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note「違和感を理論なしに愛する世界のこと」の途中でちょっと言語学の話をして、それについて詳しく話したくなってしまったので、その話をすることにした。
(※最後まで書いた私から追記:別々に書いていた二つをくっつけたこともあって、全然その話だけにとどまっていない)

「名前をつけること」
それはきっと何かを排斥することなのだと、胸を張って言う。でも名前を付けなくちゃいけないときも、付けたいときもある。「名前をつけることで、こぼれ落ちているものがある。」それを忘れずに名前を付けたいってだけ。そのこぼれ落ちるものさえ、零れ落ちるものをこそ愛することは、多分名前を付けないことではない。と、私は思う。

かつて、名前を付けて、こぼれる側になったことがあった。

もう具体的な内容は本当に忘れてしまったのだけれど、なんかすっごくしんどかった時があって、でも例えば「子ども相談室」とかって称した電話番号には、「悩みや年代によって選べる電話相談窓口があります」って表記がある。そういう良心的で、誰かを知らずのうちに傷つけるような分類が世界には山ほどある。

以下に、私が高校生の頃に書いた文章からの引用を三つ。時系列です。

①電話相談室の表記は曖昧であるべき話
あの時私が考えていたのは「私はどうすればいいんだろう」ただ、それだけ。本当にそっくりそのまま、信頼する人や電話相談室にでも相談しようと思ったほど。客観視した私は「どうすれば、と言っても何を、となってしまうでしょう」と質問することを拒んだ。そこが難しかったのだ。何をどうすればいいのか、私は何を疑問に思っているのか、つまりは、私は今、どうしてこんなにも苦しいのか。それは、どれも分からないことで、どうして苦しいかという問いの最適解としては、分からない事象ばかりが脳内を占めているからだと思っていた。
そしてあともう一つ、尋ねたかったこと。これは世界の常識と違った問いで、一見すぐに答えられそうで、この問いの本当の意味を理解して応えてくれる人がいるのかは知らない。長い長い、質問。
「わたしはいじめられているわけでも虐待を受けているわけでもありません。仲のいいクラスの友達がいるし、両親も怒られることはあるけど私のことを愛してくれていると思うし、大好きです。そんな私が、血縁外の誰かに一番に愛されたいなんてことを願って、それを苦しみと呼ぶのなら、それは傲慢な幸福ゆえの苦しみでしょうか。苦しいなんて、言ってはいけないのでしょうか。」
電話相談室などのサイトをみると、電話先が虐待されている人、いじめられている人、などとわかれている。それは一見便利であるように見えて、それ以外の相談者を積極的に排除する書き方だと思う。つまり分類というのは、同じくしてその例外を生むことで、その線引きが難しいものだ。
②愛の定義の必要性について
あの頃の私にとって、言葉は、そしてそれを定義するということは、文字通り境界線を引くことだったのです。現代文の言語論でしょうか、その範囲にたまに出てくる議論ですが、ものがあって言葉ができたのか、言葉ができたことでものが生まれたのか ということです。言葉にすると、その外側と内側が生まれます。そういう意味で、言葉は境界線であると言えます。そして大抵は、その「外側」を生み出すために 言葉はあるのかもしれないということです。愛とはなにか というのは 愛と呼びたくないときに最も必要なのです。だって、本当ならそんなことを考えずに愛と呼べばいいのだから。それでも定義を必要とするのは、愛と呼ぶことでなんらかの不利益が生じるか もしくは どうにかそれを愛ではないと証明したい時ではないでしょうか。共学に通っている友達に愛(ないしは恋)とはなにか と聞いたときの答えは そんなことで判断してもつまらない でした。実際、だいたい愛と呼んでしまえるときに そんな定義は必要ないのです。
③自分を褒めやすい定義
えらいも 頑張った も、誰かと比べなくたっていいってことです。誰かどころか、今までの自分とだって比べなくていい。今まで耐えれた痛みだって今までより痛く感じることもある。今まで耐えれたからってこれからも耐えなくちゃいけないわけじゃないんです。例えば頭痛がしたとき、もしかしたらそれよりももっと酷くて、もっと頻度の高い頭痛に悩まされている人がいるかもしれない。それでも、辛いって言っていいんです。これくらいなら耐えられる、大丈夫 なんて言わなくていいんです。だって痛いことに 変わりはないじゃないですか。
こうやって書いていると、なんだかとっても当たり前のようですね。それでも今までわたしは、私よりもっと辛い人がいるかもしれないと思ったら「痛い」と言うのだって苦手だったし、昨日はこんなに頑張れたのに今日はほんのすこししかできなかったという事実がとっても苦しかった。昨日頑張れたことだって、今日は同じことをするには難しいこともあって、それでも椅子に座って問題集を開いた そんな私をえらいと褒め上げることなどできなかった。

