目を覆いたくなるような世界で目を覆わず瞑らないという、数ミリの勇気。

さっき『自分語りなんて誰も読みたくない』という記事のタイトルを目にして、そうだろうな、と思いつつまた自分語りをします。
AIなりの気遣いでああいう記事が表示されるようになってるんだとしたら、AIを無視してごめん。

自分語りって、他の人にしてるというより、自分と語り合っている感じで…なら自分だけが読める環境でやれや、って思うかもしれないけど
読まない自由も各々持っているわけだから…
その権利と、私が書くことが、上手く共存できたらいいなと思います。
つまり、読みたない時は読まんといてな、っていう話です。

ただ、なんとなく、そう言いたくなる側の心理を味わったこともある…と思う🤔上司の武勇伝など…。
自分に酔われる時に感じる、同じ空間に居ながらにしての疎外感、みたいなものが、読み手に不快感を味わわせてしまうのかもしれない。
そしてその不快感は、やはり社会性によるものなのかなと思う。
(相互作用性の欠如)。

私は、この不快感をわりと友人や家族に味わわせてきた自覚があるので、転職を機に改めて気をつけているところです。
気をつけてすぐに治ればいいのですが。治っていないので、こうしてSNSで書きながら脳内の整理をしています。
人に興味を持たれないことに関しては最近折り合いがついてきたので、わりと大丈夫です(と思えることが嬉しい)。
みんなそれぞれ違う大変さはあるし、感覚も価値観もそれぞれだし、私のために生きている人はいないのだから、当然だと思います。

そうしていくと個人化が進んで、協力できることも減っていってしまうのかな、と思ったりもするのですが…押し付けたってしょうがないですしね…🤔
自分の都合のいいように動いてくれ、と他の人に頼んでいい道理がない…と思ってしまう。
そのあたりが、社会からはぐれる理由かもしれないです。
少なくとも、この社会を生きてきて、そういう感覚はあまり育てられなかったですし、どうなんだろう。
相談したり頼ったり出来た方が可愛がられることも多々あるのでしょうけども、そういうルートが予め用意されていることに(特に女性性において)、取り引きの罠のような気持ち悪さも感じてきたので、たぶん、そう上手くはならない気がする。頼り、頼られること…。
他人(自分ではない人)というのを意図的に意識しないと、侵害しそうでこわい。

でも、見返りを求めないで他者を信じることのリスクは自分が傷つくことくらいなので、積極的にやってもいいのかなと。思う。
そう考えた時、自分の内情をこうしてネット上に晒すのは、ある種の他者信頼、自己開示のカタチでもあるので…やっぱり、誰も読みたくない、とか一方向的に決められたくないな、とは思いますね。
私という読者は、私の言葉や考えを読みたい。
(ほぅら、自分語りをするような奴は逐一面倒くさいだろぅ…ドヤァ…)。

面倒くさい上等、変人上等、イタイ奴上等、でいいじゃないですかね。
なんかもう、自分に迷惑をかけるな、自分に手間をかけさせるな、自分に不快な思いをさせるな、みたいな予防線を張りまくった言説が世に溢れていて、前はビクビクしながら気にしていたけど、もう普通に無理というか。
なんか、そういう「普通」って、実は個々人の環境や前提の違いを無視していて、全部クリアするのって相当大変なんだな、と今更、この歳になって気づいたので、もう知らん…ほどほどにやる。

私があなたの予防線を踏みちぎったとしても、別に元々そこらじゅうがあなたしか生息していない区域なわけじゃないから、としか言いようがない。
こっちも不格好なりに生きてんねん…としか。

でも、予防線を張りまくる人もまた、自分の社会性にがんじがらめになっているからこそ、他者の言動を操作したくなるのかな、と思う。
自分のしている我慢が、したくてしている我慢じゃないから、我慢していないように見える人が不快とか。
だから叩きたくなったり、誹謗中傷したくなるのかな。
わからないけど。決めつけちゃいけないけど。

人間、なにをどう生きても、いつか本当に絶対だいたい死ぬし。
それがわかったら、他の人を自分の思い通りに動かした方が都合のいいこと、効率のいいことたくさんあるけど、でも、そうしないで生きたひとがこの世にはたくさんいるわけで…
「親」となった人たちはその代表というか…
もちろんそれも個々のケースで全然違うわけですが。
少なくとも、赤ん坊を前にしたら、誰もが奉仕者にならざるを得ない。
赤ん坊に対して自分をケアする側に回れ、という人がいたら、その人はちょっと人としてだいぶ踏み外したところにいると思う。
(私はそういう方に対して優しくはなれないです…申し訳ないけども)。
(先日、2歳児に性的暴行をした人のニュースを読んで思ったのですが、本当に…無理です。自分の手を汚してでもそういう人を屠れるかと問われたら、できる、と思う…なぜ…なぜだろう。2歳児に感情移入をして、というより、人間に生まれたくせにその命を扱うことの出来なさに絶望するから…そういう人間を見たくない自分がいる…それが自分の業だと思う…1万語の理屈があったとしてもその行動1つをもって無理、としか言えない…2歳の子供に罪があるとかないとか、親はどうしたとか、戦時下か否かすら考える気にもならない(ちなみに国内の話なので戦時下ではない)。そんなことは関係ない。その子の話にすり替えるな、と思う。その犯人にただひたすら最大級の嫌悪感を覚える)。

