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堕天使のアトリエ

―進路―

?「お前だけだぞ全く、まだ進路が決まってないのは。はやく決めれや。」
高校生活最後の夏休みまであと少し、みんなどんな夏にするか人生をかけて計画している最中にアタシは担任の山田先生に呼び出されていた。
神谷セイコ「だってぇ……」
山田「だってじゃない。はやく決めないと進学先いかんでは夏休みも勉強しないと間に合わんことになるぞ。」
セイコ「そんなこといったって……」
山田「『一応』とか『なんとなく』とかできめている学部すらないのか?」
セイコ「親は『一応普通以上』を狙えって言っているけど。」
山田「普通以上ね……お前自身は?なにかやりたいこととかないのか?」
セイコ「べつに……」
山田「べつにってなにかあるだろう、好きなこととか、興味あることとか」
セイコ「……そんなのあってそれを言っても親が行かせてくれないし。」
山田「……大学は親がいくわけじゃないぞ?」
セイコ「あの人たちに言ってよ。あの人たちは世間体が一番大事だから娘が苦しもうが関係ないの」
山田「……」
眼鏡の山田先生は深く溜め息をついた。
先生は机の上にあるコーヒーを一口飲むと成績表を見て言った。
山田「お前、美術の成績はいいみたいだな。」
セイコ「ん、絵を描くのは好きだから。」
山田「その方向には進みたくはないのか?」
セイコ「美大?」
コーヒーをすすりながらうなずく。
セイコ「……興味はあるかな。」
山田「親には言ったのか?」
セイコ「……、一回だけ」
山田「なんで一回だけなんだ?」
セイコ「話を……聞いてくんないから……」
山田「……」
セイコ「それにお金がかかるし……」
山田「あきらめるのか?」
セイコ「それしかないじゃん。」
山田「……」
山田「もしも……もしもだぞ?美大の奨学金推薦とか進学推薦が受けられたとしたらどうする?」
セイコ「…………親がいいって言ったら行く……かな」
山田「お前のきもちは?」
セイコ「……………行けるなら…行きたい。」
山田「……ちょっとそこで待ってろ……」
セイコ「??」
先生は携帯電話を取り出して電話をかけた。
山田「でるかな……」
なかなか相手が出ないようで二度三度かけなおす。
山田「くそ、はやく出ろよ。」
先生は苛立ちを指で机を叩くことで解消している。
何度目かのコールで相手が出たようだ。
山田「おお!俺だけど……何してたんだよ、何回もかけてたのに…………は?寝てた??ふざけんなって!……」
話ながら先生はアタシにコーヒーを入れてくれた。
セイコ(いいにおい……)
山田「…………そ、この間言ってたあれ、できるだろ??……うん、うん。わかった聞いてみてまた連絡する。」
電話を切った先生はブラックのままのコーヒーを飲んだ。
セイコ「誰にかけたんですか?」
山田「知り合いの人。お前さ、アルバイトしない?」
セイコ「へ?」
山田「俺の知り合いのアトリエで二週間くらい。」
セイコ「アトリエで……?モデルとか?」
山田「違うわいそんなん斡旋したら捕まってしまうわ。雑用だよ、主に部屋の掃除。」
セイコ「はぁ。」
山田「そいつ、実は結構な作品を世の中にだしててさ、世間の評判は良いんだよ。」
セイコ「へぇ。」
山田「それで、お前が望むなら美大とか芸大に特別待遇生徒として口ききもしてやるってさ」
セイコ「へぇ!裏口入学!」
山田「違うわい!あくまでも入学のための口利きだ、それに条件がある」
セイコ「条件?」
山田「そいつに認めてもらうこと、つまり弟子になるというかなんというか、作品を作る……見込みがないやつの口ききはさすがに無理だからな。」
セイコ「作り方とか教えてもらえるんですか?」
山田「そいつに認められればね。」
セイコ「……」
山田「よし。じゃあよろしく。」
セイコ「あ、あの」
山田「なに?」
セイコ「いつから行けばいいんですか?」
山田「ああそうか。えっと、夏休み始まってすぐにアトリエに向かってもらう、あいつにはこっちから言っておくよ」
セイコ「え?」
山田「じゃ、よろしく。住所は夏休みまでに渡すから。」
先生に払われるように追い出されて会議室から飛び出した。
?「うわ!」
セイコ「うわ。」
廊下で立っていた人にぶつかりそうになった。
セイコ「シンちゃん!どうしたのこんなところで。」
シンちゃんは頭をかきながら照れ臭そうに言う。その仕草に胸がキュンとなる。
シン「……待ってたんだよ。」
セイコ「あ、ありがと。」
シン「幼馴染みなんだし当たり前だろ?」
セイコ「まぁ、うん。」
アタシたちは荷物の置いてある教室まで歩いていく。
シン「……なに、言われたん?」
セイコ「ん?進路決めろって。」
シン「決まった?」
セイコ「まだ。」
セイコ「……そーだ、シンちゃんはどうするの?」
シン「なにが?」
セイコ「進路よ、シ、ン、ロ。」
シン「W大学に行く。」
セイコ「……なんで?」
シン「……さぁ。なんとなく。」
セイコ「そんなもんかなぁ」
シン「そんなもんだよ、今の時代ブランド名でいかないと、それに大学は遊びに行くところだから深く考えなくて平気だよ」
相変わらず彼の考えることは浅はかだなぁ……
セイコ「…………」
そういえばシンちゃんと一緒に帰るのはいつぶりかな。と思い、心が幾分か高鳴るのがわかる。
シン「どうした?」
犬のように無邪気な顔が本能をくすぐりそうになり激しく頭を横にふって雑念を祓った。
幼馴染みのシンちゃんはアタシからみても女子に人気があるのがわかるくらいカッコいい、だけど本人はまったくその事に気が付いていない。
セイコ「ううんなんでもない。」
シン「ふぅん、ならいいけど」
教室にむかう廊下がどこまでも続けばいいのに、とシンちゃんの横顔をみて思う。