まあこれが私の価値観の根底なので結局こういうnoteを書く人間で居続けるのだと思う。結局私は①を考えた後すぐ、その人のために「愛」を定義したいと思うほどに私を愛してくれた先生に出会うことになる。(私は教師を目指しているけど、それはもとからで、これが理由ではない)その先生が愛するのが私一人である必要はもちろんなくて、私も愛される生徒の一人だったって話。まあその話をするとまた長くなるので割愛。
だから、出会った後の②からは多少希望の滲んだ、不安ばかりだった私を過去と捉えることができる私になっている。

「言葉で伝えきれないもの」
私、ずっと代わる代わるいろんな人が「好き」で、(これは恋愛に限らず)、誰かにされた嬉しかった何かを言葉にするのが好きなんです、昔から。メモ機能なんてないガラケーだった頃から、メールの未送信ボックスをメモみたいに使って、ひとつのメールに10000文字書けるのを40個くらい作ってた。

でも書いていくうちに、「書いたらその文字から読み取れる情報に上書きされて、私が書きたかった正しい情報が消える」ってことに気が付いたんですよ。思ったことを言葉にするときにたどる道は一方通行で、振り返ってももうどこから来たかなんてわからなくなる。言葉は大概不十分で、世界にある言葉の個数と物の個数を数えたら、多分物のほうが多い。まあ数えられないんだけれど。

私が「これは愛」と思って「愛」と言っても、愛という文字を見ただけの私は「これ」に戻れない。「AならばB」でも必ずしも「BならばA」とは限らない。そんなの数学とかで山ほど例が存在するんだけど、何となく人は生きるときに、AならばBが成り立っていることとBならばAが成り立っていることを同値として見がちだと思う。それは自分もそう。よく考えたら違うのに、まるで当たり前にその同値性があるものだと思ってしまうことがある。ちゃんと考えてくれ、私。

と、少し脱線が過ぎたけれど、「書いたらその文字から読み取れる情報に上書きされて、私が書きたかった正しい情報が消える」話に戻る。私はこれを知ってしまったとき、大切だからこそ、言葉にするなんてそんなことで消えてたまるか、と思って、一時期言葉にすることをやめた。でも、そうしたらそれはそれで、永久に同じ温度のまま脳内に残り続けることなんてなくて、むしろちょっと歪んでも、その心の動きの方向だけでも記しておきたいって思い直した。だからできる限り正確な言語で、というか、未来の私になるたけ正確に伝わるように書こうと決めて、あと、「それで言い切れない部分がある」ことを忘れないように決めた。言葉にしたときにこぼれ落ちるそこに、「愛おしい」の本質があると思うから。だから、感じるたびに的確な言葉を探して、見つけられなくて、的確じゃない言葉がたくさんファイルに溜まってる。

