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 禅宗の普及と発展に尽力した偉大な僧侶!

2023/04/20(木)

7回目 【入寂(にゅうじゃく)】

【要約】
道元禅師の入寂1までの経緯は、1252年(建長4年)の夏頃から始まります。その頃から道元禅師の体調が次第に崩れ始め、彼の健康状態が悪化し、活動が制限されるようになりました。このような状況下で、1253年に道元禅師は永平寺の指導を懐奘禅師(えじょうぜんじ)2に譲渡しました。彼は永平寺の指導者としての役割を後継者に引き継がせる決断を下しました。
その後、道元禅師は同年8月に京都にある俗弟子3である覚念の邸宅へ行き、療養を試みました。覚念は道元禅師のために最善の治療とケアを提供し、彼の回復を願って尽力しました。しかし、療養の甲斐なく、彼の体調は回復せず、ついに1253年9月29日(陰暦8月28日)に54歳で道元禅師が入寂しました。
道元禅師の死は、弟子たちに大きな衝撃を与え、その後の禅宗の発展に影響を与えました。彼の教えや精神は、弟子たちを通して後世に伝えられ、日本の禅宗の歴史に名高い存在として記憶されています。道元禅師の生涯は、禅宗の普及と発展に尽力し、多くの人々にその教えを広めることに情熱を注いだ姿を示しています。

【経緯】
1、道元禅師の体調の悪化
  ・1252年(建長4年): 夏頃から道元禅師の体調が次第に崩れ始める
  ・彼の健康状態が悪化し、活動が制限される
2、永平寺の指導者の交代
  ・1253年: 道元禅師は永平寺の指導を懐奘禅師に譲渡する
  ・永平寺の指導者としての役割を後継者に引き継がせる決断を下す
3、京都での療養と支援者の尽力
  ・同年8月: 俗弟子である覚念の邸宅へ行き、療養を試みる
  ・覚念は道元禅師のために最善の治療とケアを提供する
4、道元禅師の入寂とその影響
  ・1253年9月29日(陰暦8月28日): 54歳で道元禅師が入寂する
  ・彼の死は弟子たちに大きな衝撃を与え、その後の禅宗の発展に影響を与
   える

【まとめ】
道元禅師の生涯は、禅宗の普及と発展に尽力し、多くの人々にその教えを広めることに情熱を注いだ姿が伺えます。入宋して正師と出会い、帰国後は日本の禅宗に大きな影響を与えました。彼の教えや精神は、弟子たちを通して後世に伝えられ、日本の禅宗の歴史に名高い存在として記憶されています。最期まで禅宗の指導者としての役割を果たし、後継者にその任を託しました。道元禅師の生涯は、禅の精神と実践を広めるために尽力した姿を示す貴重な記録です。

【用語の解説】
1、入寂(にゅうじゃく):主に仏教用語で、尊敬すべき僧侶や高僧が死去することを敬虔4な言葉で表現したものです。死を「寂静な境地に入る」と捉え、悟りの世界へ至った状態を示唆しています。この言葉は、死を穏やかで美しいものと捉える仏教の価値観を反映しています。

2、懐奘禅師(えじょうぜんじ): 曹洞宗の第五祖、懐奘宗杲(1270年 - 1351年)の尊称。道元禅師と瑩山禅師の教えを継承し、曹洞宗の発展に寄与しました。

3、俗弟子: 仏教において、師から法を授かり、入門や伝法を受ける弟子のこと。師から教えを受け継ぎ、修行を積むことで成長します。

4、敬虔(けいけん):宗教や信仰に対して深い敬意と尊崇の念を持ち、それに従って心から信じ、行動する態度を指します。敬虔な人は、信仰心が厚く、教えや戒律を厳格に守り、神や仏に対する尊敬や畏れを心に抱いています。敬虔さは、宗教的な生活を営む際の大切な要素とされています。

【追記】
当サイトは個人的な見解や意見に基づいたものでは一切ありません。多様な文献や資料、そしてインターネット上の情報源を参考にして、可能な限り柔軟かつ包括的な観点から、正確な情報を提供することを目的としています。また、実践しやすい形で箇条書きで構成しています。

~ 本日の写真: 曹洞宗の開祖『道元禅師示寂の地』~
曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところ
京都市下京区高辻通西洞院西入永養寺町

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