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ちいさなクラッカー

 画面に並んだ彩度の高いフリー画像の数々。青空に向かって差しのべられた手のシルエット。真っ赤なマントをはためかせ太陽をながめる背中。淡いピンクの毛布にくるまれ、こんこんと眠りつづける子猫。画面をスクロールするたびに、私は軽く絶望していた。まあでも仕方がない。Webメディアが本業ではないのだから、多少の壊滅的センスには目をつむるべきであろう。と、自分に言い聞かせつつ「ご費用」のページを開くと、絶望は決定的なものとなった。初回75分1万円・通常50分1万円。べらぼうに高い。高いし、初回75分なら二回目以降はせめて60分だろう。病んだ人間の話なんて毎度丸一時間も聞いてられるわけがないでしょう、という態度が透けてみえていやらしい。せっかくだからカウンセラーの顔でも拝んでやるかと「スタッフ紹介」のページに飛ぶと、仕立てのいいスーツを着て、やたら脂ののったおじさんとおじいさんの中間くらいの生きものが、虚空を見つめて力強く微笑んでいた。バブル世代の人々は妙に肌つやがいいけれど表情の作り方に品がない。なんだかこれ以上ないくらいにばかばかしくなって、すべてのタブを閉じた。

 午前10時50分。次の季節の予感を背負った雲が重たく垂れこむ空の下、私は近所のカウンセリングオフィスを片っ端から調べていた。どうしようもなく話を聞いてほしい気分だった。否定せずに聞かれたかった。あわよくば肯定してほしかった。ここまで生きのびてきた道のりを、不恰好な足取りを。だからと言って、「話を聞くプロ」なんかを自称するどこの馬の骨とも知れない誰かに泣きつくのは、最初から不正解だったのだろう。物分かりの悪いおじさんに時代錯誤の説教をされるのは鳥肌が立つほど嫌いだけれど、物分かりの良いおばさんに「つらかったですね」なんて涙ぐまれた日には、無差別殺人事件でも起こしてしまうかもしれない。

 けれど、話の核を一言で表すなら、それはやはり紛うことなき「つらかった」だ。この二十年と少しのあいだ、私はずっとしんどかった。

 昔の記憶を掘りかえしてみても、出てくるのは嫌だと感じたことばかりだ。

 保育園。ぜんぶ食べきる前にごはんの時間が終了した。「わたし柿嫌いだからラッキー」と友達に言ったら、聞いていた先生に叱られた。アンラッキーだった。おゆうぎ会のソーラン節がうまく踊れなかった。一人だけ残され「もっと腰を落とせ!」と指導されたけれど、普通に言葉の意味がわからなかった。ある日Tくんとレゴをしていたら、知らない男の子がやってきて「Tくんはほんとはおれと遊びたいんだよ」と言った。やさしいTくんは分かりやすい困り顔で私と襲来者とを見比べるばかりだった。

 小学生。帰宅ルートにかまきりがいた。拾った。家の近くで猫もみつけた。可愛かったからかまきりをあげた。猫はかまきりを餌とみたのか玩具とみたのか、目の色を変えて仕留めようとしていた。こわくなって走って逃げた。ランドセルを下ろしてからも、かまきりが私の浅はかな好奇心のせいで死んだかもしれないと思うとおそろしくて、父の仕事部屋のドアを叩いて号泣した。運動会は嫌いだった。足は死ぬほど遅いし、暑いのも寒いのも疲れるのもばかばかしかった。練習中に「つかれたあ」と独りごちたら先生に「それはみんな一緒、わざわざ口に出さない!」と注意された。納得いかなかった。学校であったことを母に話した。「しゃべり方が気持ちわるい。やめて」と言われた。泣いたら悪い気がして、とりあえず薄ら笑いを浮かべた。

 中学生。あまり記憶がない。平和に過ごしていたのかもしれない。一度だけ、同じグループでつるんでいた子の気まぐれで仲間外れにされた。一番の仲良しの子も気まずそうに私を無視した。それだけ。

