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小説:あなたがあなたらしく生きられることを祈っています

29歳になる誕生日、僕は10年前にとある女の子から言われたとある言葉を、ふと思い出していた。今は、ほとんど誰にも会わない生活を送っているので、僕の誕生日を一緒に祝ってくれる人間なんていなかった。そして、僕が一緒に誕生日を祝う相手も、同様にいなかった。しかし、10年前のあの日、あの子は僕の誕生日を僕と一緒に祝ってくれたし、僕もあの子の誕生日にあの子の誕生日を一緒に祝った。二人とも冬生まれだった。

僕たちは同じ高校に通っていた。僕たちはどちらも友達が少なかった。いや、僕に関しては、友達なんてものはあの子しかいなかった。高校を卒業して、僕は進学はせず、適当な自動車の製造メーカーに就職した。あの子は絵を描くことが好きだったので、県内の美術大学に通うようになった。二人とも実家を離れ、一人暮らしをはじめた。
大学では、モデルをよんでスケッチをしたりデッサンをしたりする授業もあったらしい。僕は絵のことはよくわからないけれど、あの子の絵には独特のタッチがあるように思えた。それは、ただのスケッチでもクロッキーでもデッサンでも、一目であの子の絵だとわかるような、明瞭な個性だった。とはいえ、意識して自分のタッチを演出しようとしているという印象は受けなかった。それはただ、自然に滲み出るあの子の個性だったように思う。

あの子に頼まれて、何度かスケッチのモデルをしたことがある。その日も僕はあの子の部屋にいた。新生活一年目のとある夏の午後。とても暑い日だったけど、蝉の鳴き声は聞こえなかった。あの子の部屋は、18歳の女の子の住む部屋にしてはとても簡素だった。壁際には画集や図鑑が数冊。開け放された窓際にはベッド。ポスターなどの装飾の類は一切ない。カレンダーすらかけられていなかった。少し特異な点としては、部屋の中央に絵を描くための大きなイーゼルがひとつ置かれていることくらいだけど、絵を描く人間ならあぶん誰でも持っているのだろう。しかし、机すらないことには驚いた。あとから知ったことだけど、あの子は床に食器を置いてご飯を食べていたらしい。

僕はベッドに座ってじっとしていた。あの子はイーゼルにスケッチブックを立てかけて、カッターで先端を削った鉛筆を左手に握っていた。
「このまま、じっとしていればいいのかな?」と僕は尋ねた。
「うん。わるいけど。ありがとう」あの子は小さく透き通った声で言った。あの子は傷ひとつついていない新品の眼鏡をかけていた。

部屋はとても静かだった。遠くのロードノイズがかすかに聞こえる。あの子は冷静に、丁寧に、鉛筆を紙の上に滑らせた。僕の顔、僕の首、僕の腕、僕の服、僕の足を観察して、また紙に目線を戻した。絵を描くことって楽しいのだろうか?

僕は学生時代の選択科目では音楽の授業を選んでいた。美術にせよ音楽にせよ、どちらも等しくそれほど興味はなかったので、どちらを選んでもよかったのだが、僕たちの通っていた高校の音楽室は校舎の5階に教室があり、窓の外には海が見えた。授業は退屈だったけど、海の見える教室で天気のいい日に歌を歌うふりをして、窓から海を眺めるのは気持ちがよかった。あの子はもちろん、美術を選択していた。その頃は、あの子が絵を描くことが好きだなんてことを、僕は知らなかった。美術大学に進学するなんてこともまったく予想もしていなかった。僕から尋ねない限り、あの子は自分に関することはとくに話そうとはしなかった。

30分ほどして、「ありがとう。もう体制を崩していいよ」とあの子は言って、鉛筆を床にそっと置いた。
「描けたの?」と僕は尋ねた。
「うん。でもこれは練習だよ。作品ではない。もちろんね。」

何枚かのスケッチを見せてもらって「とても上手だね」と僕は言った。気の利いた感想なんて言えないので、思ったことを素直に言った。
あの子は「疲れたよね」と言って、紅茶を入れてくれた。

その年の秋から、僕の所属している会社は繁忙期に入った。それまでは、週に2度ほど、あの子と会ってたわいもない雑談をしたり(二人とも口数の少ない方なので、ほとんどは無言の時間をただ共有していた)、たまにあの子のスケッチのモデルを務めたりした。僕は安いカメラを買ったので、あの子や野良猫や風景の写真を撮ったりもしていた。

