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成人式に出そびれる問題

新成人の皆様、おめでとうございます。
今年の成人の日は全国的に天気には恵まれているようで、よかったです。

成人式といえば、有名テーマパークで開催される地域の羨ましい話があれば、
一方では、荒れる成人式みたいなネガティブな話があるなど、
季節の風物詩的な話題としてお馴染みですが、
最近だと、着物レンタルの会社が式直前に飛んで大変な思いをされた方がいたり、
ここ2年ほどは、新型コロナの影響で開催がされない所があったり、
とにかく、成人式は何かと話題に事欠かないですよね。
それらは、一生に一度の大イベントが故に、世間の関心もおのずと高くなるのかな、という事だと思います。

さて、タイトルです。
前にも書きましたが、ボクは転勤族の子でして、出身地がよくわからないのですが、成人式に出る場所がどこだかわからないという問題にもあたりました。

その前に、まずは成人式についてお話しします。

現在の成人式の起源は、第二次世界大戦終戦の翌年、昭和21年(1946年)のこと。
当時、国全体が敗戦による混乱と虚脱感で明日への希望が見いだせずにいた中、埼玉県蕨町(現在の蕨市)の青年団が中心となり、次代を担う若者たちを勇気づけ、励まそうと「青年祭」を企画し、その催しの幕開けとして行われたのが「成年式」でした。
全国に先駆けて行われたこの催しは、国や県からも関心が寄せられ、翌々年の昭和23年(1948年)には国民の祝日として1月15日が「成人の日」に制定され、全国各地で新成人の門出を祝うようになりました。

では、第二次世界大戦前まではどうだったかというと、大昔まで遡ります。

男子と女子でそれぞれ儀式が異なりますが、どちらも成人を祝う通過儀礼が始まりです。

男子が行ったのは、数え年で12~16歳の男子が服装を大人のものへと改め、大人の髪型に結い直した「元服(げんぷく)」という儀式。

女子が行ったのは、腰から下にまとう衣服、裳を身につけ、髪型を結い上げる「裳着(もぎ)」という儀式で、こちらも数え年で12〜16歳でした。

成人の日に話を戻すと、昭和23年(1948年)から平成11年(1999年)までは、毎年1月15日でした。それまでは、成人の日の当日に満20歳の人(前年の1月16日から当年の1月15日までに生まれた人)が成人式に出られる対象となっていましたが、同学年なのに成人の日を境に参加できる年が別れるという不満があったことと、平成12年(2000年)からは、ハッピーマンデー制度の対象となり1月の第2月曜日になった事から、毎年固定した日付でなくなったこともあり、学齢方式(4月2日から翌年4月1日までに生まれた人)が定着したようです。

このように、同学年で一緒に成人式を迎えられるようになったこともあってか、高校を卒業した後、進学や就職で地元を離れた人も、久しぶりに同級生で集まるイベントという要素が強くなり、成人式を迎える場所は、高校を卒業した土地であることが極めて多いのだと思われます。

再度、タイトルに戻ります。
ボクは、中学3年生になる直前の春休みから高校卒業までの4年間、石川県で過ごしました。高校卒業後は就職のため上京しましたが、その年の年末は石川県に帰省しました。確か、前の日から大雪が降って、家の前の雪かきが大変だった思い出があります。
年が明けた4月、父親が転勤になり、実家は大阪に転居しました。
そうです、成人の日を迎える前に、高校を卒業した地から実家がなくなってしまったのです。
そもそも我が家は転勤族で、石川県には親戚もいませんから、頼る身内がなかったのです。
そして、仲の良い友達のほとんどが隣接市に住んでおり、仮に、石川県で成人式を強行したとしても、友達と一緒の成人式にはならなかったでしょう。
そんな感じで、石川県に帰って(行って)の成人式には参加しませんでした。

ちなみに、その時は就職した地である横浜市に住んでいました。横浜市は日本一人口の多い地方自治体でして、当時の新成人は約5万5千人もいたそうです。横浜市から成人式へのご案内は来ましたが、横浜市で成人式をする同級生は当然いないですし、横浜市の成人式にも出ませんでした。

言わずもがな、その当時実家のあった大阪で成人式を迎えるという選択肢もありませんでした。

毎年、成人式に参加しない人はそれなりにいると思いますが、ボクみたいな理由で、出たい気持ちはあっても叶わない人というのも、一定数いるんだと思います。
これって、結構寂しいものなんですよね。

なんとかならないものですかねぇ

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