ハラスメントに関してはその類型というか…
無理なものは無理、というものがそれぞれにある。
組織がしているのはあくまで労働契約で、人間を書き換えることじゃない…
でも、それがまかり通るのが組織、つまり閉鎖的な関係性の環。
その中はその中のルール・序列があり、それが世間という広範囲のものよりも強い。だから他者をより使える・使いやすくなる。
男性同士の仲間意識にもそうした結束があるように見えることは多々ある。
女性同士は女性同士で、一般的なルート(適齢期で結婚、出産、育児、性に関して大っぴらに話をしない)をベースにした共通言語を用いたコミュニケーションがある気がする。
もちろん、そうじゃない人もいる。
けど、そうじゃない人っていうのは、基本的にあまり可視化されない。
それは、読み手・聞き手を意識した時点で消えていくから、かもしれない。
(不特定多数の人が目にする以上、恥を晒すよりは見栄を張りたくなる気持ちがある…と思う…私にもある)。

弱い者、大したことのない人間に憧れる人はいない。
見下されるよりは、憧れられたい、敬われたい、と思う。
でも、その二択であることがそもそも気に食わない自分がいる。
(面倒くさいだろぉ…ドヤァ…二度目)。

勝手に他者を自分の上とか下に置いてしまうより
まず自分は何やねん、と、各々がもっと問うてもいいのではないか、と思う。そういう意味で、自分語り上等なのではないでしょうか。

例えば歌ってみたいと思って歌ってみる。
もちろんプロには敵わない。YouTubeにだってたくさん上手い人がいる。
世界をみれば本当にたくさんいる。
でも、歌うのが楽しい。なら、歌うのをやめなくていい。
もっとうまくなりたい。なら、練習すればよくて。
もっと人に聞いて欲しい。なら、既存の枠で突出するか、違う方向で抜きんでるか、どこかに交渉して聞いてもらう場を用意するとか、しなくてはいけない。それはとてもしんどい。自分で自分を売り込む作業がついてくる。
じゃあ歌うのやめる。その必要が無い。
歌っていい。歌うのが好きなら歌っていい。
その最大の事実がどこかで篩い落とされてしまう。
リターンが見えないなかで、思うように得られないなかで、細かくなっていってしまう。
すごいなぁ、って憧れた人に対して、尊敬だけじゃなく嫉妬が生じたりする。嫉妬が自分を内側から焼き殺してくるような気がする。
そんな自分が嫌になったりする。
でも、何度だって、歌うのが好きなら歌っていい、という事実に帰ってよくて、何往復したってよくて。
プロとかすごい人は見えないところで、ものすごく往復してたりする。
往復しすぎて戻れなくなった人が、ただ好きで歌ってる人を見た時に、どうしようもなく憧れたりすることもある。

あれっ。なんでこんなことを書いているんだっけ。
私は脳の話をしたかっただけなのに。
そうそう、その往復が私は下手で、自分にはなにもなくて、生きることはただしんどい、と思っていたけれど、そんな時こそ脳内麻薬。
お酒、ドラッグ、市販薬、エナジードリンク、性的興奮、暴力、誹謗中傷、買い物、等々…ストレスの根源(だいたい自分)をどうにもできない時、でも無力感に陥っている場合じゃないときに、こういうものが人生のパートナーに選ばれたりするわけですが…これらに依存すると、生きること自体が立ちいかなくなってしまうことが多々あるわけで…
私はビビりなので、それを避けることに躍起になって、人生の大半がダウナー状態だったのですけれども。

歌を歌う、ということがこのところ楽しくて、程よく脳内麻薬を出してくれています。
前は絵を描くことがそうだったんですけれども。
絵は、なんか…自分の努力不足が丸見えすぎて恥ずかしくなってしまって、最近あまり頼ってません。
ガス抜きを上手くやる努力が不足していると判断してさらにストレス、って意味がわからんのですが…みんなわりとそんな感じで生きているように見受けられる…だってなんか、すごい人ばかりなんだもの。世の中。

