迷ったら基本に立ち戻る。 物事に善悪を見出さず、心に浮かぶ表象を吟味しながら慎重に過ごす。 嫌悪感が湧いたとしたら、その対象を悪だと認識したからだ。 表象を確認したか?好ましくない物事を使って美徳を為せたか? 何が起きようとも、今この瞬間ストア哲学を実践する。 それがお前の仕事だ。
語録からの引用。「すべてのものの悪はそのものの自然本性に反するものだ」。 自然から与えられたそれそのものの善さ、アレテーに反するものが唯一の悪だと。 では「考える葦」たる人間にとっての悪とは?考えないこと、だろう。 逆を言うと、思慮という徳さえ外さなければ、人間として悪くなることはありえない。 もし外的に損しても、それによって徳をなせば益を得ることかできる。
ストア哲学と仏教哲学の関連性。 直接的な原因である「因」と間接的な条件である「縁」、因と縁が揃って結果、物事が結実する。 因はコントロールできるが、縁は自分次第では決められない。 縁を嘆いて因を疎かにするのが人間の不幸の共通項。 根本的な部分は自然の理解、どちらも同じことである。
「損害を受けた」 そう感じたら、自然な感情を認めたうえで「悪徳を譲った」という言葉で正しく認識することだ。 そのようなことは他の者に任せておけばよい。 お前の脚本にあるのは、悪徳を忌避し、美徳に欲求を向ける姿た。
因と縁という概念がしっくりくることもある。 ある物事について直接的な原因となった因と間接的に影響を与えた縁。 その両方、因と縁が揃っだ時にその物事が結実する。 ストア派でいうと内的な意志が因、それが実現するかどうかは縁に左右される。 縁をコントロールすることはできないが、内的な意志である因を邪魔されることもない。 縁は自然任せ、因こそお前の仕事だ。
マルクス・アウレリウスいわく、 「この世で大きな価値のあることはただ一つ、嘘つきや不正の人びとに対しては寛大な心を抱きつつ、真実と正義の中に一生を過ごすことである」。 他人の悪徳に流されず、鍛えてくれていることにむしろ感謝する。
一般の社会は外的な善(利得)を勝ち、外的な悪(損害)を負けとみなすゲームである。 そのルールを変えてしまう。 外的な善は勝ちではないし、悪も負けではない。 それらは勝ち負けの材料、例えば大喜利におけるお題のような位置づけである。 お題を使って美徳をなせれば勝ち、悪徳に陥ったら負け、というルールのゲームだと考えること。
不幸な事故で家族を亡くした。その際にストア派哲学者がいいそうな言葉がある。 そんな事故に遭わなければ家族は死ななかったのか?と。 そんなはずがない。 何が起きても起きなくても人は死すべき運命にある。 どのような方法であれ、その家族が死を逃れることはなかった。 それにも関わらず、まるであるまじき害を受けたように語るのか? だとしたら、それは自分の言葉で苦しみを増やしているようなものだ。
その程度で害を受ける、崩れるような脆弱な意志なのか?何度でも思い出すこと。 お前の理性は外から害されることはない。 害を受けたと思っている、だから悪だと感じるのだ。 精神の城塞を崩しているのはお前自身の判断。 いかに理解不足か目を逸らしてはならない。 鍛えたい分だけ試練は訪れる。 逆境や困難を使って人間を完成させろ。
ストア派を理解するのに不可欠なのが自然を理解すること。 本来ならば、ギリシャ神話の神々に対する信仰が基盤となるが、同じものを現代の日本人に求めるのは難しい。 基本、神々は自然や自然淘汰と読み替えて差し支えないし、 あとは因縁生起の「縁」の概念がしっくりくるのではないか?と思う。
これまでは便宜上、人間を賢人と大衆みたいに二項対立で考えていたが、実際はそうではない。 どんな人にも両方の要素が混合されている。 賢人要素だけの人もいないし、大衆要素だけの人もいない。 動物的な大衆の部分、人間的で賢い部分。 あるのは比率の違い、優位性の問題なのだろう。 他人と関わる際はこう思えばよい。 この人が有している賢人要素、人間的で賢い部分と関わると。 そうすれば、どんな人も見限ることなく適切な関わりができる。
明らかに悪意がある相手とはいえ、そこに損害を見てしまったのはこちらの落ち度。 否定的な表情によってどうにか避けたいと操作的になってしまったことを反省。 事後ではあるが、きちんと自覚できていることは評価。 今後も同じようなことは起きるが、逆に格好のトレーニングマシンともいえる。 相手の反応がどうであれ、こちらから城塞を開けないようにすることが目標。
虚偽や憶測、曖昧なことに同意を与えず、 衝動を全体の調和、公共のためになることに使用し、 好き嫌い、欲求や忌避を自力でどうにかできることにのみ向ける。
「損をした」のではなく「美徳を大事にした」と正しく表現すべきだろう。
誰かや何かに対する否定的な感情が消えない?その場合、それが害である、悪であることによって受けている恩恵や害悪があるはずだ。 外的なもののために否定的な感情を持つことになる。いい換えれば、心の平静を支払っているということだ。 よく考えてみることだ。心の平静を手放してまで執着するほど、その恩恵や害悪は大きなものなのか? 外的な何かに価値を置いている限り、気持ちの乱れは避けられない。 何が大事なのか自分で選択すること。
よく言われるように、乗り越えられない試練は起きない。 認識していることはすべて乗り越えられるし、意志を強くするための恩恵なのだ。 自然の采配を疑わず、理性を鍛える機会に感謝する。