シン「なんだか廊下がどこまでの伸びてるみたいだな。」
セイコ「ふぇ?」
思わず声が裏返った。
シン「なに?」
セイコ「なんでもない。」
シン「変なの……」
アタシはシンちゃんに恋している。
はじめてあった日から、ずっとずっと追いかけていた。
泣き虫だった頃のシンちゃん、泣かないと心に誓ったシンちゃん。
アタシが泣かないようにと強くなったシンちゃん。
そして誰かを好きになったシンちゃん。
教室から自分の荷物をとり、下駄箱まで二人は無言のまま行きクツに履き替える。
セイコ「ねぇ、シンちゃん。」
シン「ん??」
セイコ「夏休みはさ、彼女さんと海に行きなよ。」
シン「……え?どうした?」
セイコ「なんというか、スキなんでしょ?」
シン「んー。」
セイコ「こういう風に二人だけで歩いているの見たら、多分彼女さんはやきもち焼いちゃうよ?大事にしてあげなよ。」
シン「……」
???「シンイチ!」
校庭からの声にシンちゃんが反応する。
セイコ「あ、ほら彼女さんだ、呼んでるよ。」
シン「んー。」
セイコ「今日はありがと、わざわざ待っててくれて。」

シン「ん。」
セイコ「……じゃあ私は少し校庭眺めながら進路考えてから帰るね。」
シン「……ん。」
シンちゃんに言うのと同時に校庭に走り出した。
もちろん進路なんか考えることもなくそのまま校門まで走った。
門を出ても足を緩めることなくグングン走る。
セイコ(シンちゃんの彼女かわいかったなぁ……)
彼女さんの顔を思い出して、少しだけ悲しくなった。
次の日、先生からアトリエの住所がクシャクシャな紙で渡された。
少しだけ湿っているようにも思える。
雑な先生だ。
山田「あー、じゃあとりあえずよろしく、親さんにはそれとなく伝えといてな。」
先生は無責任に手をひらひらとふる。
セイコ「はぁ。」
山田「なかなか綺麗なアトリエだからさ、勉強も兼ねて楽しんどいてね。」
セイコ「はぁ。」
しか返事ができなかった。
今回は先生の無責任さによるため息ではない。
セイコ(本当はシンちゃんと海行きたかったなぁ……)
夏休みが目の前に迫っているのにすこし、いや、かなり憤りを感じた。
海のにおいを思い出すように思いきり鼻から息をすった。
学校特有の薬品の匂いしか感じられないのが悲しかった。
セイコ(なんて味けのない部屋なんだろ……)
とか思う。
が口には出さなかった。
セイコ(海……)
がその思いは意外な形で達成された。
そのアトリエはアタシん家から最寄駅の電車で十分程度の駅から海の方面位十分ほど歩いたところに位置していた。
セイコ「えっと、」(このへんのはずなんだけどなぁ……)
海がもう近いのだろうか、潮の匂いが微かにするようでしないようで……
大通りを歩きながらあたりを観光する。
大通りに接している店はどこも個性的で、店先にいる犬の首に看板をぶら下げたり、干物をのれんのようにたらしているところまである。
セイコ(干物…やっぱり、海が近いんだ……)
干物を横目に通りを歩く。
歩けば歩くほど潮の匂いが幾分か強くなったように感じた。
夏休みにはいる前に一度場所だけでも確認しておきたかったアタシは、お供を連れずにアトリエのある港町まできていた。
セイコ(あち~……)
ワンピースのエリをつまんでパタパタと動かして体に空気をあてる。
まだ夏休みには入っていないとはいえ、一般的な暦ではもう夏に入っている。
セイコ(暑いのはあたりまえかぁ……)
アタシがワンピースの裾でパタパタしている様子を見ていたおじいさんがアタシを呼んだ。
おじい「これ!そこのお嬢さん!そんなはしたないことしちゃあいかん!暑いならそこの店で涼んでいきんしゃい!」
入れ歯をカタカタいわせながらおじいさんは喫茶店の方を指差して一緒に歩いて案内してくれた。
おじい「この店のお茶を飲めばたちまちに体が冷える、そしたらまたガンバりんしゃい。」
重そうな扉を開けようと力をいれるおじいさんは少し悲しそうな目をしていたように感じた。
    カランカラン
扉についている鐘が来客を知らせる。
???「いらっしゃいませ~!」
力をこめておじいさんがあけた扉の奥から威勢のいい美し女性の声が響いた。
セイコ「わぁ……」
モダンないい雰囲気の内装。
心が踊る。
おじい「いつもの。」
おじいさんはいつの間にかカウンターに座っていて注文を済ませていた。
セイコ「あ、え?」
つられるがまま座ったアタシは何を注文するか決ってもないでメニューに視線を落とした。
メニューをみると味のある字でいろいろと書いてある。
セイコ(綺麗な字だなぁ……)
おじい「お嬢ちゃん、はよう決めなさい。」
おじいちゃんは催促する。
セイコ「あ、ああ、えっと…えっと…」
決まらない。
セイコ(ミルクティ、レモンティ……どれも美味しそうで捨てがたい。)
しびれを切らしたおじいちゃんは入れ歯が飛び出さんかと言うほどの勢いで「いつもの二つ!」と言った。
注文の品が来るまでの間、店内をキョロキョロと眺め耳を済ませた。あんまりお客さんは居ないようだけど、そのおかげで店内に流れている小気味いい音楽に耳を澄ませられる。
そしてカウンターからでてきた「いつもの」は、なんとコーラだった。
セイコ(コーラ…おじいさんのいつもの……なんかご年配の方が飲むのが想像できなかった)
よく冷えていて泡が細かくて美味しそうだ。
セイコ「いただきます」
一口喉にいれると炭酸で刺激される。
セイコ「くぅ……」
おじい「ぷはぁ!」
おじいさんは一気に飲み干したようだ。
その様子を横目でみると、おじいちゃんの目線がカウンター奥に注がれていることに気が付いて、そこを覗いてみる。
セイコ「…うわぁ……」
コーラをテーブルにおいたことも気が付かないくらいに気をとられた。
