鶴見済『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)書評 初出『週刊読書人』2022年9月2日号

 『この本の結論を一言で言えば、〈人間とは醜い面があるのだから、少し離れてつながろう〉ということになる」——『完全自殺マニュアル』の著者でもある鶴見済は、『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』の序盤でそう述べている。この「少し離れたつながり」は、社会学者のマーク・グラノヴェターが七〇年代に提唱した「弱い絆(ウィーク・タイズ)」に接続できるだろう。
 それと対照を成す「強い絆(ストロング・タイズ)」は、組織の結束感や団結力を強めるが、途中でコミュニティから脱落すると〝裏切り者〟と言われかねない。些細なことでいじめや排斥が起こるのは、学校でも会社でも同じこと。鶴見は学校や会社や家庭に適応できず苦慮したことを、本書の中で滔々と述べている。「強い絆」に捉われすぎたせいで、自分はその犠牲になったのだと。
 そこで俎上に載せられるのが、「弱い絆(ウィーク・タイズ)」だ。これは流動的で緩やかな人間関係を特徴とする概念であり、鶴見はそれに強いシンパシーを覚えているはず。実際、鶴見はこの概念を援用し、生きづらさを感じる人たちのための「不適応者の居場所」という集会を定期的に開催している。つまり、「弱い絆」の理論を自分なりに実践してもいるのだ。
 集会といっても、何かお題目があるわけではない。何を話しても話さなくてもいい。黙々と他人の話を傾聴するのでも、趣味の話をするのでも問題ない。帰りたくなったら、さっと帰る人もいる。鶴見が行っているのは、学校にも会社にも家庭にも馴染めなかった人たちの為の居場所づくりである。
 筆者はツイッターと連動できる「スペース」という通話アプリを使っているが、気の合う人たちとはオフラインでも定期的に会うし、一緒に旅行に行ったりもする。また、自宅の近所には、映画好きが集まるバーがあって、頻繁に立ち寄って飲み明かす。鶴見はゆるいつながりの場をふたつ持っているといいと言うが、それこそ筆者が知らぬ間に実践していたことだった。ひとつの共同体に頼り切ることの危うさを、鶴見は熟知しているのだろう。
 また、鶴見が繰り返し述べるのは、今では常識になっている慣習が、実はごく最近根付いたものだ、ということ。例えば、お茶の間での一家団欒のイメージは、明治時代に教科書や雑誌を通して培われたもので、欧米からの影響によって醸成された。鶴見が「人の詰まった箱」と揶揄する教室やオフィスができたのも、産業革命以降のことだ。
 鶴見は「恋愛やセックスとはそんな素晴らしいものだろうか?」という疑義も投げかける。以下は完全に男性視点での話、というか筆者の実体験だが、例えばマッチングアプリに相当な額を課金して、気の合った相手と運よくマッチしたとする。何度もメールのやりとりをして、話が合いそうだったらさりげなくデートに誘う。食事なら事前に店を決めてのぞみ、首尾よく合意できれば交際に至る。
 「儀式のような手続き」と鶴見が表現している通り、実に面倒で大儀なプロセスである。それも、うまくいけばの話であり、ダメだったらもう一度最初からやり直さねばならない。相手が変わる度に駆け引きや腹のさぐりあいになると考えると、暗澹たる気持ちになってくる。かくして、筆者は恋愛関係を半分降りるに至った。本書が出るかなり前のことだ。
 最後に、本書のキーとなる目次の見出しを抜粋しておく。「子どもがいなくてもいい」、「家族とは一生離れ離れでもいい」、「血のつながりにとらわれない」、「そもそも恋愛をしなくていい」、等々。要するに鶴見は、〇〇せねばならないという自動思考や認知の歪みに抗う術を提示しているのだ。そこから得られるヒントは、きっと役に立つ。書店にずらりと並ぶ薄っぺらな自己啓発書などよりも、よほど実用的な書物である。(とさ・ありあけ=ライター)

★つるみ・わたる=フリーライター。生きづらさの問題を追い続けてきた。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『0円で生きる』『完全自殺マニュアル』『脱資本主義宣言』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』『無気力製造工場』など。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?