この人は支配できないというのは直感的に分かるものだ。 お金や地位を与えても、大事なものを奪ったり人質に取ったりしても、 外的なものによって、外からこの人は屈服させられない。 コントロールできないことが直感的に分かると、弱い人ほど恐れの感覚を抱く。 外的なパワーとは比較できない何か。 たいていは遠避けるか、さもなければ、より力を誇示するか、どちらかである。
ネットやテレビの情報が不快なのは、それらが弱さに語りかけるものであり、 愚かさを刺激する性質を持つからだ。 損得勘定や席次、食べ物、見た目についてなど話題は基本、外的なことであり、 賢さを求める人にとって必要な情報はまずない。 ただ、弱さが優位な時などは、その手の情報に吸い寄せられることはあるだろう。 弱さは悪ではないが、弱いままいることは善ではない。
富や地位を自分でコントロールすることはできない。 本来、それらは自分で得るものではなく、他人から与えられるものだからだ。 では人は、どんな人物にそれらを与えたくなるのか? 英知や美徳を持つ人である。 富や地位はコントロールできないが、英知や徳なら自分の意志で育てることができる。 よって人生で何をするべきかは明白だ。 富や地位を得るためではなく、それ自体のために美徳に欲求を向ける。 唯一、それだけが自分次第でコントロールできることであり、 正しいと信じることに、
成長するにはもっと強力な相手、外的なきっかけが必要なのだろう。 その点、今の環境は理不尽に恵まれている。 ここまで心理的安全性の低い環境はなかなかない。 理不尽が強ければ強いほど、それに比例してより大きな賢明さが求められる。 環境そのものに善し悪しはない。自分の弱さ、動物的な部分との戦いだ 好ましくない環境から善いものを引き出せるかどうかはお前自身が決められる。 この環境に打ち克った時、お前は何でも受け入れられる人間になっている。
たいていの人は富や地位、権力といったパワー、力そのものが強さだと勘違いしている。 お金や地位に溺れて人としての判断を誤るのはむしろ弱さであり、 本当に強く賢い人が外的な力を求めることはない。 偶然、手に入った力に支配されることもないのは、力を入れるための器が十分あるからだ。 器か小さい人ほど、なぜか力そのものを求める。 それは弱い人が歩む道であり、必要を超えて何かを求めるのは虚栄が強いからだ。
哲学とは要するに「人間の美学」だ。 人はどう生きるべきか? 美学とは、人間が生まれ持った自然を完成させるための学問である。 人間の美しさは弱さや愚かさ、醜さを背景に浮かび上がるものであり、 弱さを経ることなく強く、賢明であることはできない。 人間が持つ愚かさや醜さを見たくなるのは、そうでないものへの貪欲さゆえ、かもしれない。
ショーペンハウエルは「富というのは海水と似ている。 飲めば飲むほど喉が渇く。名声についても同じことだ」といっている。 「富や地位」は、それら本来の効用以外にも「英知や徳」の欠落による自己非難の責苦を和らげる効果がある。 要は精神的な痛み止めだ。 だが、富や地位に尊敬や感嘆を返すのは「財産への道」を行こうとする弱い人だけである。 彼らの虚栄心を刺激して、尊敬や感嘆の目を向けさせなくてはならない。 「富や地位」は持っているだけでは機能せず、周りに見せる必要があるのだ。
心理職の本質とは何か? 弱さの中から賢明さをつかみ取る手伝いであり、弱さの迷路から賢明さへと導くこと。 人はいつでも常に賢くある必要はない。 愚かさや醜さから脱して人間を完成させること。 弱さがなければ、賢明さも見出せない。 弱さがあること自体、まつたく構わないのだ。 そこから脱する過程を手伝うのが心理職の本質であり、お前自身、その道のりを知らずして案内役が務まるはずがない。 日々、遭遇する外的なきっかけから「弱さ」を引き出し、打ち克つ。 日々、愚直にそれを繰
精神を健全に保つには何をどうすればよいのか? 起きた物事に対して生じるパンタシアを認識し、それが自身の価値判断から生まれたものであることに気づく。 戦うべきは他人や物事のようなきっかけではない。 それによって炙り出される「自身の弱さ」が本当の敵だ。 虚栄を完全に無くすことができない以上、お前も日々、弱さと遭遇することになる。 間違っても他人事ではないし、油断してはならない。 できないことを人に教えるのは恥ずべきこと。
何と戦うのか?敵は誰なのか? 外的な損得を与えてくる他人や物事か?そうではない。 それらによって炙り出される「自身の弱さ」が本当の敵であり、それはお前自身の判断で打ち克つことができる。 それに対し、外側の敵とは、本当の敵を引き摺り出すためのきっかけに過ぎない。 きっかけとの戦いは外的なものであり、そこに善も悪もない。 外側の戦いで勝とうが負けようが、本当に重要なのは内側の敵に屈しないこと。 真に戦うべき相手は常に自分自身だ。
原則に立ち戻ること。 お前を煩わせているのは何なのか?物事そのものではなく、その物事についての考えである。 心が苦しいのは、弱さとの戦いに負けて逃げ出したからだ。 胸中の公平な観察者の声を無視し、美徳に背を向けたのはお前自身の判断ではないのか。 それを外側の敵、 きっかけとなった他人や物事のせいにするのは、考える能力を持つ人間として恥ずべきことなのだ。 戦う相手は自身の内側にいる。
起きたことを嘆いたり喜んだりする動物的な部分も悪そのものではない。 そういう部分がなければ、美徳を行使することもできないのだ。 ヘラクレスにとってケルベロスが必要だったのは弱さを打ち負かすためであり、 まずは自身の弱さを引きずり出さなくてはならない。 「敵は自分自身だ」というが、逆境や困難そのものが敵なのではなく、 それらを前にし、悪徳に逃げようとする弱さ、愚かさこそが敵だ。 外側に見える敵とはきっかけに過ぎない。 本当の敵とはお前自身の弱さなのだ。
世界が悪徳で満ちているのも自然の計らいの一部である。 これから進む先で必要なのは、社会や他者、自身が持つ弱さ、醜さを否定しないこと。 よいことを求め、悪いことを避ける。 社会を住みやすくしたのは、私たち自身の弱さなのだ。 大切なのは弱さを否定することではなく、弱さを包摂すること。
ストア哲学を深める目的とは何か? 富や地位などの外的なものから距離を取り、心の平静や理性的な思考を維持するため。 さらにそれらは自然と調和して充実して生きるためである。 宗教的信仰、心理療法、道徳観念、心の健康に関する諸分野の接点である。 現代人にとってはもっとも認めがたい部分であり、同時にもっとも求められている部分でもある。
人間の価値を決めているのは社会的評価ではないといいつつ、それを気にしている自分を見つけてしまった。 情けないが、弱さを認めて克服していく以外、道はないのだろう。 お前の人生は英知や美徳と共にある。 外的なものは結果的に与えられるものであり、ねだるようなものではない。 与えられる分をありがたく頂くこと。
たいていの人は「財産への道」から尊敬や感嘆を獲得しようとする。 偶然たまたま到達できたとしても、そこに「心の平静」はない。 それを手にしたかのように外から見えても、実際に手に入るわけではないのだ。 本当の心の平静は「徳への道」からしか到達することはできず、女神アレテーがいうように、「長くて困難な道があり大きな仕事を課せられる」だろう。 だが、だからこそ人間としての美しさが磨かれるのだ。 逆境や困難と格闘し、存分に鍛えてもらうといい。 お前は人間の自然を完成させるた