一枚の絵に……
セイコ「綺麗……」
口がかってに言葉を発する。
それを聞いた店のマスターが絵をよく見えるところに持ってきてくれた。
マスター「いいでしょこの絵。」
いいなんてものじゃなかった。
見てるだけで涙が出そうになるくらい最高だった。
おじいちゃんはその絵をじっと見ていたが、マスターのその言葉に反応した。
おじい「ふん!なんじゃこんなもの」
おじいちゃんは勢いよく立ち上がって店を出ていってしまった。
それに気が付いてあわててあとを追おうとしたがマスターにとめられた。
マスター「あ、待って平気よ。いいの……仕方ないんだから……」
セイコ「え?あ。仕方ない……ですか?」
マスターに向き直り残りのコーラを口に運ぶ、炭酸が喉で跳ねる。
マスター「この絵はね、あの人のお孫さんが描いた絵なのよ。」
セイコ「え。」
マスター「私も知っている人なんだけどね、昔色々あって、今は疎遠になっているのよ。」
セイコ「いろいろ。」
マスター「そ、いろいろ……だけどおじいちゃんはよく店にきてはお孫さんの好きだったコーラを飲んで、この絵に悪態をついて帰っていくの。」
セイコ「この絵が嫌いなのかな……」
マスターは首を横にふった。
マスター「違うわ……きっと寂しいのよ。もう会うことが出来ないから、せめてこの絵をみてお孫さんにお逢いしているのよ」
マスターは絵を優しくなでた。
その絵は天使が一人の女の子と恋に堕ちたような、美しいのに、なぜか悲しくなる絵だった。
きっとこのあと天使は神様の怒りをうけて、羽をもがれて光かがやく天の国にはもどれなくなるのだろう……
アタシはこの絵の描き手のことが知りたくなった。
マスター「この絵の描き手のこと知りたくなった?すぐにあえるわよ、先週から明後日まで駅前で個展開いてるから。」
マスターはその個展のチラシをくれた。
綺麗な絵が何個も羅列されていてとてもかっこいいチラシだった。
アタシはおじいちゃんが飲んだ分のコーラの代金も払って店をあとにした。
お店の重たい扉は開けるたびに何か決断を迫るような重々しさを感じる。
もう五時をすぎたというのに外はまだ日が照っている。
セイコ(太陽も頑張るねぇ、)
と太陽につぶやくとコーラで疲れが取れた足を駅に向けて歩きはじめた。
風がアタシの背中を押すように強く吹いた。
日が暮れていくのと同じスピードの流れを感じつつ駅前に戻ると、来たときには気が付かなかった人だかりが目にはいった。
セイコ「もしかして、ここかぁ……」
チラシを確認するまでもなくここが目的地だと理解した。
高そうなスーツをきた人たち、そこらへんの風景をカメラに納める人、たまたま立ち寄った人たちと高級な化粧の女性たちで中の様子が見えない。
すると中から良いスーツをきた背の低い、お腹まわりのお肉がすこし多めの人が出てきて説明を始めた。
マネジ「えー……皆さま、先週より開かれた「狩野忠道(カノウタダミチ)」個展でありますが、大変な混雑が予想されるため入場制限をさせていただく運びになりましたことを申し上げます。」
説明を受けた途端にざわざわとまわりの人々が慌て話し始めた。
マネジ「えー、お静かにお願いいたします。つきましては、カノウ本人から説明とごあいさつがございますのでしばらくこちらでそのままおまちください。」
歓声と悲鳴に近いものがあがる。
セイコ(カノウ……??)
建物の中から歓声を浴びて出てきた男は芸術家よりも、スパイ映画の主人公のような鋭い目つきと不釣り合いなほど美しい出で立ちだった。
セイコ(えっと、もしかして、あの人があの天使の絵を描いた人…だよね……ということは、おじいちゃんのお孫さん……)
その男はゆっくりと落ち着いた声で語りかけるように話した。
カノウ「皆さま…本日は私、狩野忠道の個展へ足をお運びいただき大変感謝しております。先ほど私のマネージメントとの話し合いの結果……大変申し訳ないのですが、本日は入場制限をさせていただきます。」
不思議と今度は皆騒ぐことなく静かに聴いている。
カノウ「私の作品は……距離の取り方、光のあたり具合い、角度などから見方が変わります。したがってこれだけの人数が入りますと、一番大事な距離感がとれなくなります。ですので入場制限をかけることが一番作品の対して良いと判断しました。」
セイコ(え、入場制限なんてきいてないわよ、てゆーか、個展では制限しないでしょ……入れるのかな?)
カノウ「申し訳ありませんが御理解いただきたい、これは私の作品をより良く細かいところまで見てもらうための策です。では私のマネージメントが入場制限の細かい仕方を説明します。」
カノウは一礼するとゆっくりと奥に消えた。
代わりにさっきの小太りの男性がマイクを取り出して説明する。
マネジ「えー、これからこちらにあるくじを順番に一枚引いていただきます、そのくじに当たりの文字があった方はその当たりくじの下に書いてある順番通りにご入場いただけます。おしくも当たりが出なかった方につきましては、申し訳ありませんが本日は御入場を控えてください。しかしながらそのハズレくじは次回出展される予定の作品を製作しているカノウ氏所有のアトリエへの特別チケットでございます。カノウ氏は今年の夏に感謝の気持ちとして、アトリエにて非公開の作品展示イベントを催し、公開なさいます。」
おー!と歓声がなる。
マネジ「しかしそのアトリエへと招かれるのは限られたかたのみとなります。それは彼の作品の公式レプリカや原盤を購入なされた一部の方にランダムに配送させていただきます。つまり今、その券を入手なされた方は作品を買わずして当選なされたわけです。こちらも製作中の作品があるための処置でございます。」
すると誰かが叫ぶ。
一般「そっちのほうがあたりじゃないか!」
セイコ(アタシもそう思う!)
