沼野雄司『トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在』書評(初出:『週刊読書人』3月29日発行号)

 知の宝庫、とはこういう本のことを言うのだろう。沼野雄司『トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在』は、著者の得意領域である現代音楽をコアにしながらも、美術、演劇、映画、小説といった隣接ジャンルとの接続がなされている。しかも、十分な必然性をもって、である。ジャンル横断的なつくりの本書は、専門家は専門外のことは知らなくていいのか?という問いを静かに突きつけてくるようですらある。
 例えば、「表象不可能性と音楽」と題された第7章。まず、アドルノの述べた「アウシュヴィッツのあとに抒情詩を書くことができるか」という文言が提示される。続くのは、アウシュヴィッツ第二収容所の写真を使用した美術家ゲルハルト・リヒターの作品「ビルケナウ」についてだ。
 そして、話題は映画に移る。ホロコースト生存者の証言のみで構成された9時間越えのドキュメンタリー映画『ショア』。監督のクロード・ランズマンは、『シンドラーのリスト』について、現実に起こった悲劇をカタルシスを得ることで忘れてしまってよいのかと、その倫理観を疑う。かつて「存在忘却」の克服を徹底的に追求したハイデガーの試行/思考も連想させる一節だ。
 映画に触れたのち、ようやく音楽の話に。ミニマル・ミュージックの大家であるスティーヴ・ライヒがホロコーストを〈何重ものヴェールをまとった音響〉と化した作品や、広島への原爆投下に想を得た楽曲に触れられる。シリアスなトピックが列挙される中、絵画を描くのが絶望的なまでに不得意だった著者が、自身が描いた静物画を〈リヒターを先どりしている感もなくはない〉と締めくくるのである。
 こうしたオフビートなノリは随所に散見され、難解とされる現代芸術を取り挙げる本書に、軽妙なグルーヴをもたらしている。個人的な趣味嗜好を一切隠すことないところも、この著者の誠実さの表れとして好意的に受け止めた。そして、最終章では、現代音楽への最も大きな不満として、〈それが十分な喪失感を味わわせてくれない点〉だと述べる。好きな映画ベスト3が『追憶』『卒業』『いちご白書』だという著者は、自分好みの喪失感を体現している存在として、K-POPのトップ・グループ=ニュージーンズの名前を挙げているのだ。 
 一気にポピュラー・ミュージックへと話が変転するのに驚いた読者もいるだろうが、こうした唐突で意想外の飛躍や跳躍が繰り返されるのが本書の醍醐味である。なんせ、先述のニュージーンズに関する考察は、「喪失感」をキーワードに、ミシェル・フーコーやマイルス・デイヴィスへと移行し、幕を閉じる。こうした懐の深さと射程の長さもまた、本書を特別なものにしている一因だろう。
 余談だが、喪失感を伴う音楽、ということで筆者が即座に連想したのは、小西康陽が率いたピチカート・ファイヴである。アッパーで開放的で華やかな彼らの楽曲はしかし、〈死ぬまでにたった一度だけでいい/思い切り笑ってみたい〉〈もう二度と恋なんて/舌を噛んで死にたくなる〉といった悲壮な歌詞を伴うことで、刹那的な煌めきを放つ。筆者を含め、そのハッピー・サッド感に、多くのリスナーが胸を撃たれたのだ。
 また、譜面に関する論考を多数所収したのも本書の特徴。驚嘆したのは、「4分33秒」を書いたジョン・ケージの偉業を〈ベートーヴェンと何ら変わらない〉と断じるところ。確かに「4分33秒」が楽譜、それも出版譜になることで「芸術」になった、という指摘は腑に落ちる。それは、デュシャンの作品(というかサイン付きの便器)が美術館に収められることで「芸術」になったのと同様である、と著者は言う。あるいは、美術家のトム・フリードマンによる、白紙が展示されているだけの「1000時間見つめる」なる作品も、〈美術館という魔法の制度を通せば〉芸術になるのだ、とも言い切る。
 楽譜や美術館は地図なくして領土がないのと同じだ、と、この論を閉じる著者だが、その後に続くのはなんと自分の乗っている車のカーナビの話題だ。〈タブラチュア(運指譜)は「ここを押さえろ」という表示はあるが、音楽の構造を示していない点で、カーナビに似ているかもしれない〉と述べ、その後、カーナビ的な性質の音楽を列挙してゆく。なんと柔軟な脳味噌の持ち主なのだろう。そして、そうした論理展開が意図的(戦略的、と言ってもいい)に行われていることのヒントが、本書にはこっそり隠されている。
 本の中盤に、音楽評論家の船木篤也と著者の対談が挿まれており、著者はこう言っている。〈この連載で考えていたのは、2つの方向からクリシェに暴力を加えたいということでした。一つ目はユーモア。そのために、ちょっと変なキャラとして自分を立ててみた〉――なるほど、内容の濃密さもさることながら、難解だと敬遠されがちな現代芸術にすんなりと入り込めるような文体(=形式)を選んだということか。つまり確信犯。それによって本書は、単純にひとつの読み物として無類の面白さを備えているのである。

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