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あれな感じの日記。

※がっつりASDとADHDの話になりますが、むしろ「死にたい」みたいな人に向けて書きます。パパゲーノ効果を期待。

「心の病」の脳科学 (講談社 ブルーバックス 林朗子さん、加藤忠史さん編)という本を読んで、いてもたってもいられず書く日記です。
相変わらず、言いたいことばっかり書いて読みづらいかと思います。
すみません。
誰に謝っているのかというと、誰だろう。先祖とか。
だって、先祖が生きたころ、ASDもADHDも認識されてなかったと思うので。なんか、先祖のどこかにも、私みたいな人がいたんじゃないかと思う。
だとしたら、理由もわからず苦しんだんじゃないかと思う。
そんなあなた(先祖)に伝えたい。今は色々研究が進んでいるよ、と。
ポンコツ子孫より。

ええと、どこから書こうかな。
まず、こちらの記事にすごく、うわぁ、ってなったんです。
「よく気がついたよね」というママ友の言葉。それこそが自閉症の息子の困難の原因だった (2022.4.6更新 HUFFPOST 記事:朗子さん)

これ、あの、うう、うまくいえないけど、この通りで。
あの、ええと、うん(諦めんな)。

だいぶ端折るけど、長くなりそうな予感。

順を追って話すと、まだ不登校児童が今ほどいなかった世で、幼稚園・小学校あたりで登校拒否・特殊学級・保健室登校などをしました(?しました?)。
親にひっぱたかれて2年生からは普通に教室に通って、友達も出来て、本当に友達に恵まれて、なんだかんだ高校までは、自意識過剰なオタク、くらいの認識で育ちました。
いじめ、られ、てたのか…?も、しれないけど…その辺も、うーん、孤立に過剰に怯えるあまり、他の人を切り離したり、加害側にいたこともあると思います。そっちの方が、むしろ忘れちゃいけない気がして、覚えてます。
ただ、スクールカーストでいうとずっと底辺でした。
生きた心地はしなかった。

で、特にやりたいこともなく高校を卒業して社会に出て、なんか色々うまくやれず、運転中なのに気を失うくらいの睡魔などがあって、自分はどれだけやる気がないんだ、なんて根性が無いんだ、と。(眠い=やる気がない、みたいなご時世というか、私も知識がなかった…)。
更に人間関係も上手くいってなかったので、高卒後最初に勤めた職場をわりと早々に辞職しました(今思うと、鮮魚コーナーの下ネタは10代新卒にはエグかった)。
で、その後も片手では足りない回数、職を転々として(派遣とか契約社員)、周りから「またか」と呆れられ、でも、女性だからプラプラしてるんだろうくらいな感じで、許され(というか誰も私の職になど興味関心はなく)。

そのうちのひとつの職場が、図書館のすぐ近くだったんです。
で、昼休みにぷらぷら行って、仕事関係の本などを読んでみたら、それがとても面白かった。仕事という「現実」と、本の中がつながってる。
自分が実際に行動に移せる知識が書いてあることがおもしろかった(当時、企画部にいた)。

その頃からわりと実用書、ビジネス書を読むように…なってない。気がする。そんなスムーズじゃなかった読書遍歴。
ただ、わからないことがあったら本を探そう、頼ろう、みたいな感覚になったのはこの頃かもしれないです。
ネット環境もあったけど、ネットは趣味、娯楽用という感じで、現実でぶち当たることの参考というよりは、逃避先だった気がします。

で、こんなオタクの半生書いて何がしたいんだっけ(見失う)。
あ、そうそう。死にたさ。死にたさがどこらへんから本格化したのかなと考えた時、わりと社会に出てからのような気がするんです。
少なくとも、学生のころはそんなに…死を意識する程ではなかったし、好きな人とかもいて、現実味のない希望は持っていた。と、思う。
(でも、高校卒業式の日に急性盲腸になり、もうちょっと発見が遅かったら死んでたと言われた時、もうちょっと我慢すればよかったと思ったくらいには、既になんらかの仄暗さはあった感)。

