを書くスタンスに惹かれた。そこには悲劇や絶望もあるんだけど、同じくらいコメディも描かれていて、いつも「悲劇と喜劇は表裏一体」と思っている私はどの章も気持ちよく笑ってしまうのだった。

(この本の仕様にはグッと来た)

白鳥さんは世の中的には「障害者」と言うことになるんだけど、美術館が大好きである白鳥さんと一緒に見ることで、自分のほうが得られるものがあまりにたくさんある。わかる人にはわかる感覚だけど、わからない人にはわからないだろうなと思う。お会いしたこともないけど、岸田さんだったらきっとこの感覚わかってもらえるような気がした。

色々お忙しい時期だったようだけど、最終的に承諾をいただき、3週間くらいたっていただいた帯文が次のもの。

誰かと分かり合えない寂しさを、幸福な余白に変えてくれる本でした



え、そうなの??と何度か読み返した。
帯は前後にはコンテクストがないので、簡単には読み解けないこともあるのだが、これが実はそうだった。最初は、普段あんなに楽しそうな文章を書く岸田さんと「わかりあえなさ」「寂しさ」がダイレクトに繋がらなかった。

しかし、嫌だったわけじゃない。もう少し噛み締めて、考えてみたいな、と思う言葉だった。ここには岸田さんの本音があるのかなとも思えた。

考えてみれば確かに今回の本は、分かり合うじことだけではなく、分かり合えなさについての本でもあった。世の中には答えのない問いがたくさんあり、わからないことがたくさんある。むしろ「わかる」は「わからない」の出発点でもあるように思う。

白鳥さんの「鑑賞ワークショップ」(目が見えない人と見える人が一緒に見る)を見学に行ったときに、ひとりの参加者が言ったことが秀逸だった。

「こういう風によく見たら、目の解像度が上がって、色々わかるのかなと思ったのですが、むしろ謎が深まりました!」

これは本当にそうだ。何かをわかる。次の日はもう少しだけわかる、次の日はもうちょっとだけわかる。でもその先には実は広大な「わからない」が広がっている。わかるとわからないは白と黒じゃない。実は「わかる」を突き詰めていけば「わからないがちょっと減った」くらいになる。

人間同士も一緒で、夫婦や親子、恋人、友達、同僚、いくら話したたところで、わかりあえないこともたくさんある。そのもどかしさを抱えがながら生きていくしかない。まさにそこは本の本質的な核心部と行ってもいい部分だった。ううむ、さすがだなあと思った。

私たちは、必ずしも分かり合えなくてもいい。わかりたい、と思う気持ちだけを胸にしながら、最後は分かり合えないかもしれないと思う「余白」を持っていたい。それこそが人を楽にしてくれるんじゃないかな。

ひとはひとりじゃ生きていけないけど、誰かと分かり合えなかったとしても、それはそれで生きていける方がいい。私たちはただ一緒に生きたらいい。それが個々の幸せにつながる。

(動画もつくってしまった。岸田奈美さんの言葉も出てくる)

今日も若松さんが言う「世界の形」について考えている。
あなたの世界の形って、どんな形なんだろうなあ。
ふだん私が見ている形とあなたが見ている形は、全然違うのだろう。
だって、私は他の人にはなれないし、あなたも私になれないから。

この世界に同時に生きている77億人の人の誰もが持つ「世界の形」は限りなく違っていて、時にめちゃくちゃイビツなんだろう。

じゃあ、そのイビツな形の間に生まれた隙間はどうやって埋めるんだろ? 「みんな違ってみんないい」? いい言葉なんだけど、それを標語にしてしまうとなんだか気持ちが悪いのはなぜだろう。もっと違う言い方ないのかな。どんな言葉でも、心がこもっていない場で何度も使い古されちゃうと、雑巾みたいにぐしゃぐしゃになってしまうんだよな。

そんなことをいま私は考えている。


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