日本暴力団 組長

ずるいことを臆面もなくできる奴が強い

 大阪の組が全国に勢力を伸ばそうと、各地の組と手を結んでいく。各地区では、大阪の組の進出に対抗するため、地元の組の連合会ができる。大阪の組はその中の一つにうまいこと言って手下にする。そして、手下と地元の組が抗争を起こし、両組とも体力を失う。そこに大阪の組が出てきて、勢力下に置くという戦術だ。

汚い。けど、人を戦わせて漁夫の利を得るというのは、昔からの戦術だ。誰もがそうしたい。そうしたいけど、現実にはなかなかできない。できないのは、そうする作戦を考えるのがたいへん、というのもあるが、そんな卑怯なことをしてはいけない、と自制心が働くからだ。

 ところが、生来のものか訓練のたまものかしらないけど、人として大切な心を持ち合わせていない人がいる。こう書きながら、そんな人の顔が思い浮かぶ。よくこんな卑怯なことができるな、と思うけど、そういう人は臆面もなく卑怯なことをする。むしろ、ありきたりな卑怯な行為を、優秀な自分だけが考え付く作戦だと言わんばかりの自信が伴っていたりさえする。

 この映画の大阪の組長は、自分の勢力拡大のためには、人を平気で踏み台にする。自分以外は皆、自分のための駒だと思っている。他者に人格があるなどとは、微塵も考えたことがないのだろう。こういう人間は、迷いがない。途轍もない行動力を発揮するから、出世することもある。

とある会社の社長が、自分以外の社員は皆、船底の火夫だと言ったという話を聞いたことがある。表に出て評価されるのは自分だけで、社員は皆、会社という船を動かすため、社長のために船底で汗を流し炭をくべるんだと、本気で言い、そして社員も安月給の労働に男気を感じていたのだそうだ。昭和だからか、ただバカが集まった会社なのか。でも、自己犠牲に酔う気持ちは分からないでもない。戦時中なんかは、ほとんどの人がそんな気持ちだったのだろうし。

 本作に登場する人たちは、ほとんど苦しんでいる。うまくいってるのは、大阪の組長くらいだ。ほかの小さな組の組長は利用されるだけだし、ましてやその組員は鉄砲玉。命を落としても、一顧だにされない。

一般社会の組織の中でも、ほとんどの人は汲々としている。大企業ならそれなりの給与が支払われているからまだ救いもあるが、中小企業の社員は今も安月給で社長の駒として使い捨てられている。この映画の鶴田浩二の組長のような、部下思いの社長がいわば非現実的な理想像だから、任侠映画もヒットしたのだろう。

現実は厳しい。鶴田浩二のような理想的な人物がいたとしても、そんな人はめったに上にあがっていかない。出世するのは、臆面もなく人を踏み台にする人だ。踏み付けて申し訳ない、と思うような人間味のある人は、人間味のある人の集団でしか評価されない。そんな組織があるのだろうか。

 悲しくなる現実だが、この作品の冒頭に、希望を感じられるナレーションがあった。暴力団は戦後の混乱期に各地で盛んだったが、世の中が落ち着くとともに衰微してきた、といった趣旨だ。世の中がよくなって、人の心に多少なりともゆとりが出てくると、人を踏みにじってのし上がろう、というような人は減り、そんな人の集団は力を失うというのだ。

確かにそうだ。昭和の頃を思うと、今の人は人への思いやりがある。受験戦争や出世競争に血道を上げるのをよしとする風潮が、昔より薄らいでいる。競争心が薄く他国に追い抜かれると批判する向きもあるが、人を押しのけつぶしてでも成果を上げて出来上がった繁栄社会より、競争は適当なところでよしにして、穏やかに暮らせる社会の方がよほど豊かな気がする。人を踏み台にするような奴は今の世にも存在するが、別の土俵で生きようとする人が増えた今、やはり人類はごくわずかずつでも進歩しているのかもしれないと思える。

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