仕事が忙しくなり、残業も増えてなかなか自由に過ごせる時間が減ってしまった。僕の勤めている会社は少し特殊な自動車を製造する会社だった。ある日、溶接をしていて腕を火傷して会社を早退したことがあった。あれは秋の終わり頃だっただろうか。もともと長時間労働で疲労が溜まっていたので、仕事を休むいい口実ができたとか、呑気なことを考えていたことをうっすらと覚えている。

火傷と言っても大したことはなかった。だけど、そのまま家に帰る気にもなれなかったので、サイクリングがてら秋の公園に寄り道した。赤や黄色の落ち葉が街路いっぱいに積もっていて、踏むとくしゃくしゃという乾いた音がした。空はどこまでも青く澄み渡り、青空と紅葉のコントラストは綺麗だった。

僕は鞄からカメラを取り出し、風景の写真を撮りはじめた。ふと脇のベンチに目を向けると、灰色の猫が丸まって眠っていた。猫はどこかで飼われているのだろうか、青色の首輪をつけていた。その猫の周辺には安らかで平和な時間がゆっくりと流れていた。

公園の中央に小さな噴水が設置されている。その噴水の写真を撮ろうかと思ったのだが、今日は水は出ていないらしい。噴水の向こう側に、人影が見えた。

その服装と佇まいには、見覚えがあった。何気なく回り込んで、その子の前に僕は立った。突然目の前で立ち止まった人物に気づいたその子は、僕を見上げて、それが僕だと気づいてこう言った。

「あれ? どうして君がこんなところにいるんだろう?」
「仕事で軽い怪我をして早退したんだ。だけど、時間を持て余したものだから、散歩をしていた」と僕は言った。
「そうなんだ、大丈夫?」とあの子が少し心配そうに言ったので、僕は包帯を巻いた腕を見せて、大袈裟に痛いふりをしてみた。だけど、本当は大した怪我ではないのだ。

あの子の膝の上には小さなスケッチブック、隣には尖った鉛筆と、色鉛筆もあった。目の前の風景をスケッチしていたらしい。とても穏やかな秋の午後だった。

僕は隣に腰掛けた。
「絵の練習を中断させてしまったね。気にせず続けていていいよ」と僕は言った。
あの子は「うん」とつぶやいて、また目の前の風景を紙に写し始めた。あの子は一度絵を描き始めると、とても強い集中力で取り組む。
僕はカメラを取り出し、あの子の描いてるのと同じ風景を写真に収めてみた。街路は奥まで続いており、5メートルおきくらいにベンチが設置されていた。僕らの他に人はいなかった。僕は何気ない風を装って立ち上がり、スケッチブックに向かうあの子を写真に収めた。あの子は、写真を撮られたことには気づいていない様子で、スケッチブックのページをめくって新しい絵を描き始めた。

そして冬になった。今年の冬は、例年より冷える。その日はクリスマスの数日前の僕の誕生日だった。あの子はクリスマスが終わってから誕生日を迎える。僕たちは今年で19歳になる。

友達の少ない僕だけど、誕生日だからといって、とくに家族と会おうと言う気にもならなかった。そもそも、誕生日というものをとくに楽しいイベントだと思ったことはなかった。子どもの頃、僕は家族から「誕生日プレゼントにはなにが欲しい?」と尋ねられた。しかし、僕には欲しいものなんてなにひとつなかった。正直にそう伝えると、家族はあまり嬉しそうな顔はしなかった。僕は子どもながらに気を遣って、けっきょく適当な本を買ってもらったりしていたのだった。

その日は会社も休日だったので、いつものようにあの子の部屋に向かった。またモデルをやってほしい、とあの子に頼まれていたのだ。わずかに雪が積もった12月の夜だった。あの子の部屋のチャイムを押すと、数秒経ってあの子がドアを開いて僕を部屋へと招き入れた。僕は、脱いだモッズコートを適当に畳んで床に置き、そのままいつも通りベッドに腰掛けた。

あの子のイーゼルは畳んで壁に立てかけられていた。スケッチブックは棚かどこかに片付けてあるのか、部屋の中には見当たらなかった。僕はしばらく無言であの子が絵を描き始めるのを待っていた。しかし、あの子は一向に絵を描き始める素振りを見せず、椅子に座って僕に無言で微笑みかけていた。