人だかりの後ろにいた私はつま先で背伸びをして中の様子を伺っていた。
マネジ「ええ、ですので。今回、この展示の当たりを引いた方には特別にカノウ直筆のサインとポラロイド撮影がなされます。」
ワールドカップに優勝したかのような歓声と悲鳴があがる。
セイコ(もはやアイドルね……)
まぁどんな人があの絵を描いたかわかったし、くじは引かなくていいや。別にサインが欲しいわけじゃあないし。
とまた喫茶店にむかう。
今度はコーラを飲むためではなく先生の残したアトリエへの暗号の答えをきくためだ。
カラン。
マスター「いらっしゃいま……あら?あなた。戻ってくるの早いわね。」
セイコ「……うん。なんか人多かったからすぐ帰ってきちゃった。」
マスター「あいつのことは見た?」
マスターはカウンターに肘をつけて「ムフ」っと笑った。
セイコ「顔だけは……ね……」
マスター「すごい人気だったでしょ??」
マスターは恋する乙女のように嬉しそうな顔をした。
セイコ「うん。すごかった。」
またマスターは「ムフ」っと笑った。
マスター「でしょ~、なんか最近じゃアイツ、世界中の巨匠に目をつけられてるみたいでね、それとあの容姿だからコアなファンが多いのよね」
自慢するようにマスターはニコニコと笑った。
セイコ「すごいね。」
マスター「でしょ?じつはアイツは私の同級生だったのよ。」
セイコ「え?そうなの?うちの学校の先生と同じくらいの年齢に見えたのに。」
アタシは驚いて声を上げてから周りのお客さんの視線を感じて両手で口を塞いだ。
マスター「先生??………えっと、もしかしてこの辺の学校の生徒?」
セイコ「あ、アタシは清光高校の三年生なんです、学校の先生は山田先生」
マスター「……え?あの高校?…ああもしかして!あの山ちゃんかな、確かにそんなこと言っていた気がするけど!へぇ、担当の先生なんだ~変なの~、山ちゃんは絶対に弁護士になるかと思ってたのになぁ」
また嬉しそうに笑った。
セイコ「弁護士……あ、そうだ。これ」
アタシのポケットでクシャクシャになった紙を思い出した。
セイコ「この住所に行きたいんですけど知りませんか?」
マスターにアタシが渡された時からクシャクシャだった紙を渡して見せる。
マスターは慣れたようにその紙を開いてアイロンをかけるように手でシワを伸ばしてからグシャグシャの山田先生の文字を見ている。
マスター「ん~どれどれ?……ん、あ〜、かなり遠いわよ、海の方ね、タクシーで行けば確実よ?」
マスターは紙を丁寧に四つ折りにして返してくれた。
セイコ「あ、そうか…タクシーがあった…」
マスター「今日この後に行くの?もう暗くなっちゃうけど、ここからタクシーを拾うのはちょっと億劫よね。……ちょっと待ってて、今呼んであげる。」
セイコ「あ、ちょっと、そんな」
マスターは私にウインクをして電話をかけると三分もかからずにタクシーの運転手がお店にやってきた。
運選手「はい、お待たせいたしました」
運転手はマスターに一礼すると私を見た。
運転手「あなたが今回のお客様ですか?」
セイコ「ああ、はい。そうです。えっと、すみません。この住所までお願いしたいのですが。」
紙を渡して見せるとタクシーの運転手さんは目を細めて文字を見つめてから車に乗るように促した。
アタシは運転手に続いてタクシーに乗り込んだ。
運転手はゆっくりと車の扉を閉めるとギアを入れた。
マスターは車の横にいてくれてアタシを見ている。
アタシは窓を開けてマスターに別れをいう。
セイコ「マスター!ありがとう、また来ますね。」
どういたしまして、とマスターが言うのと同時にタクシーが道を走る車たちの流れに乗った。
運転手「…お客さん、えと、出発してからいうのも今更なんですが……」
すこしばかり走ってから運転手が申し訳なさそうに口を開いた。
セイコ「あの……なにか?」
運転手「もしかしたらこれから行く目的地なんですが……中には入れないかもしれません」
突然の内容にアタシは変な声が出た。
セイコ「へ?なんで?ですか。」
運転手はバックミラーでアタシをチラチラ見ながら言う。
運転手「今、目的地の持ち主が不在の可能性があるので……」
セイコ「…え?あ、はい…わかりました。一応場所と建物の確認のために行きたいだけなので行くだけお願いします。」
マスター「そうでしたら、わかりました。」
五分くらいだろうか、風に乗る船のようにとどまることなくタクシーは師事かにその場所についた。
セイコ「うわぁ……」
目的地は浜辺の近くに位置し、一枚の絵画のような……美しさがある建物だった。
運転手「綺麗なところでしょ?ここはこの街じゃあ観光名所にも選ばれるくらい素敵な建物が多いんですよ。」
セイコ「へぇ~、わかるかも……」
アトリエのアンティークの彫刻が彫られているベルを鳴らす。が、返事がない。
運転手「ね、今は不在なんですよ…どうします?…お客さん?」
セイコ「…帰ります、今日は場所を確認しにきただけなので。」
アタシはベルの彫刻を撫でながら答えた。
運転手「左様ですか、わかりました。お乗りください。」
帰りのタクシーは行きよりも長く時間をかけて駅についた。
セイコ「えっと、すみません、ありがとうございました……助かりました。」
いえいえ、とタクシーの運転手はいいながらドアを開けた。
セイコ「あの……おいくらですか?」
かばんから財布を取り出して口を開ける。
心許ないお札の数だが、仕方がない。
運転手「あ、結構ですよ。お代はすでに前金でいただいておりますので」
セイコ「え?」
運転手はこちらを振り向いていたずらっぽく笑った。
運転手「実はあの喫茶店には私もよく行きましてね、知り合いなんですよ。あのマスターとはよくツケで飲ませていただくことがあるので、マスターの個人的な友人からはお金を頂かないようにしているんです。」
そうだったんだ……
運転手「また御用の際は喫茶店からお乗りくださいな。」
そう言って運転手さんはギアを入れた。
運転手「さぁ、シンデレラは家に帰る時間ですよ。」
