コーダ

音がない世界

 主人公の両親と兄は耳が聞こえない。家族で一人だけ耳が聞こえる主人公は、何の因果か歌がうまい。家族3人は歌が聞こえない。娘の文化祭に行って、周りの人が手拍子してるのに合わそうとして、手をたたくと外れてしまう。

この映画で、音が聞こえないのがどんなか、まったく分かっていなかったことを知った。たぶん見た今もほとんど分かってないに違いないけど、わずかでも感じられたのは大きな収穫だ。

 映画が面白いかどうかを決めるのは、1割ストーリー、1割演技、8割音楽だと思ってきた。その映画で、音のない人を扱った。とはいえこの作品に音楽はある、というか、家族で唯一耳の聞こえる娘は音楽好きで、その歌がこの映画のキモになっている。ラストの歌テストのシーンは涙がこぼれそうになった。のではあるけど、耳の聞こえない家族だけのシーンで、無音のところがある。

こんななのか、と思う。主人公の家族は漁師で生計を立てている。漁船のエンジンの轟音もおそらく聞こえない。たぶん漁で重要な海鳥の鳴き声や魚群探知機の音も聞こえない。漁師としては大きなハンデだろう。それでも漁師で生きていこうと、父も兄も収入を増やすために頑張る。そして、その思いや考えを人に伝えるためには、誰かが手話通訳しなければならない。それが娘の仕事であり、娘の人生を拘束している。

 ヤングケアラーという言葉が一般化した。親が病気で働けないとかの話を聞くが、仕事をして収入はあるけど耳が聞こえなくて通訳しなければならないというケースもあるのだと、この映画で教えられた。国がなんとかしなければいけない話だと思う。

 今も窓の外から車の音が聞こえている。これが耳の聞こえない人にはないのだ。目が見えない人には、映画もなければ色もない。いや、この想像が当たっているのかさえ分からない。

手のない人は、足のない人は、匂いのない人は……。こう考えていると、自分は五体満足で一応ないものはないと思える。けど、さらに考えてみると、優れた頭脳には恵まれてないし、それ以上に運動神経、音楽センス、画才、といろんなものが欠けている。それで五体満足といって安心しているのか。

 かつて障害と言っていたものを、近年は特徴と言ったりする。特にかつて知恵遅れとか言ってたものを、近年はギフティッドと言ったりする。すごくいい。子供のころ、藤子F不二雄が人付き合いが苦手で、マンガ以外の仕事はできなかったと知った時、そんな人にあこがれた。人は多かれ少なかれ変な部分を持っている。それをプラスと捉えるかどうかは、判断する人次第だ。事実は、耳が聞こえるか聞こえないかだけで、実体にプラスマイナスはない。その時の心理状態によって評価は変わり、いいと思える時も悪いと思える時もある。

 この作品の主人公は、頑張ってバークレー入学を果たす。どんな状況にあろうが、どんな身体であろうが、とにかく頑張る姿は応援したくなる。こっちも頑張ろうという気持ちにさせられる。人生が楽しいかどうか、幸せに過ごせるかは、結局のところ環境や状況ではなく、自分のために自分の全力を出し切る努力ができるかだ。

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