VRchatに成果主義は必要か

どうも、久しぶりに頭に血が上ってるアリエスです。本記事は下記の記事に対する明確な反論であり、大人気のない嘆きです。これが悪行なら、私は悪人でいい。

該当記事の筆者の態度や言い方。それらは別に本筋には関わらないので置いておこう。私が怒っているのはそこではない。

現実の厳しさを教えようとする傲慢さ

該当記事の最初の方にはこう書かれている。
「私は全ての私自身をも含め、現実とのジレンマを抱えたVRC民を救おうと企てていた。
それには、まず仮想現実と現実とのギャップを強引に知覚させ、その上で仮想世界であれば救われるかもしれないという幻想こそを壊さなければ、ギャップの根は破壊し得ないと思った」

「そして超現実的な偏見的イメージを持って滅多打ちにし、なおかつその暴論を作品中で私自身へも向けることで、それは全てを巻き込み昇華されると企んだ」

これらの文からは、彼は悪意ではなく、むしろ善意で何かをしようとしていた事が読み取れる。VRchatに生きる人間に対して「仮想世界で救われるという幻想を破壊し、現実の厳しさを知覚させて救い出す」という手法を取ればVRchatの民を救えると思っていたのだろう。

しかし、今一度考えて見てほしい。
VRchatの住民達とて大人だ(子供もいるが)。
現実が辛く厳しい事なんて当然分かっている。
分かった上で、それぞれがそれぞれの動機でVRchatという世界に来て、各々が思うままに生きている。VRchatは現実に近い場所ではあるが、どこまで行ってもゲーム。現実で生きにくい人間でも最低限のセーフティが保証されている、安心して生きられる場所。該当記事の筆者の行いはそれを破壊しようとする試みであり、反感を買うのは当然と言える。

該当記事の筆者のしようとしたことは
「VRchatの民が現実とのジレンマに苦しんでいると決めつけ」
「現実の厳しさを突きつける事こそが善であると信じて」
「仮想世界に生きる者たちに「こんな事では現実世界では通じない」と批判した」
これがいかに暴力的で、人を傷つける行為か。
テレビマンだというなら分かるはずだ。

該当記事の筆者の試みは善意ではあるが傲慢でもあり、かつアプローチの方法も暴論による暴力的なものであったがゆえに本来の意図が届かなかったのだろう。

スタンミ氏はVRchatの代弁者ではない

ひとつ理解しておかなければならないのは、スタンミ氏は決してVRchatの代弁者などでは無いことだ。いや、そもそもVRchatの代弁者などVRchatの歴史上どこにも存在しない。居たのはVRchatという世界で思うままに生き、自分なりのやり方で自分を表現しようと試みた者達だ。その中にはインフルエンサーだけでなく、細かい視点で見るなら個人でアバターを改変している人や、自分のペースでこの世界を楽しむ人等も含まれている。


その上で、何故スタンミ氏が受け入れられたかについては「同じ目線でこの世界を楽しんでくれているから」なのだろう。部外者の目線ではなく、同じ世界を同じ目線で遊ぶ一人のユーザーとして訪れてくれたから、多くの人に受け入れられている。その態度や在り方が彼の本心かどうかは分からない、しかし少なくとも我々の前では同じユーザーとして振舞っている。ならば我々にとってスタンミ氏は既に、この世界を共に楽しむ同好の士と言えるのではないだろうか。
そのため、あえて「VRchatの良き代弁者」の条件を定義するならば、それは「ユーザーの目線でVRchatの世界を楽しむ者」なのだろう。

活動の否定

該当記事の筆者は我々の活動を否定していたつもりはなく「確かに自分は滅多打ちをしたが、それは現実とのジレンマを直視しない傾向そのものに対してである」と主張している。であればわざわざ選民思想とか回りくどい言い方を避け、「現実を見ろよ」と分かりやすくハッキリ言うべきである。事例としてVRchat上での活動を選民思想だと批判的に語った事が、活動そのものの否定と取られてもおかしくはない。自らの行いに否定的な人間が来たら、当たり前だがいい気はしない。


それに、そもそも前提がおかしい。この世界の住民全てが現実とのジレンマを抱えている訳ではないし、抱えていたとしてもそれは他人が安易に口を出せるような範疇では決してない、極めてデリケートな部分である。まず触れるべきではないし、触れるとしても相当慎重なアプローチを取るべき事象である。自覚を持って暴論という形のアプローチを取っておきながら、そこまで否定する気は無かったなどでは済まされない。
言葉は使い方次第で人を殺せる武器になる。殺す気がないなら武器は慎重に選ぶべきである。


「メタバース選民思想説」は何故受け入れられなかったか

該当記事の筆者が何故あそこまで炎上したのか。
これは極めてシンプルな話で、単純に「メタバースに現実の数字や成果を持ち込むのが野暮だから」である。この世界には現実に疲れて休みに来た人や、現実では出来なかったことを個人単位の小さな範囲でやっている人達も多くいる。
確かにそれらはごっこ遊び、あるいは非生産的な行為なのかもしれないが、それらの行為は確かに彼らの幸せに繋がっているのだと私は信じている。

現実は厳しい。やりたい事を自由にやって生きていける人間などひと握りだろう。そして夢破れこぼれ落ちた人間はごまんといる。しかしメタバースはささやかながらも夢を叶えられる場所だ。手間の割にお金にはならないし、現実の職業や催しに比べればごっこ遊びの域を出ない。それでも、思い描いた夢を形にできる。今までひと握りの人間にしか許されなかったことが、規模は小さくとも叶えられる。

メタバースの価値とは「大きな成果を上げられずとも思い描いたものを形にできること」でもあり、そこに成果を持ち出すのはまさに夢を壊す野暮な行為である。
つまり、「メタバース選民思想説」が受け入れられないのは該当記事の筆者の伝え方が悪かったり、態度が悪かったというよりは「メタバースにおいて成果主義を持ち出す事自体が場違いであり、誰も幸せにならないから」というだけの話に帰結する。

最後に

自戒を込めて言うなら、批判とは愛からくるべきものであると考える。批判は時として強い言葉で相手を否定する場合がある。なればこそ、その批判は相手の幸せに繋がるのか、その批判が相手を想う愛情から来るものなのかを確かめ、そこまで考慮しても尚、批判は自らのエゴであると承知してするものである。

本当の意味で人の心を動かすのに規模や数字などは問われないはずだ。
言葉や伝え方を常に磨き、相手に対して本気で向き合おうとする姿勢を持ち続ける事が、人の心を動かすのに必要な在り方と考える。勿論それは決して容易ではない。しかし、説得力とはそういうひたむきさや真剣な態度に表れるものなのだと私は思う。








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