タクシーから降りるハザードをつけがらゆっくりと道に消えた。
変な人……
セイコ(あら……)
さすがに当たり前だけどカノウタダミチの個展の前には誰も残っていなかった。
が奥の方に明かりがついていた。ように感じた。
「クローズ」の立て札がついた全身ガラス張りのドアに近付いて中を覗いてみる……
と、奥の光のなかでキャンパスに向かっている人がいた。
セイコ(あ……)
カノウタダミチだ……
よく目を凝らして見てみないと見えないところにいるが。
彼は余裕のない真剣な顔で絵をかいているようだった。
その異様なほどの真剣さに惹かれて、目が離せない。
セイコ(うわぁ…素敵だなぁ…)
すると、彼が何かに気がついたようにこちらを見た。
セイコ(あ!……)
アタシは反射的に走ってしまった。
通りを駆け抜け、改札を抜けホームの一番先まで走っていく。
立ち止まると息が切れて動悸がはげしくなる。
セイコ(何してんだろあたし……)
変だ。
ヘンだ。
どこか変だ。
なんだかいつもと違う。
違うのはまわりの様子ではなくてアタシが変なんだ。
胸のドキドキが止まらない。
息を整えるが、それでも動悸が止まらない。
アタシは電車に乗って扉の近くに立った。扉が閉まって電車が走り出す。
アタシは扉の窓から外を眺める。
流れていく景色をぼーっと眺めながら纏まらない頭の中でアタシは彼の顔を思い出していた。
おの光景。
真剣にキャンパスに向かうあの姿。
アタシはどうしたんだろうか。
それからアタシは変になった、学校に行っても深く物を考えられなくなった。
そしてあの光景を思い出すたびにアタシは何枚も何枚も絵を描いている。
シャーペンでも鉛筆でも構わずに、授業中でもアタシはガリガリと描いている。
勝手に手が動くというか、滞ることなく動く。
セイコ(いままでこんなことなかったのに……)
変だ。
アタシ、変だ。
シン「どうした?なんか複雑な顔してるぞ?」
ふいの声におどろいて顔をあげる。
そこにはシンちゃんがいた。
セイコ「シンちゃん……」
シンちゃんは子犬のように近づいてまた聞いてくる。
シン「なんかあったのか?」
アタシは目線を落として言った。
セイコ「ううん、なんでもないよ」
シン「それにしては複雑な顔してるけど。」
セイコ「……」(どんな顔よ……)
そう思いながらも無意識にペンを走らせている。
シン「なぁ……今日の放課後時間ある?」
突然の提案に驚いてまた顔をあげた。
セイコ「ん?うん、今のとこは平気だけど。なに?」
シン「ちょっと相談したいことがあって……」
困った芝犬のような顔を見つめた。
セイコ「あ、でも山田先生に呼ばれているから少し遅くなるけどいい?」
シン「ああ、いいよ。じゃあ放課後に。」
そういうとシンちゃんは自分の席に戻った。
セイコ(なんだろ?)
そして放課後にアタシは山田先生のところに向かった。
山田「この間、キリちゃんの店に行ったんだって?」
山田先生は黒黒しいコーヒーに角砂糖を五個入れてカチャカチャまわしている。
セイコ(うえ……なんであんなに入れる必要が……)
セイコ「え?キリチャン?誰ですか?」
山田「あ~そっか、わかんないか。天使の絵が飾ってある喫茶店って言えば分かるかな?」
頭の中に一瞬であの絵が蘇った。
セイコ「…………あ!あの、コーラの!」
山田「コーラの??」
セイコ「あの、えっと。モデルみたいなマスターの?」
山田「モデルって、ま、そう、キリちゃん。本名は加藤キリ。」
セイコ(キリっていうんだあのひと……)
アタシはキリさんの姿を思い浮かべた。
山田「キリちゃんはなんか言ってた??」
セイコ「いろいろと、先生のこと山ちゃんて言ってましたよ」
山田「はは、キリちゃんはうちらのアイドルだったからね。あのへんじゃ有名なんだよ。」
先生は昔を懐かしむように目を細めた。
セイコ「へぇ~」
先生は一口すすってから、またひとつ角砂糖を追加する。
山田「アトリエにも行ってみたんだって?どうだった?」
セイコ「はぁ。誰もいませんでしたよ……でも綺麗な外見でした!」
山田「あれ?聞いてた時間帯だといると思ったんだけどなぁ……」
またひとつ糖分を追加する。
セイコ(もういっそのこと砂糖をお湯で溶かせばいいのに……)
と思う。
セイコ「電気も消えていたし、タクシーの運転手さんもいないって言ってました」
山田「そぉか……うーん、ちょうど製作とかで忙しかったのかな……」
また追加。
見たくもないトロミが見えるのはきっと気のせいよ。と自分にいい聞かせる。
セイコ「そんな忙しい時期にお邪魔していいんでしょうか?」
なるべく目をカップから離す。
先生はまたすすった。
山田「平気だって言ってたからダイジョブでしょ。」
セイコ「でも製作の邪魔は……」
山田「してもいいよー。面白いから……」
セイコ(何、この人……教師として間違ってない?)
山田「それじゃあ夏休みはよろしく、向こうにはまた言っておくからね。」
手をひらひらとふってお湯砂糖を飲む先生をおいて部屋を出た。
時間は五時を回っていた。
セイコ(シンちゃんとの約束が。)
急いでメールを打つ。
セイコ(ごめん、今から向かう。)
間をあけずにかえってきたメールに思わず溜め息が出る。
シン『なんかいそがしそうだからいいよ。暇になったらまた連絡する。』
最悪。
ため息がとめどなく流れた。
このまま人生が終わったらどうしよう。
そして、このまま夏休みに突入していく。
アタシの悩みがはれることもなく。
夏休みはいたって普通に過ごすのがアタシのモットーだったのに、さすがに将来が決まるこの時期だけはそうは行かないようだ。
セイコ(セミが元気だなぁ……)
家から駅にむかう最中でもセミの合唱は激しさを増すのみだ。
その音がより暑さを際立たせる。
セイコ(そんなに張り切ってるからすぐ力つきちゃうんだよ……)
アタシは心のなかで呟いた。
セイコ(君達はもう少し力の抜きどころを知ったほうがいいよ……)
一瞬だけ合唱がやむ。
セイコ(おお!!)
