食べる

本当は、何も食べずに死んでしまった方がいい。

私の食べられないもの。肉、魚、豆、生クリーム、など。
歳をとるごとに食べられない理由や、細かな分類がはっきりしてきた。

特に肉、魚。

ひどい田舎で育った。窓を開ければ畑の匂いがして、歩けばそれにドブ臭が加わった。
ドブにはジャンボタニシの卵が派手にひっついていて、同級生が傘の先で潰して歩いていた。

稲にはカメムシが大量にいるが、私の鼻には今も匂いが分からない。稲刈り体験の時に鎌で潰していたら、同級生に怒られた。どこもかしこも臭いのに、カメムシをいくら殺そうが関係ないと思った。

田んぼを通って、牛小屋の前を通るのが小学校までの道だった。牛小屋の牛はいつも小屋の木製の柵を舐めていて、木は擦り減っていた。授業でやった石の風化より、木の風化の方が分かりやすい気がした。

牛や豚が、トラックで運ばれていく。この前まで木を舐めていた奴かもしれない。息を止めて見送るときの気持ちを、誰か分かってくれないだろうか。

中学生になる頃、ずっと抱いていた違和感の形がはっきりした。その辺の人以外の生き物を、殺して食べること。
犬猫を可愛いと言ったのと同じ口で、肉を食べること。
肉や魚は食べられないのに、虫は平気で殺す自分。
気持ち悪い。

牛や豚も可愛い顔をしている。テレビではミニブタを飼う番組もやっていた。ミニブタを飼っている人は、豚肉を食べるのだろうか。
顔が可愛いなど関係ないが。肉を食べる人は、それがおかしいと少しも思わないのだろか。

農家の祖父が、よく分からずカニを地面に叩きつけて締めているのを見て、食べられなくなった。
魚を捌いた後の血生臭さが、家の形を作っているようだった。
道の真ん中で死んだ生き物と、それを啄ばむカラス、それらを蹴散らして走る、豚を乗せたトラック。同じフレームに全部入ってしまうのが地元だった。

人に同じことをしないのに、それ以外には平気でやる。そういう人たちが嫌いだった。
ほとんど菜食主義のような食生活を送っていた。

高校を卒業して、一人暮らしを始めた。見かける動物といえば散歩している犬くらいで、運ばれる牛や豚、家に勝手に持ってこられる魚介類は全くない。

その頃はヨーグルトや果物、パンをよく食べていた。
記憶が薄れていく。ハムくらいなら食べられるようになった。豚骨ラーメンも食べていた。麺を食べ終わった後のスープに浮いた、脂が固まるのを眺めていると少し気持ち悪かった。
あまり考えないように、周りに気を遣わせないように、少しずつ食べるようになった。

今も食べられないものは多い。肉はそれ自体に味が濃く付けてあるもの、魚は白身だけ、食べている。
外では少し噛んで飲み込んでいる。それが必要な関係性の食事は、あまりしたくないと思う。

スーパーで肉売り場を通る時、いろんな形態の死骸が並んでいると思う。目を細めながらミンチを買う。
豆腐と混ぜて、ハンバーグやタコライスくらいなら作れるようになった。精神的に参っていると、自分では食べられないけれど……


以前は食べていたけど、よく考えたら嫌いなものもある。豆や生クリーム。

好きなものだけお腹いっぱい食べて、幸せに生活できる年齢でもなくなってしまった。サプリで誤魔化して、なんとかなっている。恐らく。

幸運なことに、食べないことを損しているだとか、無理強いさせられることなくこれまできた。
両親はもう還暦だけど、未だに焼肉の食べ放題に行くらしい。朝食を抜いて。
誘われないことを有り難く思う。


あと10年もしたら、焼肉も楽しくいけるかもしれない。
でもやっぱり、帰省する度に感覚が補正されて食べれないかも。何にせよ困ることもなく、生活している。

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