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カネと友達、どっちを取るか

 フェイスブックがハーバード大学の、学内コミュニティから発生したことをこの映画で知った。ハーバード出身者で会ったことがあるのは、漫才師のパックンだけだが、普通に日本語が通じた。この映画の主人公ザッカーバーグは、むしろ京都本社にいるTを思わせる。一つのことに驚異的な才能と熱意を示し、通常の人間関係には幾分かの支障をきたす。使い方次第ですごいパフォーマンスを発揮するけど、周囲との軋轢も生む。そして当人は、そんなことを一切意に介しない。

そんなやつが、時流に乗ってカネになる事業で大成功。当然、友達を切り捨てる。……いや、そもそも友達だったのか。数少ない友達だったというやつも、資金源として利用しただけかもしれない。もしそうだとしても、ほかのザッカーバーグを利用しようとする双子なんかより、よほど人間としてまっとうだ。

 この双子、エンドロールで北京オリンピックに出たとあった。ハーバードすげえ。東大でオリンピックに出たというのは聞いたことがない。東大もボートはそこそこ強いらしいけど、それも大学制度の輸入に由来するのかもしれない。

 アメリカは訴訟社会だと聞くけど、この映画も裁判を軸に進んでいて、見ていて胸糞悪い。それでも最後まで見れたのは、ザッカーバーグを演じたアイゼンバーグの表現力だ。ザッカーバーグの人間性は知らないけど、たぶん変わり者で、それでいて自分にはいやでない人なのだろうと思わせてくれた。

 主人公はフェイスブックを大きくするために動いて、資金源にしていた友達と裁判で争うことになる。それって、幸せなのか、という思いがずっとついて回った。プログラミングのたぐいまれな能力を持ち、巨万の富を得られる才能があって、実際に巨大企業を立ち上げ世界有数の資産家となったとしても、人として心を打ち明けられる人を失うことと、どっちが得なのだろう。

よく思うことだが、たいがいのことはお金で考えれば、どっちを取るべきか分かる。ザッカーバーグが友を切り捨てるかどうかも、それで得られる利益を考えればいい。作中では、友を切り捨てた。友が企業価値より低いと判断したからだ。ザッカーバーグが友の存在を高く見積もったなら、そうはならなかったはずだ。

経済というと、数字で明確に表示できるように夢想している人がいるが、そんなことはない。未来を想定する以上、人間の想像が入る。それを踏まえた上で、算定方法にその時その人の思いを経済的数値に置き換えるしかない。

 今日もベンチャー企業が生まれ、次々と新たな百万長者を目指す若者がネット上で起業していることと思う。それと同時に、友を失っていると思うと、企業上場の鐘を鳴らす光景が悲しいものに見えてくる。

 こんなことを考えられるのも、今の日本が豊かだからだ。今日の食事探しにやっきにならずに済む社会を作ってくれた人々に感謝しつつ、ネット社会で道を過つ人が出てこないことを願う。


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