兵隊やくざ

逃げは、空間的にも思考的にも

 世の中の嫌なことのほとんどは人間関係だとされる。ストレスのもとは突き詰めれば人間関係で、中でも逃げ場のない家族関係が大きな原因となる。それが戦時中だと、国中が逃げ場のない人間関係になってしまう。

 初年兵の勝新太郎は、もとやくざでケンカがめっぽう強い。上官に反抗的態度をとる問題児だが、教育係の上等兵も軍隊が嫌いで、なにかと勝新の味方をする。勝新が暴れるのは、上官が階級をかさに着て気ままな行動をする時で、反抗して暴れるのは当然と思える。手前勝手な理由でなにかというと部下にビンタする上官をたたきのめす姿には、スカッとさせられる。

 いま「ビンタ」というと平手でピシャっと頬を叩くことを言うが、軍隊のビンタは平手に限らず、グーで「殴る」も含まれるのだと知った。平手で叩かれても、頑丈な勝新には響かず、上官はボクシングのストレートで殴る。勝新に味方する上等兵は、殴る伍長に向かい、軍隊でものをいうのは階級ではなく、何年いるかだと言って、自分の優位を主張する。そして勝新に反撃することを許す。

 上等兵は、年月がものをいうのは軍隊も刑務所も同じだと言ったが、これは僧侶の荒行でも同じだ。長く修行している者が、後輩より絶対的な優位に立つ。修行で先んじている先輩に、後輩が教えを乞うのだから、敬意を払うのは当然のことだが、これを誤解する愚者が出て、時々暴行事件が起きる。後輩に敬われるのに増長し、先輩は何をしてもいいと思うようになり、それを後輩も認め、そしていつしかその愚行がしきたりとなり、規則化されてしまうと問題が起きる。平等を説く仏教の修行にいびつな上下関係が生じたのは、軍隊経験者が戦中戦後に、軍隊式の統率法を持ち込んだからとの分析もある。

一般の企業でも、上司の横暴に泣かされている人は珍しくないだろう。学校でのいじめも似たような構造だ。立場が上の者が、下の者に傍若無人な態度をとる。時に人権無視の行為も行われる。今の一般社会では許されないが、軍隊では制裁という言葉で正当化されている。

 軍隊の上下関係がたちが悪いのは、逃げ場がない点だ。会社も学校も、逃げようと思えば逃げられる。もちろん、せっかく入社した会社を退職したり、転校したりするには、相当な労力が必要で、家族みんなの生活を変える覚悟が必要だ。でもやってやれないことはない。しかし軍隊は、どう頑張っても逃げようがない。もし逃亡したとしても、捕まえられて牢屋に入るのだから、軍隊にいるのとさして違いはないことになる。

 勝新と上等兵は、最後に軍隊から逃げる。そして上等兵は勝新に、シャバで生きる知恵は勝新の方があるのだから、これからは自分に指示をだしてくれと話す。上等兵は、その場その場にふさわしい考え方をできる人だ。軍隊という小さな枠組みではなく、人が生きるという大きな枠組みでものを考える人だったから、軍隊では無法と評価される勝新の行動を咎めなかった。

軍隊から逃げた二人はどこに行くのか。どこに行けば逃げられるのか。勝新はどこかの町に行くと言う。これが日本だったら、逃げおおせないだろう。満州だから、日本の組織の外に逃げられると踏んだのだ。

 逃げるというのは、今いる組織から外に出ることだ。上司がいやなら会社から逃げるし、いじめなら学校から逃げる。軍隊は国のやっていることだから、日本の国から逃げるしかない。

そして空間的に逃げるだけではなく、考え方もそれまでの発想を離れなければ、逃げた先で同じことを起こしてしまう。勝新に従うと言った上等兵は、そこまで考えての逃亡だった。

 逃げるというと、卑怯な行為と思われることがあるが、本当に逃げるのは相当な知恵と労力、覚悟が必要になる。特に大事なのが、固定化された発想から逃れることだ。苦の原因である人間関係から逃れることができても、そこで育まれた思考法を抱えたままだと、逃げた先で同じことを繰り返してしまう。またそこから逃げなきゃいけないことになってしまう。

どこにいても、いびつな人間関係、絶対的な上下関係があって、生きているのが嫌になる。軍隊のような固定化された組織にあって、その構造自体を変えるのは、個人の手に余ることだから、三十六計逃げるに如かずだが、その時忘れてならないのは、自分の中に、その嫌な組織で産み付けられた思考法が残っていないかと、ちょっとだけ振り返ることだ。

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