無題の私小説(仮)①

期待を持って暮らす事が
年々難しくなっている。
こうなりたい自分を思い描くのも最早、と
いった感じである。

では、幼少の頃に期待があったのかと問われると
自身への呆れを裏返して表した
ユーモアの範疇だったと記憶している。

とはいえ、そんな私のこれまでを
悲観している訳ではない。

地下鉄の駅近くにあるマクドナルドは
陽気なラテン音楽が鳴っていて
過緊張の私をただ浮き彫りにするだけで
軽やかな気分に誘うまでには至らない。

風邪の時ののど飴程度かと思いながらも
軽やかに腰を回し踊る外国の人を思い浮かべて
私もそうありたいと少し憧れを抱いたけれど
日本の治安の良さ等と天秤にかけて
引き続き平和ボケの中の
込み入ったケーススタディに身を投げ入れ続けている。
結局、私は変化を嫌う。

2階席は人がまばら。

私は薄いソーセージが挟まったマフィンの
包み紙を丁寧に剥ぎ畳み、少しずつ口に運ぶ。
塩味と胡椒の強い刺激は、舌を越えて喉の奥にも
美味しさを訴えてきた。
私はそれをアイスコーヒーで洗い鎮めた。

消費の象徴のような店に座り
私はこの程度なんだと、深く納得した。
してしまった。
私の伸びしろは、もうないのだろう。
いや、そもそも伸びしろとは何なのだろう。
それを言い表すスキルも気力も、私にはない。

窓際に座ったので、外を見ていた。

冬は終わった。でも、春の気配はしない。
このまま春の様々を感じ取る事なく
夏を迎えてしまう気がする。
季節感は段々とカレンダーには則ることをやめ
ランダム再生のように行ったり来たりを繰り返し
次第に個人の精神論になっていくのかも知れない。

スマホを取り出しニュースを見る。
来週桜が咲くらしい。

ああ、そうだ。
期待を持てないなら、持てないなりに
伸び代がないならば、ないなりに生きていこう。
それが私であるから。
誇りは持てなくとも自覚を持とう。

そして。
都度都度の話題について、それぞれの正しさの主張ばかりに勤しむ世の中で、私は自身の正しさを定められないし、どのコミュニティにも属せないのだから逆行して、人が真っ先に切り落としたり
ごまかしたり、隠したりすることに焦点を当てて
時間を注いでみようと思う。

私がいかに滑稽で無知で恥ずかしい人間か
記してみよう。

つづく

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