がまたすぐ合唱し始める。
セイコ(なによ……)
陽射しが少し強そうだったので日焼け止めクリームを塗っといて正解だった。
腕をさすって感触を確かめる。
ちょっとヌルッとするけどいい感じ。
これなら赤く焼けて痛くなることはない。
と、いいなぁ……
セイコ(肌赤くなると痛いんだもん……)
陽射しに耐えながら一歩一歩駅へと近付く。
セイコ(アトリエの人ってどんな人なんだろう……山田先生の知り合いなんだからきっと……山田先生みたいにいい加減で……だらしがなくて……作品製作中はきっと何日も部屋に篭るんだろうな……)
自然とイメージが浮かんでくる、暗そうでひ弱で、髭がこゆい。
いわゆるひきこもり系。
背筋が凍る。
セイコ(アタシ……生きて帰れるよね……?)
急に(最初からだけど)行く気が少しなくなっていく。
セイコ(こわいなぁ……)
駅について電車に乗っている間も不安は拭い去れない。
セイコ(あんなことや、こんなことされたらどうしよう……)
走る電車の窓の外を見ながら考える。
セイコ(…………海、行きたかったなぁ……)
シンちゃんとは今日出発する直前までメールをしていた。
シンちゃんの彼女についてのぐちや、アタシの「アトリエ研修」について。
当たり障りない程度の深さのメールだけど、すればするほど(やっぱり気が合うなぁ)と思ってしまう……
セイコ(駄目だな……アタシ……)
窓に写った自分の顔をみる。
セイコ(まぁシンちゃんの彼女はかわいいし……仕方ないよ……)
窓に写るもう一人のアタシにいい聞かせる。
セイコ(それに比べてアタシは……胸も小さいし……髪もそんなにさらさらじゃないし。)
髪を撫でながらため息が出た。
セイコ(色気なんてないし……)
思いながらなんか悲しくなってきた……
セイコ(シンちゃんが前に「女の人は顔じゃないよ」って言ってくれたのに……遠回しにかわいくないって言ってただけなのかな……)
悲しい……
セイコ(むこう着いたらキリさんのところで何か飲んでから行こう……一休みしてテンションあげなきゃ……)
この少しの間にテンションが株価のように大暴落してしまった。
セイコ(インフレ……だっけ?)
駅に降り立つとセミの鳴き声が遠いことに気が付いた……
セイコ(セミが遠い……それだけ自然が少ないってことなのかな……)
改札を抜けて大通りへ歩き出す、喫茶店への道のりは憶えている。
セイコ(なんどもシュミレーションしたもんね……)
高らかな思いで足を運ぶ。
スキップスキップ!
それでも相変わらず陽射しが強く、汗がジワリとでてくる。
セイコ(むぅ……)
鞄からだした飲み物を飲みながら歩く。
水分を体に入れた分だけ汗として出ていく。
セイコ(暑いよぅ……)
手で顔をあおぐ。
風は少しもこないがあおぐ行為で『涼しい風が来てる』と思い込む、実際は無駄なエネルギーを使ってるだけ。
セイコ(ふぃ~……)
思考も鈍くなる、きっと砂漠に取り残された人があてもなく歩き始めるような、そんな感じとダブる。
セイコ(もう、いっそのこと殺して……)
そんな感じ……喫茶店はまだ見えてこない。
セイコ(う~……)
ようやく喫茶店についたころには喋ろうとする力さえ汗として流れていた。
       カラン!
キリ「いらっしゃ~い」
マスターの声に辛うじて反応する。
セイコ「ン……こんにちは……」
キリ「外暑くて、疲れたでしょ……なににする?コーラ?」
セイコ「……うん。」
うなずいて荷物をおろしてカウンターに座った。他にお客さんの姿が見えない……
セイコ「うへぇ~……」
カウンターにへたりこむ。
キリ「もー、女の子がそんな声ださないの!」
はい。とコーラを持ってきてくれたマスターのキリさんが頭を軽くこずく。
セイコ「う~、だってぇ。疲れたんだもん~。」
コーラを一口含んで流し込む。
セイコ「ふ~。」
手で喉元をパタパタと煽ぐ。
キリ「暑かった?」
セイコ「そんなもんじゃないよ~、『熱い』~」
イーッと顔を作って言った。
キリ「そんなに?……でも今日はアトリエに行くんでしょ??」
セイコ「……うん」
キリ「遠いし、暑いけど!頑張って!」
セイコ「え~行きたくない~。」
キリ「そんなこと言って良いの??…山ちゃんにチクるよ?『お宅の生徒がサボってました』って(笑)」
セイコ「むー。」
頬っぺたをふくらませて精一杯の反骨精神をみせる。
キリ「ふふ、まぁあと少しならいてもいいよ?」
セイコ「そうする~。」
またカウンターにへたる。
セイコ「ねぇキリさん……あ、キリさんて呼んでいい?」
びっくりした顔をしたキリさんがこちらを向く。
キリ「なんで名前知って…って…山ちゃんか……」
指をパチンッ!と鳴らして悔しそうな表情を浮かべる。
キリ「くそ~、山ちゃん憶えてろ~。今度来たら特製ドリンクのませたる。」
言いながら口が笑っているのはただ単に飲ませたいだけだからだろうか……
セイコ「キリさん?」
キリ「ん?……あ、いいよ!好きに呼んでいいよ。」
セイコ「キリさん、タクシー代ありがとうございました。」
キリ「ん?ああ、いいのいいの。あの運転手さんね、ここでタダ飲みしていくのよ。だから、その分ただ乗りさせてもらってるだけだから……」
笑いながらキリさんは言う。
セイコ「あの人はキリさんの彼氏さん?」
それを聞いてキリさんは大声で笑った。
キリ「ないない!それはないよ!」
セイコ「そうなんだ……」
キリ「あの人はただのタダ飲み運転手、ただそれだけ……って、いつごろ行くの?アトリエには……」
時計をみると一時前くらいで針が止まってた。