「どうしたの? 絵は描かないの?」と僕は尋ねた。
「どうしようかな〜」とあの子は言った。普段、感情表現がわりと淡白なあの子にしては珍しく、少し愉快そうな表情をしている。

そういえば昔、何気ない雑談の中で、僕とあの子の誕生日が近いことを僕たちは発見した。
「じゃあ、二人分いっぺんに祝うとお得だね」と僕は言った。
あの子は、少し不満そうな声で言った。
「いくら誕生日が近くても、いっぺんに祝うなんてそんなのもったいないじゃない。あなたの誕生日を私はあなたと祝うし、私の誕生日をあなたは私と祝うの。きちんと誕生日を二回祝うんだよ」
僕は、そもそも誕生日というものに対して、特別な思い入れもなかったので、正直二回も祝うなんて面倒なことをするな、とか思ってしまった。
あの子は続けて言う。「それに、二人の誕生日の間にはクリスマスもある。12月は楽しいイベントが3個もあるね」
あの子は心なしか少し嬉しそうだった。
そんな話をしていたことを、ふと思い出した。

なんとなく無言の時間に居心地の悪さのようなものを感じた僕は、「部屋あったかいね」と言った。外は寒かった。雪が積もっているので、自転車には乗らず、30分ほどかけて歩いてここまでやってきた。とはいっても、寒いのはとくに嫌いではない。むしろ空気が清潔な感じがして、好きだった。
あの子はふいに立ち上がり、キッチンへと向かった。そして、4号ほどの小ぶりのホールケーキと食器とナイフとフォークをお盆に乗せて戻ってきた。

そして、無言のまま、あの子は床の上でケーキに蝋燭をさしはじめた。
僕は「もしかして、これは自分でつくったの?」と尋ねた。なんとなくそんな気がしたから。
あの子は嬉しそうに答える。
「そうだよ。今日はあなたの誕生日でしょう。だから作ってみたんだ。だけど、二人で食べるには、ちょっと量が多すぎたかもしれないね」

あの子がわざわざ今日の僕の誕生日のためにケーキを自作してくれたことに驚いた。そして、その出来栄えにも驚いた。白いケーキの上にはいちごが乗っていた。

僕は、今日はまだ夕食を食べていないな、とふと思った。あの子は部屋の電気を消して、蝋燭に火を灯した。

僕たちは床に向かい合わせに腰掛けて、火のついた蝋燭を眺めていた。微かにゆらゆら揺れる蝋燭の明かりが、とても暖かく思えた。そして、その光に微かに照らされるあの子の足元がうっすらと見えた。あの子はブルーのジーンズを履いていた。

「火を消して」とあの子は言った。
「どうやって?」と僕は答えた。自分でもどうしてそう答えたのかよくわからないけど、間の抜けたことを言ってしまった。
「息を吹きかけるの。息を吹きかけて火を消すんだよ。知らなかった?」とあの子は言った。

僕は静かに息を吹きかけて、4本刺さった蝋燭のうち、2本の火を消した。ちなみに、どうして19歳の誕生日を祝うケーキに刺さった蝋燭の数が4本だったのかは、よくわからなかった。
「残りの2本は君が消しなよ」と僕は言った。「君が作ったケーキなんだから、君も火を消したらいい」
「あなたの誕生日なんだから、あなたが消したらいいじゃない」とあの子は言った。
でも、理由はないのだが、蝋燭の半分の火はあの子に消してもらいたい、となんとなく僕は思ったのだ。そう伝えると、あの子は蝋燭の火に顔を近づけた。淡いオレンジ色に照らされたあの子の顔が、暗闇にうっすらと見えた。
あの子は慎重に息を吹きかけて、二本の蝋燭の火を消した。

ふっと部屋は暗くなり、また静かになった。僕たちは暗闇の中に放り出された。

「誕生日おめでとう」とあの子は言った。
「ありがとう」と僕は答えた。

暗闇のなかであの子は言う。
「あなたがあなたらしく生きられることを祈っています」と。その声色は、少し厳かな感じがした。まるで、なにかの呪文を唱えたように響いた。

「そうだね。僕が僕らしく生きられることを、僕も祈っているよ」と僕は言った。

それから、部屋の照明をつけて、ケーキを4等分して二人で分け合って食べた。

それが僕の19歳の誕生日だった。

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