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「堂々としている自分」はなんと甘美な幻か

ありんごです

私は堂々としていたかった

私は、引っ込み思案で緊張しいで人に何か言われると上手く言い返せず泣いてしまう子どもだった

でも、堂々としていてキラキラしてお遊戯会で主役になっちゃうようなクラスメイトが羨ましくて、親とか先生に褒められたくて、私ももっと見て見てって思って、表舞台に出てみることもあった

でも、いつも上手くいかなくて、凹んでいた

堂々としようとしても、それはメッキなのだ

いつもおどおどびくびくして、本当の自分は堂々となんて「していない」と毎回思い知るのに

いい加減わかってくるのに

「堂々としたい」と思うことをやめられない

テニスを上手くなりたいと思ったらテニスを練習するだろう

同じように「堂々としたい」と思ったら、堂々とする練習をすればいい

そう思っていたからそうした

でも全然ダメなんだ

練習すればするほど、手から全てがすり抜けていった

もともと手に何も持っていなかったのかもしれないけれど

空虚で苦しくて心の中はのたうち回っているのに、それでも「堂々としたい」と思うことを、堂々とすることを、やめられなかった

やめても、キラキラに憧れて、みんなに見て欲しくて、またそのループに戻ってしまった、そして苦しくなる繰り返し

今はそこからほぼ抜け出せているから、そのプロセスは今度書きたい

今だから振り返って思うのだが、考え方として大切なのが「堂々としたい」と「堂々としている」は全く違うということだ

そして堂々としていない(できない)ことは別に悪いことでもなんでもなく、個性だってことだ

堂々とした風格が出ないのも、なんだかんだでおっかなびっくりでしか大勢の前には出られないのも、全部全部個性なんだ

変に風格出して頑張ろうとしても、滑稽になるか、身体が壊れるかどちらかだった

あの頃、私が引っ込み思案でおとなしい子どもだった頃、私には好きな人がいた

その人はいつも赤い服を着ていて、幼いながら将来かっこよくなりそうなかわいい顔をしていて、すらりと細いながら筋肉質で、足が速くて、なによりとにかく物怖じしない人だった

怖さとか暗さはないので凄みもなくて、人を脅したりもしないのに、なんというか人から甘く見られることもなく、好き勝手やれる人だった

恐れず感情を表現して、やりたいようにやる人だった

そんな自由さが恐ろしくて、でも、好きだった

まさに堂々としている人だった

でも私には優しかった

私はその頃からよく分かっていた

その人の何がこんなに私に響くのか

なぜ目を離せないのか

心惹かれたのか

自分に決定的に欠けているものを持っていることへの畏怖と憧憬だ

思い知りたかったのだ

違うんだと

いい意味で諦めたかったのだ

本当はずっとずっとずっと

努力で全てが叶うと信じることは救いと夢をもたらすと思われがちだけど、永遠の渇望と深い絶望と時間の浪費をももたらすことを、覚えておくと、決めている

やっと自分の道を歩ける

そうなるまでのかつての道のりを定期的に心に思い描くようにしている

「堂々としている自分」という幻影はなんと甘美なものだろうか

だからこそもう二度と囚われまい

人生が何年あっても足りない

さあ歩き出そうか


ありんご




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