この辺は、あとから振り返っての認識なので、こじつけも混ざるかもしれないんですけれども。

で、そんな躓き躓き社会人を生きて、山田さんと綾野さんにドハマりし、映画を色々観るようになって、から、ですね。
すかがわ国際短編映画祭に行ったんです。
ミーハーな理由からで「パンク侍、斬られて候(言わずもがな綾野さん主演)」の特撮監督、尾上克郎さんが…登壇したんじゃなかったでしたっけ…(うろ覚え…)。
庵野秀明さん、樋口真嗣さんと…あれ、違ったらすみません。
豪華すぎて逆にあんまり覚えていない…特撮おもしろ!と思った覚えはある…あと、なんかの大臣…代議士…が来てた…その時に、文化と政治って無関係じゃないんだなと思った記憶…

で、住井すゑさんのピーマン大王とかでテンションが上がって…(住井すゑさんはかっこいい!!!)。
そういう短編映画の中のひとつが、当時「アスペルガー症候群」と呼ばれていた頃の当事者の子の映画で…タイトルが「we are asper's」だったかな…アスピーズ…綴りがわからない…。
その子の、なんというか、振る舞いとか、その子と関わる周りの人の表情とか、とまどいとか、全部身に覚えがあって、そこで自分に対してもしや?と思って。

…このへんで、さっきの記事につなげたい。
なんか、見える障害というわけではないですし、当時説明するための知識もなかったので、自分の中では、とにかく自分がダメで、甘えていて、根性が無くて、そういうのひっくるめてとにかくダメで、この世に要らない、生きている価値が無い(から生きていい価値を作らなきゃ)と思っていたんです(そして空回り)。

というのも、ここからまた話がちょっと込み入るのですが、同じような感覚の方の生きる糧につながればと思って、こちらの記事ともつなげたい。
えい。
自閉スペクトラム症における過剰適応とカモフラージュの臨床的意義
(2021.3.25 千田若菜さん、岡田智さん)

読める人はちらっとでも読んでみてください。
ものすごく単純な話、人(マジョリティ)と違うって生きづらい、んです。
だから、隠す。
特に日本は(他の国知らんやろ、みたいなツッコミはちょっと横に置いておく)多様性という概念もまだ日が浅く、普通のテンプレートがしっかりあって、空気を読む、そこから外れたらスクールカーストならぬ社会カーストの下にいく。名実ともに、あいつはダメなやつってなる。

で、私は、実際ダメだったというか。
隠してるつもり、と、隠せてなさの両方があって。
なまじ本で知識とか、自分なりの正しさみたいなものを持ってしまったからか、人とぶつかりまくってしまって。
(それこそASDなので上司だろうがなんだろうがぶつかってしまった…)。
でも、自分で、なにがどうダメなのかわからなくて。
(周りの人的にはなにがどうダメなのかわかってるっぽいのがまたつらい…しかし直接は言わない…配慮…でもその配慮にもだいたい気づけない…)
よかれと思ってやっても、本気でやっても、人が離れていったり、引かれたり、周りの笑顔がなくなっていく。
伝わらなさにどうしようもなくなって、もどかしくて、暴力的な物言いになったり、喧嘩を売ったりする。挙句、それで自分が正しいと思ってしまう。それを続けると引くに引けなくなったりしてしまう。
ごめんなさいが言えなくなる。ありがとうが出てこなくなる。
ここに性別や年齢はあんまり関係ない…と思う。
そうして、なぜわかってくれないのか、と、事態が膠着していく…。

自己啓発とか、スピリチュアルとか、心理系の本も色々読んだり…果ては宗教。哲学。
迷走に迷走を重ね、死にたいと、とりあえず生きるを行ったり来たり。
何か言えば暗い、笑いを取ろうにも重い。
話題は的外れ。面白いと思わなければ動かない偏屈。
いじり嫌い。真似されるのは馬鹿にされてると思ってしまう。
仮に笑い合えたとして演技。相手も気を遣ってるだけ。
被害妄想。誰にも好かれてない。邪魔でしかない。死んだ方がいい。
生きている価値が無い。
価値が欲しい。あれこれやってみる。どれも中途半端。なにも突出しない。
くだらない。疲れた。どうでもいい。何も欲しくない。要らない。そういいながらご飯は食べるし、屋根のある安心できる場所で眠る。人と関わる。関わりたいと思ってしまう。
その恵まれに、狡さに、矛盾に、また藻掻く。

