シコふんじゃった。

とりあえず、ふんじゃえ

 この映画の時代、ナンパサークルというのがあった。夏はサーフィン、冬はスキーと、いろんなスポーツを楽しむっていう表向きだが、スポーツを本気でするわけもなく、なぜか他の女子大の学生がたくさんいたりして、その本当の目的は男女の出会いの場だったようだ。そんなサークル所属の、ナンパな主人公が、卒業単位のために相撲部に入る。

立教大という、あの時代、ミッション系と言われて女子にモテモテだった大学で、相撲という古臭い部は廃部寸前。なんとか頭数を揃えて試合に出るが、無様に負ける。合宿では、わんぱく相撲の子どもたちにも負ける。それで監督から指導を受けると、相撲が体格だけの勝負ではなく、技で勝てることを知り、やる気のなかった部員たちにスイッチが入る。

 主人公は卒業単位のため、ほかの部員もなんの因果か仕方なく相撲をすることになった。そんな状況が、シコふんじゃった、というタイトルなんだと思ってたら、ラストで、ずっと見守ってくれていた女性大学院生が、土俵に上がり「シコふんじゃった。」とつぶやく。実は、女性とか外国人とか、相撲に象徴される日本社会の差別性を指摘する映画だった。

 相撲部には、外国人、女子マネージャーもいて、田口浩正は土俵の上で十字を切るキリスト信者だ。チャラい主人公が新たなことに挑戦するだけでなく、国籍、性別、宗教という面から、日本のしきたりに挑戦する相撲部員たちが描かれていた。

 公開当時の日本はジャパンアズナンバーワンだった。欧米人が日本の家賃の高さに音を上げるなんて、安い国になった今の日本では考えられない。大相撲の表彰式で女性大臣が土俵に上がるかどうかで揉めたのも、もうだいぶ前のことだ。女子相撲部があったって、今となっては不思議はない。時代はだいぶ変わった。

 とはいえ、大相撲には今も女性力士はいない。相撲はスポーツではなく神事だから、世法で男女平等になったからとて、相撲界がそれにならうわけはない。非科学的と言う向きもあろうが、祟りみたいなことが起きてからでは取り返しがつかない。

この映画の相撲部でも、神棚が祀ってあり、まわしは洗わない。理由が分からないまま、考えもせず、しきたりを守っている。神のことが人間の理屈で分からないのは仕方ないが、まわしを洗わないのは次元が違う気がする。あらゆることがいっしょくたにされて、なんとなく「伝統」という言葉の重みに全てを委ねて、考える努力を放棄してしまっているように思える。

 大相撲では今や外国人力士が当たり前だ。小錦の頃はえらい風当たりだったと聞く。もっと古いところで、力道山は朝鮮人だから引退してプロレスに移ったというのはガセネタか。そんな日本人の国技の相撲に、外国人が加わることに違和感がなくなっている。その伝でいけば、女性力士が当たり前になる時代が来たって不思議はない。

長い年月を経て積み上げられたものには、なにかしら重要なものが含まれているから、軽く扱うことはできない。かといって、「昔からそうなんだから」という言葉を金科玉条として、思考放棄するのとは訳が違う。しきたりになるほど長い人の思考の蓄積を、理解し覆すには相当な努力が必要だ。下手したら一生かかっても、ほとんど分からないかもしれない。だったら、とりあえず土俵に上がって「シコふんじゃった。」と言っちゃえばいい。考えることも重要だし、考えながら行動することも重要だし、考える前に動き出すことも重要だ。ナンパな相撲部員のように、単位のために相撲を始めたら、結局優勝してしまったりすることだってある。土俵の中でも外でも、とりあえず、シコふんじゃえばいい。

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