(後編)メタバース選民思想は曲論か正論か

初めに

まずこの読者の対象を切り分けることにした。
私自身、幾人かが論を深く理解してもらえればそれでよく、その目的は前回達成したからである。炎上してはいるけれど、多くの耳目は集めたし、なおかつ自分自身に火をつけた自爆芸であるから、人へのやっかみとして他人に迷惑をかけたものでもない。

だからこそ、その世間体の炎上に流されず深く理解し、コメントを寄せてくれた人間に対して、より希釈せず原液で書こうとまず考えた。
であるから、表面的な批判をする輩は読者の勘定にはいれない。私の誤字脱字でもチェックしておくれ。

本論

さて、では本論を進める。
私は全ての私自身をも含め、現実とのジレンマを抱えたVRC民を救おうと企てていた。
それには、まず仮想現実と現実とのギャップを強引に知覚させ、その上で仮想世界であれば救われるかもしれないという幻想こそを壊さなければ、ギャップの根は破壊し得ないと思った。厳しい現実と仮想世界こそを半ば暴論ではあるが比較をすれば、どちらもさほど変わりはないことに気づく。どこへ行っても他人らがいるならそれもまた一つの現実だ。

そして超現実的な偏見的イメージを持って滅多打ちにし、なおかつその暴論を作品中で私自身へも向けることで、それは全てを巻き込み昇華されると企んだ。最後に読者反応において、世間体の鍋の中で私が炎上すればするだけ、選民思想と呼んだムラの共同体意識はよりカタチを取れる。そしてその時に初めて読者は仮想世界と現実のギャップはそれほどなく、案外現実世界と同じくらい厳しいものだと分かるだろうと。

けれども、私が予期していたよりもムラの共同体意識は強固にあった。それは選民思想だと批判出来るほど小さいものでは既に無かったのだ。もはや強力かつ普遍性を持ってしまっている。傾向や思想といった小さいものではなく、既に現象として確かに醸造されていたのだ。

私は現象は等しく扱わなければならないと言う立場を取っている。それが良いか悪いかを決めるのは、まず基本的倫理観であるように思うが、その先は時代が決めるように思う。その時代が決めるまで、その時代が注文し終えるまで、その現象を食べやすく様々な味で料理し、多面的にライトを当てるのがニュースを扱うテレビマンとしての矜持である。

よって本論は前回のリアクションの中で大きな誤解を得た部分を補うことにする。初めに誤解を持たれた上で、これからの論を展開するのは非効率的だ。

ここまで書いたら読者は分かると思うが、この話は本論で決して終わりではない。これからより多面的にnoteに自身の考えを記していこうと思っている。

さて、まず先に表題の回答を述べるが、私の論、メタバース選民思想は極論か正論を越えた、もっと大きな力を持つ現象になっているし、なっていくと思う。
もはや選民という生ぬるいものではなく、市民意識としてより広範囲かつ普遍的に存在していくだろう。

選民思想への立場 

まずこれは否定というよりも自身の認識のアップデートであるが、前述したように選民思想は最早現象である。前は私自身、そのムラ意識に対して批判的立場を取ることで選民と呼んでいたが、これからは市民意識と呼ぶことにする。蛇足ではあるが私個人としては憎みを通り越し、最早現象であるから愛している。

スタンミ氏への立場

スタンミ氏へのやっかみ、憧れというのは一欠片もない。なぜそのように汲み取ったのかさっぱり分からないが、汲み取られた以上は否定する。
スタンミ氏のVRCへの配信姿勢はいちVRC民として待望していたものではある。そして、私が着眼しているのは次のスタンミ氏に次ぐ存在が、VRC民にとって受け入れられるか否かである。今まで外世界のテレビやYouTubeに対して、大きな影響力を持った方は大勢いた。

けれどもそれら代弁者として送り出された人物は、昨今のスタンミほど肯定はされていなかった。だとするならば、その両者に何か線引きが引かれるはずである。

なぜ我々の中から出てきた代弁者であったはずの人物ではなく、外からきたスタンミ氏こそがVRCの代弁者となり得たのか。そこには恐らく良い代弁者への規定というものがあるだろうから、それを言語化せずに次のスタンミ氏を待つ盲信的な行為は批判されるべきと私は思う。

それが私の考えであるから、別にスタンミ氏個人は興味の範疇ではない。ただストリーマーはクリエイター的側面もあるから尊重と敬意はスタンミ氏には持っている。

活動の無意味さについて 

こちらも不思議な話だが、なぜか全ての活動を否定しているように取られた。そこまでの暴論を言ったつもりはないが、人は理解するのを諦めた時、極論的に意見を見るのだと改めて発見した。
私自身、VRChat文化を広める活動は広く応援していて、多くの活動家を動画という形で紹介してきた。信念だけでなく自身の技能を使って動画という活動でも応援してきた。これからもその姿勢は変わらない。

これをあえて宣言するのは、勝手に団体名を持ち出される批判や、意味があるという宣言には、はっきり言えば閉口したからだ。確かに自分は滅多打ちをしたが、それは現実とのジレンマを直視しない傾向そのものに対してである。参戦したつもりのない戦に巻き込まれると、その批判を否定しても、より巻き込まれるので、これ以上は申し訳ないが無視することにする。感想自体は受け付けているけども、話し合う選択肢は私にもあるように思う。

それに、活動を否定するような言い方(想像の上で)が気に入らないという上辺の理解だけで、ムラを守ろうとする行為こそが、選民的愛国主義であるとも思うのだが、現象であるから仕方がないと半ば諦めたのだ。

終わりに

さて、大きな誤解(曲解なような気もするが)は
この3点であった。

ほとんどの批判(と呼べる批判)は、私の瑣末な論作品を読み解こうとして頂き大変ありがたかった。もし自身でも興味のある分野が出れば、それぞれnoteに書いて頂きたく思う。私自身の論は多面的に考えるつもりではあるけども、私自身だけの論には後世の発展性はない。

最後に現在、作成を予定している論題名をここに書く。もし気になる項が読者にあれば、文化の発展のために、持ち合わせの知識を共有するつもりであるから、何かの形で連絡して頂きたい。

VRC民の行動を多面的に捉えた思想作品が多く現れることを願っている。

今後の予定論題名集

・VRChat市民意識のめばえ「あなたはぶいちゃ民ですか?」

・プロジェクトサマーフレームという神話 

・ミラーは洞窟の焚き火になりうるか 「ミラーの前で話し込む美少女たちは何をみるか」

・VRChat民における ぶいちゃする感覚 とはなにか。 ~原田曜平「chill(チル)」と「ミー意識」を補助線に〜

・これからのVRC民の思想派閥のゆくえ~現代のグロバーリズムとナショナリズムから~
「VRChatクリエイターは現実に対して開国するべきか」

・界隈部族意識のジレンマ1 推し活は推しの文化の発展を阻害するか?

・界隈部族意識のジレンマ2 ムラの世間体は文化の発展を阻害するか?

・VRC民族意識内でのスタンミ氏の功績 
 ドゥルーズ&ガタリ 2012「シネマ」
 「スタンミ氏の夏は神話の再生産であったか」

・スタンミ氏による「VRCの銀河系」

・よいぶいちゃ民の規範~村の世間体とは〜

・これからのポスター標語を考える
「きれいなアバターで胸を張れ」の次は

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