余談
この類の話にはまだあって、私が高一だった頃に数学科のオープンキャンパスに行ったとき、外で働いている数学科の非常勤教授のような方が「私はここ出身だけれど、ここを出るとみんなが定義しないで言葉を話すことに違和感をおぼえるよ」と言っているのをきいた。私は、「そりゃそう」と思った。というかむしろ、定義して話すことを億劫ともしない人たちがここに来るなら、私もぜひここの人たちと会話したいと思った。まあ大学受験では受からなかったんだが。行きたかったねえ、そこ。
で、家に帰って親にこの話をしたら、「言葉を定義せずに曖昧なまま会話ができるって人間のいいところじゃないの?」と言われて、それもそれでめちゃめちゃ納得した。いやそうじゃん。それも素敵だ。明確な定義なしに基本は会話ができる。

私は、「恋」と「愛」と「幸福」だけは定義せずには話せない。別にその場でそれをどういうものとして会話を進めるかってだけでいい。「会議の中では、レジュメと言ったらこの会議のレジュメを指す」っていうようなのと同じ。どんなところでも通用する一般的な定義をするのはまだ私には難しい。

「あなたのことが大切」を「恋」と呼ばない方法が欲しい。
終わってしまうのが怖くて、恋も愛も定義できずにいる。
永遠を信じるたびに自分自身に裏切られるから、はじめは後で悲しくなるから言葉にしないことに決めて、でも今は、大切なうちにその時の言葉でできる限り書き留めておこうと決めた。

12月の終わりで、一つの私のハードルである3か月が経つけど、私はまだ、大切なものを愛したままでいられるかな。愛していたいと強く思っても9月で終わってしまったこの前の3か月を思い出して、そっと目を背けてしまいたくなる。
帰りに楽器を手に見つめた月が綺麗で、これが永遠になればいいのに、と思った。たぶん永遠にならないんだろうって思った。起きたくないけど起きなくちゃいけない冬の朝の掛布団みたいだね。


「死にたい」

―――――否、死にたいわけではない。
死にたい、と口にすることで否応なく人は息をする。

私の「死にたい」は、積極的に死に向かいたい、というよりは、「息をするのが疲れたからふとやめたらたまたま死んでしまった」「生きているべきじゃないかなあ、と思ったから生きない、とすると死ぬってことか、と気づいた」みたいに、別のことを考えていたがたまたま死に結びついてしまった、そういう、不運なこと。だからあまりこの語彙は使わない。どちらかというと息するの疲れたなあって、運動や勉強が疲れた時みたいにふとつぶやくだろう。あと、この文章で別に私が死にたい話をしたいわけじゃない。

文章を読んで泣くことも、大切な音楽を聴いて泣くこともある。そして最近はそれと同列で、祈ってしまうようになった。「祈ってしまう」なんて言い方は良くない。よくないけど、そういう表現をしないと息ができないような祈りなんだ、それは。
たいせつな人が、一人残らず幸せに生きるようにと願いたい。それがエゴだとわかっても、そんなこと最初から分かっていても。私には大切な人に今までなにがあったかも、どんな感情で生きてきたかも、知りたくて、でもきっとこの先わかることもなければ教えてもらえることもない。大抵大切なことは、じゅうぶん大切でじゅうぶん信頼できると思った相手にしか伝えない。だからこの祈りは本当に無力で、実際、この世にあったってなかったって変わりないようなものだ。祈っていないと私のどこかが壊れてしまうから、この世に生きているために、まるで「まとも」みたいに生きて行くために、「死にたい」という事実からなるたけ遠ざかるために祈っているしかない、死に損ないの愚かな祈りだ。
でも祈っていたいんだ、本当に。
指の間が痛くなるほど両手を握り合わせて、涙が出るほど両目をぎゅっと閉じて、ただ大切な人の幸運を祈っているとき、こんな死に損ないの私も、少しだけ救われていい気がするんだ。
それなのにどうして、大切な人がこちらを向いて微笑むとき、嬉しくなってしまうんだろう。その幸せに私が介入してしまいたくなるんだろう。私がいないほうが幸せならそれで構わないと思うのに、構ってもらえたとき喜んでしまうんだろう。その嬉しさや喜びが幸せで、でも理想から外れていて、そのたびに処理落ちした頭のねじが一つずつ抜け落ちる感覚になる。でもまだ、まだ、死ねないんだよ。