 高校生。一年のころは細胞がはじけ飛ぶように楽しかった。親友ができた。特進クラスだった。クラスで一番か二番目に可愛いと評されていたけれど、男子より女友達といる方が楽しかった。初めての彼氏とはマッドマックスを観てタピオカを飲んであっさり別れた。つきあってからべつに好きじゃないと気づいたのだ。そして受験生になる年の春、親友は留年して退学、音信不通になった。世界一崇拝していた相手がこつぜんと消えて、私は私を保てなかった。学力や学歴にすがるようになった。親に「人を見下すな」「お前はいつもえらそうだ」と必死に諭されても、私自身どうすることもできなかった。

 大学生。それなりに箔がつく大学の看板学部に入った。友達はできなかった。はじめこそ努力したもののみんなが同じ顔に見えていて、夏休みが終わり教室に入った瞬間、クラス全員の名前が抜け落ちてしまっていた。政治の勉強はつまらなかった。単位を落としまくって鬱と診断された。Tinderにのめりこんだ。知らない世界の人たちとつながっていると、自分はまだぎりぎり踏みとどまれている気がした。死ぬほどダサかった。けれどインターンも弁論部の部長もやっていたから優秀だと勘違いされることが多かった。病気は理解されず、受験期にできた親との溝は深まる一方だった。

 こうして書きだしてみれば、ぜんぶ普通のことなのだ。私の身に起こったことは、誰だって一生に一度くらい経験しそうな範囲から外れない。けれど私は、非常にシンプルな人生の大前提を呑みこめないまま育った。嫌なことは一秒だってしたくないのに生きるためにそれが必要、という。みんな避けては通れなかった。可愛がったわりに一切懐かなかったハムスターの死も、心肺停止事故がおこらないのが不思議なほどに冷えきったプールも、なぜか「図」という字だけが覚えられず三回追試になった漢字テストも。そしてそれらをなんとかやり過ごした私が行きあたったのは、私の存在意義を根底から揺るがす矛盾だった。つまり私が居ることが、親の負担になっていること。

 小学生のころは、両親が喧嘩ばかりなのがただただ悲しかった。「りこん」がとにかくおそろしく、私がつなぎとめなきゃと割って入って飛び火を食らったりしていた。中学生になると、我が家の経済状況が傾いていることになんとなく気がついた。「Kくんは家で洗濯物たたみとお風呂そうじの当番なんだって」は「仕事で疲れ果ててるんだからちょっとは手伝いなさいよ」に聞こえ、「Nちゃんオール5なのに塾も行ってないらしいよ」は「努力でなんとかできることに払うお金はないわ」に変換された。それでもいい子になりきれなかった私は常に後ろめたさに苛まれつつ、でも自分の意志で生まれたわけじゃないのに何故がまんがまんで生きていかなきゃいけないんだという思いもあって、高校に入るころには一つの思想を織り上げていた。出産っていうのは、解決できない矛盾を生み落とすことなんだと。

 「生まれてこなければよかった」という言葉に出会ったのはいつだっただろう。まるで革命だった。自分が生まれない世界線なんて夢にも思わなかった。けれど、今まで思いつかなかったのが不思議なほどにしっくりくる。生きていたらお荷物。死んだら一生ものの傷。じゃあ最初から存在しなければよかった。パンドラの匣をあけた気分だった。「私なんか生まなきゃよかったのに」と思うことで自分の傷を舐める罪悪。嵐のごとく吹き荒れる自罰感情は、それまでと比較にならないレベルだった。幸せな未来図をえがいて子供をつくる決断をした若かりし父母を思うと、涙が出た。親をばかだと思う。子供を一人育て上げるのに二、三千万円かかるという。それだけの大金を払って、どんなモンスターを引き当てるかもわからないのに、決して途中で降りられない賭けなのだ。けれど若く美しくはちきれんばかりの力をもった二十代が拡大レンズで希望をみてしまうことを誰が責められるだろう。自分をばかだと思う。親を恨むことのみが思考停止する方法だった。親への憎悪がまた自分自身を痛めつけることを知っていても、すでに万策尽きていた。

