交差点
駅前のスクランブル交差点に立っていた。向かいの歩行者用信号機は軒並み赤く灯って、歩き出すことはできない。なんだか歩き出したくはなかった気がしたからちょうどいい。足元は少し湿って、ついさっきの通り雨の面影を残す。手に持った花束からかぐわしい春がたちのぼって、咳が出そうになったけれどこらえた。
まだ少し肌寒い空気に上着のボタンを閉めて、目を閉じる。行き交う車の音は止まって、人々が歩き出す靴音が聞こえた。たぶん、信号が青になったのだ。目を開ける。
一歩、歩き出すと私の足元の白線が向かう先には、待ち合わせの相手が見えた。こちらに歩き出す。私もそちらへ向かう。
と、対角に交わる白線の方向から、甘い香りがした。思考が混ざる。目の前に見えていたはずの世界に薄絹がかかる。そちらから甘い香りがすることは、白線の向こうに待ち合わせ相手なんていないころから知っていたような気もした。世界から春を奪って、眠りたくなってしまう香り。ふと苦しくなって空咳を一つ挟んで、思考が晴れる。とにかく早く渡らなくては。ここには、立ち止まるという選択肢はない。一層強くなった甘い香りと、それにかき消されるように微かに存在する心地よい苦味が、自慢の思考回路の隙間に詰まってショートを起こしていた。機能を停止した脳は答えを導き出せずに、身体は慣性力の力だけで前へと進む。前に行きたくない理由も何か、あった気がしたけれど、思い出せそうにない。振り返ろうとすると、つむじ風が視界を奪う。交わる横断歩道も、向こうに見えた待ち合わせの相手もそれを望んでいる。この場には選択肢など存在しない。
まだ交差点の真ん中にいるのに、歩行者用信号機の青が跳ねる。足はもう自力ではどこにもいくことはできなかった。脳内にかつて一番愛おしかった音楽が流れていた。この場で立ちすくんだ私は、車に轢かれて死ぬのか?どうして歩き出せないのか、私にだってわからなかった。選択肢が一つでも、それを選ぶと選ばないの2つの選択肢が存在するのだと、そんな当たり前なことに今更気が付く。それでも当たり前にどちらを選ぶか決まった2択が、永劫間延びすればいいと思った。信号は、多分あと3秒ほどで赤に変わる。甘い香りが鼻腔の奥に張り付いて離れない。これじゃだめだ、歩き出さなくては。でも。どうしてだかその香りから遠ざかりたくなくて、すれ違った香りは私が立ち止まろうとも息をするように遠ざかって。向こうに足を向けたってなにも得られるものなんかないんだ、そこには何もない、だからそんな幻に後ろ髪ひかれたりしないで、そんな理由で交差点の真ん中にいないで。行かなくちゃ、脳みその片隅の休憩所でしわ寄せのようにこびりついたものに、私自身でさえも気が付かないうちに。だって、向こうから歩いてくるあの人が、おいでって手を引くから。そちらをまっすぐ向くと、甘い香りと幻影ときらきらが体じゅうにめぐったときの吐き気も少しだけおさまって、目を閉じたら、今なら、前に進める気がした。
現在が永遠でない理由みたいな、どうしようもなく意味のないものを常に探して生きている。
生きて、って声が聞こえた。私を遠ざけるための、私の手を引くための、私の明日のための、
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