オリエント急行殺人事件
3
人を殺していいわけはない
高級夜行列車内で殺人が起きる。列車は雪で立ち往生し、犯人が車外に逃げられる状況ではない。被害者には以前から脅迫状が届いており、刺し傷は12あった。ポアロが乗客たちに話を聞き、それぞれにアリバイがあったが、12人の乗客全員が、5年前の誘拐事件の被害者と関係があり、全員が共謀して誘拐犯への復讐をしたと推理した。そうなぞ解きをしたポアロは、もう一つの可能性として、マフィア同志の諍いで殺され、犯人は逃亡したと考えられるとして、そう警察に報告することにする。
幼女が誘拐されて、死んで発見され、親はそれを苦に自殺し、疑われた家政婦も自殺。一つの誘拐事件で何人もが死ぬことになった。それぞれに親族があり、犯人への恨みを抱えて生きなければならない。そんな人たちが一致団結し、犯人への恨みを晴らそうとするのはごく自然なことだ。三人寄れば文殊の知恵。12人寄れば、文殊3体分だから、たいていの人をだませる細工はできるだろう。
しかし名探偵が見事そのトリックを見破ってしまう。そして、被害者遺族に思いやりの行動をとる。下手な探偵なら、だれかが犯人だと思い込む。作中でも、乗客から話を聞くたびに、この人が犯人だ、と言う人がいて、見る側は惑わされる。
なんといっても、この作品の勘所は、トリックを見破ったポワロが、誰をも犯人として警察に突き出すことなく済ませたことだ。まさに名奉行の仕事だ。幼児を誘拐して殺すという極めて非道なことをした人を、のうのうと生かしておくなどということは、誰だって腹が収まらない。犯人を殺した乗客たちは皆、善良な社会の一員として生きている人たち。そんな人を刑務所に送り込むより、誘拐犯を殺した方がどれくらい世のため人のためになるか分からない。
でも、ちょっと待てよ、と考えてしまう。この誘拐犯にしたって、家族や友人がいるはずだ。もしかしたら、いつも護身用の銃を身に着けているような人だから、周りの誰からも嫌われているという可能性もなくはない。作中では、そこらへんは分からない。ただ生きている人が死ねば、誰かしらが悲しむ可能性は否定できない。
善悪の基準は、人の数だけあるという。社会を保つ最低限の規則として法律で人を殺してはいけないことになっている。法然は、親が襲撃された時、今わの際の父親から、報復するなと遺言された。釈迦の教えの最も有名なものに、恨みをもって報いれば恨みがとどまることがない、というのがある。
誘拐犯の子どもが、この事件を知ったなら、次の殺人事件を生むことになりかねない。12人に恨みを抱くから、次の事件は大量殺人だ。マフィアの子だから、そうなる可能性は高い。さらに、それで殺された12人の家族友人が報復したら、もう計算がたいへんなくらいの大量虐殺になる。
部分的に見たら、いいことをしているように思えるけど、少し視野を広げたら、えらい残虐なことをしているのかもしれない。オリエント急行に乗るくらいの富裕層だから、誘拐犯の周辺も調べ上げた上での計画だとは思いたい。が、仇討が成功して一件落着、と安易に考えてはいけない気もする。ウクライナとかパレスチナとかの、いつ始まっていつ終わるのか分からない戦いが行われている時だけに、ポワロの取った、うやむやにするという決着も、人が人と一緒になんとか生きていくには、必要な知恵なのかもしれないと思えてしまう。