怪物とは誰のことか―写真家ダイアン・アーバス回顧展


※TEST 「感覚をひらく」Facebook掲載コラムを一部加筆・修正して転載しています。

伝説の写真家、ダイアン・アーバスの巨大回顧展がヨーロッパを巡回している―――。その噂を耳にした私は、悩む間もなくベルリン行きのチケットを買っていた。


とても個人的な話になるが、私は生涯をかけてこのダイアン・アーバスという人物が遺した写真と付き合っていきたいと思っている。最早個人の好みのレベルを超えて、写真に取り憑かれていると言ってもいい。1971年に自ら命を絶ったこの女性の写真家は、写真史を語る上で決して無視できない存在だ。なぜ、今でも彼女の写真が人々を惹き付けてやまないのか、なぜ私は今でも彼女のことが忘れられないのか、その真相を探るべく、私はベルリンの美術館Martin-Gropius-Bauで開催されたダイアン・アーバス回顧展へと向かった。


先に告白すると、私は当初この写真家が嫌で嫌で仕方がなかった。はじめて彼女の写真を見たとき、奇妙な嫌悪感が体全身を覆った。確か、最も有名な双子の写真だったように思う。ただ同じ顔の子供が同じ服をまとってこちらを見ているだけにも関わらず、それが異様なほどに不気味だったのを覚えている(この写真がもたらした影響は、後にスタンリー・キューブリック監督『シャイニング』に登場する双子のシーンへと繋がっていく)。嫌悪の理由は今でもうまく説明できない。ただ釈然としない何ものかが心の奥底に深く刻み込まれ、悔しさのあまり何度も何度も写真を見返していた。気が付けば、彼女の死後に出版された一冊の写真集『untitled.』は、人生で最も見返した写真集となっていた。


『untitled.』は様々な人物のポートレートで構成され、その多くにフリークスたちの写真がある。性同一性障害、巨人、小人、一卵性の三つ子、サーカス団やヌーディスト村の人々、ダウン症患者の子供たち……社会の中で異端とされる彼らの肖像が、そこにはっきりと写し出されている。アーバス論ではこのフリークスへの言及がよくなされるが、一方、彼女は街にいる「普通の人々」も撮っている。実は、私が不可解さを感じたのは後者の方だ。若い男女のカップル、家族、赤ん坊、少年……その誰もがいたって「普通」であり、容貌に少しもおかしなところは見受けられない。しかし、アーバスの写真には確実に、不穏さを感じさせる何かがある。彼女がとらえた一瞬の表情は、人間に内在するグロテスクなものを引きずり出してくるのだ。


展覧会場では、『untitled.』以外の未発表作を含む膨大な量の写真が公開されていた。一枚一枚をゆっくり眺めていくと、言いようのない感情が込み上げてくる。それは当初見たときのような嫌悪感ではなく、何か、心の奥底に眠っていたものに再会したような気分だった。ふと、目が離せなくなった一枚の写真がある。そこには、怪物のマスクを被った5人の少年たちの姿があった。この写真が妙に愛おしく感じられると同時に、アーバスが写したものは、こんなキュートな怪物だったのかもしれないと思えた。 私たちが「普通」と信じている幼子や青年の姿から、アーバスは怪物を見つけ出す。フリークスも社会の怪物のひとつだろう。その怪物とは、私たちの顔の一部であり、人間が内包するひとつの真実なのかもしれない。


「写真に撮らなければ、私にしか見えないものがあったと信じています」――この生前のアーバスの言葉を何度も咀嚼している。会場最後の部屋には、精密に収集された彼女の手記や記録が並び、中から抜粋された印象的な言葉が掲示されていた。いくつかのコンタクトシートも展示され、そこではいわゆる「普通」の肖像写真も写っていることに気が付く。被写体の特殊性ではなく、彼女が選び抜いたまなざしこそが、怪物を見つける行為だったのだろう。ふと、今ここにいる自分は果たしてどんな顔をしているのだろうかと疑問が湧いた。普段、私たちは鏡の前で自分の「顔」を認識し、自己イメージを脳内に作りあげて日々過ごしている。だが、一度アーバスの写真の前に立つと、自分の知らないもうひとつの「顔」が暴き出されるようだ。


「アーバスの写真って永遠じゃん」と語った写真家がいた。私は彼の言葉に心から同意し、永久を分かち合える幸福に喜びを覚えた。どれだけ時代を経ても、アーバスの写真は人間とは何かを永久に思い起こさせてくれるのだ。いつか自分が老いて死ぬ頃には、アーバスの写真を眺めながら「自分もこんな人間だった」と思って人生を終えたいものだ。

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