最近、死に損なったと感じることがよくある。

死に損なっていたとしても生きていて幸せだと感じることもそれなりにあるし、これからも生きていたいけれど、それでも「いつかの時点で死んでおくべきだったのだ」という耳障りな声が頭にひびくことが時たまある。大切な人を傷つけることも、大切な人が傷つくのを見ていることしかできないのも、もうたまらなく嫌だ。でも、きっと大切な人は私からの救いも慈悲も、全く求めていない。たまたま通りかかった何も知らないひとに「I hope your happiness!」と無邪気に声を掛けられる方がこちらの事情をなにもしらないことを割り切れてまだ幾分と救われる。何の事情も知らない癖に、自己満足のために今日もそれを祈りなどと呼ぶことは、嫌いだ。

それでも、私は光の隣に立つべきでいる。苦しくても光の隣に並ぶことが、大切な人に一方的に捧げる正義だから。本当は、大切な人相手にこそわがままが言いたかった。「根っからの光の隣だと私きっと霞んじゃうからやだ」って。でも、そんなことは起こらない。起こらないんだ、そう言い聞かせていないと、起こるはずのことが私の身にだけ起こらないとわかってしまったら、また息ができなくなってしまう。理性でなにもかもは押し込めて、光に消し去られないように強く、ここに立っている。

私から理性を除いたら本当に何も残らない。一切の空白か、残ったとして小さな汚れだ。多分数秒後にはアルコールスプレーかDeleteキーかなにかで削除される汚れ。だれも気付かないままで消えるような、この世に要らない汚れ。理性があるおかげで私はぎりぎり人間の形を保っているの。だから私は理性を守り続けて生きている。課題を残らず出すことも、どちらかというと成績全Sを目指すことも、どこでも笑顔でいたいと思うことも、仕事をして苦しみたいと思うことも、もう誰も傷つけたくないと思うことも。一つ残らず自分のためだ。生きて行くために、自分のために、嫌々理性を守っている。だから、大切な人のために理性を守るとき、理性を守る理由が大切な人の存在であるとき、大切な人に生きていていいよって言われているみたいで、嬉しくなる。矛盾している。

こういう感情はこんな、捉えようによっては暗い話ではなくて、もっと分析しきらずに誰かへの愛おしさだってことにして恋と呼べばいいんだろうということは、本当は頭と心のどこかで知っている。それなのに恋と呼ばないのは、多分シンプルに勇気がないからだ。当たって砕ける勇気も、自分の思いを信じる勇気も、ずっと愛して居続ける自信も、恋をするのに必要なものが、相手への愛おしさを除いて全て欠けている。
私がやっぱり生きていたいから刻むこんな文章だって、大切な人が刻む愛おしい文章の光に消し去られる。実際、これを書きながら大切な人が書いた文章を読んで、綺麗なそれとの比較で吐き気がして、全部Deleteしようかと思った。そうしないことは、生きているってことだ、私にとって、まだ、かすかに。そう、言わせてくれ。

だからこれは、苦しみから逃れたい私のわがままなんだ。そして理性がある限り、生きている限りそうは望まないと、もう決めたことだ。たとえその理性が絶望の予防線だと分かっていても。

もしも、叶うとするのならば。

私が陰なら、そんなもの消し去る光が指すといい。たった一瞬でも、この世の闇を残らず消し去るような、まばゆい光が。どうか貴方を照らして、生へと導く光が。それならば、私はその光を愛していよう。

ああ、もしかしたら私、貴方のことが「好き」なのかもしれないな。


「あなたのために、私に何ができますか。」

私が理性を捨てないのは。
「たいせつなひとをたいせつにするために理性がひつようだから」
ただ、それだけ

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