こうなるともう、自分でストレスを自作・自家発電し続けて、自分が嫌いで、自分が嫌で、自分が死んでくれることでしか、これは終わらないと思ってしまって。死が希望になる。死ねば楽になる。死んだらこれが終わる。

そういう色々のなかで、ひとりでぐるぐるして、自殺はたくさん考えたけど、それができる環境もあったけど。親姉兄を苦しめたくなくて(ハイハイ言い訳wただのかまってちゃん、みたいな世間の言葉を横目に見ながら)、ずるずる生きて。

ある時初詣で「早く死にますように」とお願いした時に「死にたきゃ自分で死になさい」って神様に言われた気がして、そこが乃木神社で。
乃木将軍が言うなら確かにそうだな!!!と、妙に腑に落ちて、じゃあやっぱり、神頼みじゃなくて自力で死ななきゃいけない。けど、それが本気ならご飯を食べる資格もないと思って。だって、それは命だったもので。お米だって、大地が育てて、人が労働をして、そう出来る(農業の)積み重ねがあって、水道・ガス、あらゆる社会的インフラを経て、私の口に届いてる。
それを消化してくれる胃袋、大腸、トイレにいける動く足、そういうもの全部持っているくせに、気が付けば20年くらいうじうじしてしまった。

で、そうこうしている間に父が亡くなり。
自分のことを掘り下げて、自分がASD、ADHDなのではないかと思った時、たぶん父もそうだったと思う点が多々あり。
(だからこそ、私はASD、ADHD特性の人を他者として見る視点も持っている)。

じゃあ、目の前にずっと、私以上に「生きづらい」でも「生きてきた」「生き抜いた」人がいたんだな、と思ったら、ますます死んでる場合じゃなくなってしまい。今日も生きている次第です。

で、最初に戻ろう。
『「心の病」の脳科学』、という本、他の本もですけど…そういう本や、記事、文章と出会う中で、自分という究極に面倒くさい、寄木細工の秘密箱みたいなものが、少しずつ解けるんです。
対処方法ができてくるというか…対自分用発明…ライフハック。
そうすると、ほんの少しずつですが、生きるという暗い森(際限のない否定的な言葉や考え、比較、劣等感)に、隙間から光が入り込む。
最初は一筋かもしれない。でも、段々木漏れ日みたいに美しくなってゆく。

そうして光が少しずつ増えていって、今度はあっちに行ってみよう、あそこには何があるんだろうって、行動範囲が広がったり、関心のベクトルが変わったりする。
真っすぐな成長線じゃないかもしれないけど、螺旋ですらなく、ぐにゃぐにゃとカッコワルイかもしれないけど、そうして何かは増えて、何かは減って、生きている。

だから、生きるって、命って、光だと思うんです(?飛躍がひどい)。
だから、私は、人は人を殺さないほうがいい…というか、そう在る方が自然、だと思うんです。
多様性って元は自然環境とかの言葉かなと思うんですけども、自然は、食べる以外、生きる以外ではそんなに殺してないと思うんです。
じゃあ、生きるためという大義名分があったら殺していいのか、と問われたら、それは難しいんですけども。難しいことは、人に問うて終わっちゃだめで、自分で考えて、せめて一緒に探しましょう、と思いますけども。
少なくとも、神のせい(神のため)を理由にして殺すのは、思考停止かなと思います。せめて命を奪うのなら、各々、負うべきものがあるはずで。それが共に生きるということなのかなと。思う。地球相手ですら。
大人でありながら、私より高学歴でありながら、人(神)に問うて終わってる人が多いように感じます。
問いは本来、反抗の道具ではないと思います。違うもの同士が共存するための道具です。
相手を黙らすために用いるのではなく、一緒に考えていく(一緒に考えていきたい)ときに使うんだと思います。
※相手にも問いを受け付けない、一緒に考えることを拒否する権利があることを念頭に置きつつ。