 親は私の様子がおかしいことに気づいていて、「不満があるなら言ってよ」と何度も問いただした。けれど、彼らが私にする八つ当たりなどは世間一般で許される範疇のもので、しかもそれが仕事や子育てのストレスに起因していると知っていたら、伝えられるわけがなかった。たまに我慢しきれずに「こういう言動に傷ついた」と話すと、「被害妄想だ」と怒鳴られる。親として、大人として間違った反応だと感じつつ、私が傷つくことによって彼らも傷つくということを再確認するには十分な出来事だった。そうして、私が我慢すればすべて丸くおさまるという考えのもとに編まれた〈いのちだいじに〉作戦は、しかしまったく通用しなかった。昭和生まれの父母は、趣味はサブカル寄りのくせして、「拳で殴りあえば全員友達」的世界観に生きている。だから本音をぶちまけあってぶつかりあうことは彼らにとって必須なのだ。住む世界が違う。私のもつ刀に柄はない。相手に一太刀浴びせようと握りしめればたちまち、己の手のひらもずたずたになる。

 しかしそんな苦闘の日々も、そう遠くない日に終わりを迎える。三月一日に引っこすことが決まった。待ち望んでいた一人暮らしだ。今朝初期費用を振りこみ、ついでに必要なものを二、三買い足した。シーツ、うがいコップ、米びつ。シーツ、うがいコップ、米びつ。呪文のようにとなえながら歩く道には、すでに桜の香りが漂っているような錯覚におちいる。感傷に浸りたくはなかった。私は結局さいごまで彼らと真っ当に向き合えなかった。センチメンタルになる資格はないはずだ。それでも、ここ数年の時間がまとまりをもって、夢のようにふつふつと甦ってくる。

 2019年末、コロナ禍がはじまった。多くの人が物理的にも精神的にも分断され、錯綜する情報の洪水のなかで、一人ひとりが試された。何の試験の時間なのかさえわからないまま、自分を信じてかきわけるしかない日々だった。汗ばむ陽気にいい加減マスクが鬱陶しくなってきたころ、三浦春馬が死んだ。同時に、母の挙動がおかしくなった。三浦春馬の死亡は他殺によるものだったと、気味の悪い配色におぼつかない日本語でつづられたブログ記事をいくつもLINEに送りつけてきた。食事中のテレビは慈悲なく消された。洗脳されるからだそうだ。会話の種が摘まれたことにもまして、その異様な空気が私たちを寡黙にさせた。母と同じ寝室の父は、朝から晩までいわゆる陰謀論のひな形を念仏のようにくりかえされて、気が狂いそうになっていた。テレビはついに布をかけられ封印された。目に入るだけで集中が削がれ脳に悪影響があるらしい。明らかに人が変わっていた。そんなのはおかしいと説得しようとすると、ぎらついた目で「うるせえ黙れ!」と叫んだ。そんな暴言を吐く人ではなかった。しかし私はこの状況をそれなりに受け入れていた。むしろ愉快にすら思っていた節がある。ありきたりな悲劇の筋書きに沿ってとんとん拍子に進んでゆく日常を小気味よく感じた。母が仇役を演じてくれるなら、私は被害者でいられた。母が大いなる悪に支配されているなら、私は戸棚の上でふわふわと舞う罪なき埃に過ぎなかった。