そんなこんなで人生をうろうろして、どこを目指してんだとか、そんなんじゃ何も成さないとか、そういう脅すような言葉が自分の中からずっと溢れてきていたんですけれども。
いや、知らんよね。何かを成す人ばっかりじゃないから社会ってまわってるんでしょ。勝手に諦めて死なないでくれているから、生きていてくれるから、可能性って増えるんでしょ。と思う。
勝手に諦めて死にたいとばかり思っていたから、そう思う。
そのために、自分よりしんどい思いをしている人、辛いことがあった人を探して、下にみるような真似をしてはいけない、と思う。
自分もそれなりに下にいる。そう自覚するのは嫌だし、そんなことをわざわざ言ったところで、同情を買いたいのかとか言われるかもしれない。
けど、歳をとって、それなりに誰かの上にもいて、特権があって、踏みつけてもいる。そう自覚する方が難しい時がある。
自分の被害意識に逃げ込んでしまいたいときがある。
(こういう表現は、実際に何らかの被害にあった方を傷つけることがある。被害意識という言葉に責めるようなニュアンスが少なからず貼り付いている為…だと思う。なので、そういう意図を排して個別に使っているつもりでいます…)。

そう考えた時、さっき書いたように、2歳に性的暴行をした人を殺める権利が私にあるのか、と自問したら、きっと一生ない。
平和を希求するというのは、そういうことなのだと思う。
怒りは抱いていい。怒りは生じると思う。
自分のなかの大切にしている思いや感覚、価値観、大切な人、大事な人、そういうものが踏みにじられたときに怒りを覚えるのは、人間の道理のうちだと思う。
けど、怒りは扱いをまちがえれば暴力になり、報復になり、連鎖する。
人間は、それ以外の未来の作り方をもっともっと発明していいと思う。
発明するまでもなく、日々出来上がっているとも思う。
あらゆる人が人を殺めるよりは歌を歌い、誹謗中傷するよりは絵を描いて過ごしている。自分を憎むよりはメイクを覚えて楽しんだり、日々の食事を楽しんでいたり、楽しもうとしていたりする。
こうして、ひとつひとつ命や言葉を積み重ねることをしている。
無関心でいないこと。
他者の声を聞こうとすること。
殺める以外の選択を模索すること。
絶望に立ち止まってしまわないこと。
絶望に立ち止まった方に無理を強いないこと。
そういう選択肢を選んでいる人はいる。
そういう強さはわかりやすく目に見えるわけじゃないけど、だからこそ見つけたいと思う。見つけるには、自分もたくさん知らないといけない。
だから知ることをやめてはいけないと思う。
手元に「アウシュヴィッツ生還者からあなたへ」という本がある。
(岩波ブックレット No.1054)
人間の根源的な苦痛、恥辱、歓び、悲しみ、不安、愛情、そういうものは時代も国も越えて、そう大きく違わないのではないかと思う。
そのなかで、私はたまたま戦争や虐殺のない国と時代に生まれ、食うに困らず生きて来られたし、売っても高額ではなかろうにも身体を売らず生きてこられた。
あらゆる往復のなかで、どうにかいつも戻って来られた。
それは実力でもなんでもなく運によるもので、運によって恵まれたことを自覚し、人間社会に還元してから死にたいと思う。
…ムダに壮大になってしまったけども。

この社会はまだ、人間を人間として扱う、が当たり前じゃないと感じる。
私自身、まだそれを当たり前に出来ていないことが多々ある。
地震のニュースに対して、ガザ地区のニュースに対して、具体的に何をしたわけでもない。
常時関心を向けられるかといったらそうじゃない。
すぐに自分の事でいっぱいいっぱいになる。今回の転職ひとつをとってもそれがよくわかった。

子供たちは、そうはいかない。
大人が環境をつくっている。それを変えるだけの発言権や信用・信頼、力を与えられていない。
(けど、少子化が問題視されて若い子を取り込もうとする人も増えたことを思うと、力や責任を過剰に与えられている場面もあるのかもしれない)。
今年は数ミリでもいいから、本当に、自分で動いていこうと思う。
他の人が嫌だと思うことはしない。
でも、自分のこうした思いを書くことさえ、不快を理由に予防線を張る人に対して遠慮する必要もない、と思うので書く。
読まれなくてもいい。立派でなくてもいい。
ただ、一人でも、人として生きてほしいと思う。
国という境目は自然の中にはない。植生は違っていても、海があっても、人は境界をもっては壊し、壊しては築いてきた。
共生するための選択肢をもっと持ちたい。

これは日本語だけど、文化は国を平気で跨ぐから。
そういう希望はずっとある。往復の核。
がんばろう、人間。一緒に。
そのうえで、がんばれない時があるのが普通、人間。
生きましょう。

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