セイコ「もう少ししたら行こうかな……」

コーラを流し込む……
キリ「タクシー呼ぼうか?」
笑いながらキリさんが言う。
セイコ「いいよう、自分で歩くよ」
キリ「いいからいいから、飲み代分働いてもらわなきゃ、それにこれからまだまだ暑くなるだろうからクーラーきいた車内のほうがいくない?」
セイコ「う~……ん」
比べるまでもないけど、運転手さんがかわいそう。
キリ「じゃあ呼ぶわよ。」
すでに電話をかけているキリさん。
セイコ(早い……)
キリ「…………あ、ゲンちゃん?今からなんだけど来れる?……いやいや、来なさいよ。……うん、こないだの子。…………わかった、は~い…。三十分くらいだって。」
セイコ「うん、わかった。」
キリさんはクルッと此方を向いて微笑んだ。
キリ「どうする?タクシー来るまでもう一杯飲む?」
セイコ「ありがと、いただく。」
それを聞くとキリさんは飲み物を作りにカウンターの奥に向かう。これもタダ乗り代に加算されているのかな、と思いながらもいただく。
セイコ「キリさん。」
なぁに?と奥から頭だけ出してキリさんが答えた。
セイコ「なんでキリさんはここのマスターになったの?」
う~ん。といいながら奥から出てきたキリさんは答えを頭の中から引っ張り出そうと額にしわをよせる。
キリ「〜う〜んどうしたの?いきなり?……う~……ん、お父さんがね、先代のマスターだったのよ…それでそれを継いだ感じかな…」
セイコ「……でも他にも道があったんでしょ?その他の道を選ぶ選択肢はなかったの?」
キリ「うん。そこの説明が難しいのよねぇ……」
きっと、キリさんは他にももっとやりたいことがあったんじゃないかな。
ただ今のアタシたちみたいに『親の名誉や体裁』、『評価、ブランド』『将来の稼ぎ』を考えて、『自分の本当』、『自分が自分らしくあるための将来』を諦めたんだ。
きっと。諦めざるを得なかった。
アキラメルシカナカッタンダ。
そう勝手に感じた。アタシが考えを巡らせている間にタクシーが到着して、運転手さんがこの間のように扉を開けて、そしてアタシを促した。
そしてまた同じようにアタシはタクシーに乗って、窓を少しだけ開けてお見送りに着て来くれたキリさんに挨拶した。
アタシにはさっきの答えは出ないんだろうな。
過ぎ去っていく風景や人を目線だけで見送っていく、と視界の端っこにチラリとホームレスのおじさんの姿が一瞬だけ見えた。
セイコ(自分が自分らしくあるために……)
そのためにおじさんたちは……
『自分の本当』を取り戻すために、家族をすて、名誉を捨て、将来を捨てたんだろうな。
そうしないと無くしてしまった『自分』を見付けられないと思ったんだろうか……
セイコ(『自分』って……)
こんなことはダレモカンガエナインダロウか?
セイコ「…運転手さん。」
運転手「はい?」
セイコ「運転手さんは運転手になる他にもやりたいことがあった?」
運転手「何?」
セイコ「運転手の他に何かやりたい仕事はあった?」
赤信号にあたり車が停車した。
運転手「……あったよ。私はプロ野球選手になりたかったんだ。」
セイコ「……なんで諦めたの?」
運転手「きっついこと言うね、壁を越えられなかったんだよ。」
セイコ「壁?」
青にかわりゆっくりと車が動き始めた。
運転手「自分の壁だよ。」
セイコ「……」
運転手「どこの世界にも壁はあるんだ。才能という壁、これはどんなにあがこうと資格のあるやつしか越えられない。次に世間体という壁。これは越えれば白い目で見られる、だがだからといって何もしないのも白い目の対象になる。真ん中あたりまで登って、そこに居続ける。これが世間体。最後に自分の壁。体のっていったほうがいいかな。これは物理的に不可能なことも含まれるんだ。例えば重量挙げにすると、百キロしか上げられない人が二百キロあげたらどうなる?」
セイコ「……」
運転手「筋肉と血管が切れて、骨が潰れる。そういうことなんだ。私は限界を越えなかったんだ。仕方ないことなんだよ。」
セイコ「……」
みんなやりたいことを諦めている……
人生ってそんなものなのかな……
やりたいことやって、なにがわるいの?
アタシは心の中で叫んだ。
こんな世の中やりたいことを考えるだけ無駄!
運転手「……つきましたよ。」
すっかり寝てしまった。頭がボーッとする。
セイコ「ふぇ?」
運転手「アトリエですよアトリエ。」
降り立つと風が体を滑っていく。
運転手「さっきの話じゃないですがね、自分のやりたいことをやり切った人がいるのがこのアトリエです。でわ。また今度お逢いしましょう」
そう言うとタクシーが風に乗ってどんどんと小さくなっていく。
セイコ「……」
アタシは生唾を飲んで意を決した。アトリエのベルを鳴らして扉を叩く。が、全く返事がない。
セイコ(あれ?)
セイコ「あの~!……すみませ~ん!…アタシ………山田先生からの紹介で……」
再三扉を叩いてベルを鳴らすが、返事がない。ドアノブに手をかけて鍵が掛かっているのかを確かめる……鍵がかかってない……恐る恐るドアをゆっくり開けて中に声を響かせる。
セイコ「すみません…入りますよ~?いいですね~?……入りますよ~?お邪魔しま~す。」
中に入るとがらんと広い空間に出た、アトリエというイメージよりも博物館のような整理された空間が広がっていた。そして壁に沿って大きな絵や小さな絵が一定の間隔で展示されていた。
セイコ(あれ……?)
キチンと並べられた作品はどれもみたことがある。その作品たちの中にあるのに一枚だけ布をかぶって床に置かれている。
セイコ(なんでこれだけ布を?)