 しかし、台風が突如として消滅するように、母の病は突然引いた。アルコール消毒すら拒んでいた彼女がワクチンの摂取率の報道をみて、「どうして打たないんだろうねえ」などとのたまっていた。呆気なさすぎる幕切れに笑うしかなかった。少し前に「電磁波が危ない」などといってネット断ちをしていて、ついに来るところまで来たなと思っていたけれど、怪しげなサイトたちと距離を置いたおかげで頭が冷えたのかもしれない。陰謀論が自浄作用をもったプログラムだとは知らなかった。こうして一つの特別公演が終了し、私たちはごく平凡な家族としてそれぞれの役柄に戻っていった。大きな波風はなくたんたんと、弟の受験、私の就活等のイベントが訪れてはまた去っていき、とうとうこの家を舞台にした終章がやってきた。

 先週、物件が決まったことを親にLINEで報告した。前から三月には家を出ると伝えてあったはずなのに、今さら知ったかのような反応だった。父は、近いから自転車通勤にできるねと、自転車通勤のメリットを五個も十個もあげつらっていた。母は住むあたりを調べて、「商店街があって銭湯とかもあっていい町なんだよ」としきりに父に宣伝していた。そして二人とも、何度も何度も「もうすぐなんだね」と目を見ひらき、かろうじて持ち上げた口の端から漏らしていた。二人を安心させたくて、一年前の春ごろからずっと準備していたことを告げると、「しっかりしてるなあ!」と口をそろえた。

 夕飯後、父はいつも通り自分の居室へ引き上げた。母は、リビングで何をするともなく、幾度となくため息をついていた。たまに我に帰ったように、「つみたてNISAやったほうがいいよ」と唐突な提案をしたり、「荷ほどき手伝いにいこうか?迷惑じゃなければ……」とうつむいたりしていた。荷物量は最低限におさえていたため一人で片づけてもさほど時間はかからないはずだったけれど、言葉に甘えることにした。引っこしの翌日に部屋を見にきてもらい、近所のお店で家族そろって食事をとる相談をした後、母はしばらく黙りこんで部屋を出ていった。かと思うと、数分足らずで戻ってきた。そして、今日初めてこちらを見て、「おめでとう!」と言った。クラッカーが弾けるごとくに高らかな発声だった。目は真っ赤に充血していた。そのままの勢いで、「ちょっと抱きしめさせて」とソファに座る私に倒れこむ。四人暮らしには手狭なこの家のリビングは、いたるところに物が置かれているため、斜め左からの不恰好なハグになった。母は本当に小さかった。歳のせいではない。化粧をして出かける朝は、娘の私がどきっとするくらいに綺麗だ。もともと身長が143cmしかない。143cmしかないのに、とてもとても気が強い。人を傷つける言葉遣いがうまい。もしかしたら、小さいがゆえに身につけた武器なのかもしれない。私は余裕のあるふりをして、ゆっくりと母の背中をさすった。その晩は寝つけなかった。誰のせいにもできない夜は、二十年間で一番つらい。深夜、階段をおりていくと明かりがついていて、母が一人ソファに座っていた。声をかけてはいけないと察し、そっと自室に戻ってまんじりともせず朝日を待った。

 かけちがいとは、最後のボタンまできてようやく気づくものである。さらに残酷なことに、それは選択を誤りつづけた結果ではない。たった一つのずれがフェータルになる。私と親との軋轢も、きっとはじめは些細なささくれ程度のものだったのだ。それがそのまま修正されず、とうとう巣立ちのときまで引っ張られてしまった。しかし、人生をシャツを着ることにたとえるのならば、人の一生は宇宙の歴史とでもいうべき規模だ。

 最近、カリフォルニアの動物園でコンドルが処女懐胎したというニュースが流れてきた。これももしかしたら、神様の犯したちょっとしたミスなのかもしれない。けれど地球は今のところ秩序をたもっている。空からあらたな時間が降ってきて、過去の時間はぐんぐんと押しながされてゆく。ささいな成功も失敗も、きっとこの壮大な流れのなかに吸収される運命なのだろう。だからきっと大丈夫。すべては帳尻が合うように動いている。そう信じて、私は来月家を出る。

photo by Kanki Tsunemura

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