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ありがとう まとめ① がらがら/看板

これまでYoutubeにアップした音源を
新しいもの順でレビューします。

①がらがら(22年)

 開店前だと知りながら
 がらがらと引き戸を開く。
 餃子屋の店主は棒状の小麦粉の塊を
 金太郎飴のように切り分けている。
 「まだですかね」「いいよ」

 2人前と瓶ビール。
 小皿に酢醤油。
 酢コショウ用に酢を置く店は多いが
 この店には酢醤油と辣油だけ。

 鉄鍋にお湯を注ぐと
 店主はまた金太郎飴を切り分ける。

 包みの緩い皮と皮。
 出来るだけ崩さないように
 箸先で切り剥がす。
 ここを誰かに勧めたいとは思わない。
 ただ、私はまたここにくる。

 壁には今も昔も
 水着の人がジョッキを持って笑っている。
 演歌が主張しない程度のボリュームで
 咀嚼の隙間に染み入ってくる。
 先の読める安心感。
 変わらないものは変わらない。

 辣油を差す。

 消音されたテレビ。
 夕方のニュース。
 それらしい熟語と横文字の略語が 
 赤いまんまるの赤さを謳う。

 白い余白の片隅で
 店主は餃子を包み
 私は腹を満たしている。 

 赤いまんまるは円柱となって
 高く高くそびえ立っている。
 その影を避けるように
 私たちは空を見上げ
 文字盤をずらし、ずらす。
 滑稽だとは分かっているけど
 それは仕方がないことだと私は想う。 
 放射状の残りを浴びて、悦びを翳して
 暮らしている。

 そういえば、祖母に手を引かれ
 この街の隅々を知った。
 小さな街こそ見栄や卑屈が入り混じる。
 大きな教会の前を通り
 斜陽が差し込む横丁の酸っぱい匂いを嗅ぎ
 ばったり会った人と話す祖母の手を離し
 タイルの隙間に生えるペンペングサを
 捻り回しながら大人の会話を目で追った。

 思えば、遠くに来たもんだ。

 がらがらの餃子屋は
 19時を過ぎると満席になる。

 私は皿と瓶を重ね並べて
 一万円札しかない事を
 トラディッショナルに詫びた後
 灯りの灯った裏路地を
 お釣りを握って煙に誘われ
 私の続きを続ける。

②看板(22年)
 
   人は何かしらを売って暮らしている。
 売り物なんかなくても、売りたくなんかなくても
 体をなすための看板を掲げる。

 オリジナルだと言い張るか
 目利きの良さを誇ってみるか。

 どちらでもないのならば
 その日その時の体調に身を任せ
 絶妙な平凡さを掲げよう。

 オルタナティブが溢れている。
 でも、平凡を地で行く中に
 隠れる狂気を私は知っている。
 どこにでもありますが、と
 頭を掻きながら。

 私の好きな一節がある。

「僕の思念、僕の理想、そんなものは
 ありえないんだ。 言葉によって表現されたものは、 
 もうすでに、厳密には僕のものじゃない。
 僕はその瞬間に、他人とその思想を
 共有しているんだからね」
 「では、表現以前の君だけが君のものだという
 わけだね」
 「それが堕落した世間で言う例の個性というやつだ。
 ここまで言えばわかるだろう。つまり個性というも  
 のは決して存在しないんだ」
 (この一節の含まれる三島由紀夫の小説は
 読んでない。寺山修司「ポケットに名言を」にて)

 先にYoutubeに上げたから
 もう差し替えられないけど
 soundcloudの音源の方がニュアンスが出ている。

読んでくれてありがとう。

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