で、そっち(いのちだいじ)の方面から考えていったら、まぁ自殺は、普通に(?)不自然で。
誰かがそこへ向かってしまうなら、その環境の方をこそ問うていかなきゃいけないんじゃないかと思っていて。
その環境こそが社会であり、他者であり、人体であり、思考であり、心理であり、私という個であり、人間の歴史であり…宇宙(面倒くさくなった)。

で、そっち方面から考えていったら、ハラスメント、労働搾取、過重労働、性暴力、虐待、ネグレクト(教育資本を与えない・配慮しないことも含む)、差別、排除、暴力、暴言、誹謗中傷、普通に(?)ダメじゃないですか?
って考えたら、私は、死んで済まそうとするんじゃなくて、人とちゃんと関われるようになった方がいいんじゃないかなと。私が(コミュ障)。
もし自分がそれに向いてない特性を持っているとしたら、それを少しずつでも変えたり、工夫すればいいんだなと。

そう思う…ので、睡眠
そう、睡眠です。
ここまで引っ張って、私の死なないためのベストアンサーは睡眠です。

いや、睡眠障害のある方とか。悪夢を見てしまう方とか。
いろいろ、人それぞれあるかもしれないのに、雑極まれり。
ただ、いま、私が辿り着いた答えがここ、というだけです。
というわけで、もう10時だ!いかん!11時には寝たい!風呂!
※いちおう読み直し・訂正していたら11時になった😭危機感が足りん!睡眠をなめるな!思い知ったはずだ!これ以上、職場の心理的温度を下げるんじゃない!寝て心身ともにバランスがとれるなら寝ろ!自他のため!

↑ 人によっては、こういうひとつひとつ、しんどかったり適わない方もいる…。そういう方に、優越性を示したいわけじゃないです。
傷つけたならごめんなさい。

ただ、脳(身体)とうまく付き合えば生きづらさが減る、脳を上手く育てればこの社会に生きる他の人の生きづらさも減らせるかもしれない、それにはまず睡眠、みたいな感じにいま、私の中ではまとまりました…
こんな長文読むんじゃなかった…そう思わせてしまったなら、心からお詫びとお礼申し上げます。ありがとうございます。
生きてください。放っておいてもいつか死にます。生物だもの。生きると死ぬはセットだから大丈夫です。大丈夫じゃねぇよ、そんな風に怒るのも良しです。諦めないでください、自分自身を。自分の命を。それも光です。
私より、他の誰より、守れるのはあなた自身です。
しんどい時は逃げましょう。善人面した私からでも、トチ狂った暴力からでも、不条理な中年からでも。逃げましょう。生きましょう。
生きていたら良いことがあるとは言いません。知らないです。わからないです。でも、他人が「生きていたら100%いいことあるよ」と言ってそれを信じられる程に他人を信じられるなら、なんか大丈夫な気がしませんか。
なんか、その素直さは宝なんじゃないかと、他人の私は思います。

そんな他人がいないのなら、自分で言っちゃうのが一番高確率で叶います。
自分でいいことをつくればいい。向かえばいい。起こせばいい。やるだけやって、何をやってもだめで、どうしてもダメなら死んでもいいような気がする。
自然栽培のリンゴで有名な木村さんも、そうして死のうとしたら死ねなかったりしたので、人間てなんかやっぱり、ものすごく大きな流れとか、環のなかに生きてるんだと思います。
死んだら死んだで、なにかはつながっていっている。
生きるってそんなに個人が思う程「無」じゃないと思う。
生きましょう。うん。死にたいはスパイス。たまに、入れ過ぎたスパイス。味の修正きくのかなこれ、っていうスパイス。大丈夫、器を大きくすればいい。

はっ、寝ます。自分の睡眠最優先にします。すみません。
おやすみなさい。おわり。

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