近付いて布に手をかける。
???「……誰だ。」
不意の声にビックリして布を勢いよくとってしまった。
セイコ「あ!」
その反動で絵が床に倒れた。
???「あ!!」その音がむなしくアトリエ中に響いた。
???「何をするんだ!」
声の主が一目散に絵を拾って絵を壁側に向かせて見えないように立掛けた。
セイコ「すみません!アタシ……」
???「まったくだ。君はいったい……誰なんだ。無断で入ってくるとは何事だ!何のためにきた!?」
声の主がアタシをみる。
セイコ(あ……!)「カノウタダミチ!」
バッと両手で口を急いで塞ぐ。
が口が先走っている。その声にカノウタダミチは眉をひそめた。
カノウ「誰だ君は。」
セイコ「あ、えっと、無断で入ってすみません!でもアタシは山田先生からの紹介で手伝いにきた。『神谷清子(カミヤセイコ)』といいます……」
カノウ「…なに?…山ちゃんからの?……じゃあ君が……」
セイコ「??」
カノウ「あ、ああ、いや、なんでもない。」
セイコ「あ、えっとその。よろしくお願いします!」
カノウは不機嫌そうに作品たちの前から去ろうと歩き始めた。
セイコ「あ、あの……」
アタシはカノウタダミチの後について行きながら喋ろうとした。
だが、それを遮ってカノウタダミチが静かに喋りはじめた。
カノウ「ここでは私のルールにしたがってもらうことになる。まず一つ、『勝手に作品に触れるな』君みたいながさつな人に勝手に触られると作品が壊れる可能性が大いにあるからな。」
そう言って奥の方に向かって歩いていった。
セイコ「あ、あの……」
アタシの声に反応もしないで振り返らずにカノウは奥にある階段を登って二階に向かった。
セイコ(……なんなの……)
倒してしまった作品の方をチラリと見てカノウの後を追った。階段を登る慌ただしいアタシの足音がむなしく響いた。
カノウ「なるほど……君はここに美術の才能があるか確かめるためにきた……か。」
二階にあるリビングのような空間で大きく長い木製の机に沿ってアンティーク調の椅子が何脚か置いてある。きっとここは仕事の打ち合わせとか来客とかそ接待に使っているのかもしれない。アタシとカノウタダミチは向かい合うように座って話を始めた。
セイコ「はい。そのやりたいことを見つけるために……」
カノウタダミチが詳しい日程やその他アトリエでもお手伝い内容を決めるための面接をすることになった。
それに関しては反対する理由も見つからず、薦められたコーヒーを飲みながら受けることになった。
カノウ「その、山ちゃんにきいたと思うけれど絵を何枚か描いてきたか?」
アタシは肯定的な返事をして鞄から絵を数枚取り出し、机の上に置いた。カノウ氏はそれを手にとってパラパラと軽くめくって脇に置いた。
カノウ「めんどくさいから結論から言おう、芸術レベルじゃない。」
カノウ氏は冷たく言い放つ。が、不思議とショックはそれほど受けなかった。自分でもそう思ってたからだ。
カノウ「ま、多分君自身もそう感じていたと思う、これは下手だ。だが少しいじれば美大に受かるかもしれないレベルあたりまではいくだろうな。」
セイコ「え?ホントですか?」
思ったよりも褒められている気がした。
カノウ「いじればな。」
セイコ「えっと?どうゆうことですか?」
カノウは絵をアタシの前に置いた。
カノウ「山ちゃんの手前、君をアトリエに入れることにしたが、絵を教えるつもりはない。と言うことだ。」
セイコ「え?なんで……」
思わず立ち上がってしまった、コーヒーが揺れてカタカタ鳴る。
カノウ氏は静かに、しかし重みのある声で語りはじめた。
カノウ「そもそも絵を、芸術を誰かに教わろうとする心構え自体が気に食わない。」
セイコ「……え?」
カノウ「芸術は自らの独創性を磨いて、練り上げて、初めて作品となる。君のその心構えは芸術を侮辱しているだけだ。」
セイコ「……でもそれは」
カノウ「ただ約束は約束だ、君にはアトリエで夏の間働いてもらう」
なにかを書いた紙をアタシの前にすべらせた。
カノウ「仕事の内訳だ。すまないが、まだ途中の作品があってね、それを仕上げなければならないからこれで終わりにしよう」
カノウ氏は立ち上がり作品製造の為の二階の奥の部屋にむかった。アタシはどうしていいかわからなくなってしまい、カノウ氏の足音が消えるまで動けなかった。アタシがやっと動け始めたのは少し時間が経ってからだった。目の前にある、綺麗に折りたたまれていた紙にようやく目がとまった。その紙にはあの態度からは考えられない物凄く綺麗な字で細かく仕事が書かれていた。
それを手に取り立ち上がる。
と同時にカノウ氏が製作室から出てきた。
カノウ「神谷セイコ、一つ言い忘れていた。バイトの期間中はこのアトリエの3階の部屋に寝泊まりしてもらうことになる。」
セイコ「え?はい?」
カノウ「仕事はその紙に書いてある日程通りに頼む、それと、あと三分弱でタクシーがくる。帰りたまえ。」
なんて人、冷たいなんてもんじゃない。
ヒトの皮の下には何も通ってないんだ!
帰りのタクシーでアタシはむくれていた。
運転しているのはゲンさんじゃない、若めのお兄さんだ。
セイコ「運転手さん!ここに行ってください!」
キリさんの喫茶店の場所を書いたメモを渡す。
タクシーが新たな目的地を目指して突っ走る。
こんな時は誰かに愚痴らないと気持ちが晴れない!
キリさん!愚痴らせて!
タクシーが喫茶店に着き。お金を払うなり外に飛び出た。
しかし、お店には入れなかった。
入口に『本日の営業は終了しました』の札がさがっていたから。
セイコ(昼間には居たのに……)
そう思ってアタシは扉の前で座り込んだ。
キリさんがどこに行ったのか見当もつかないけど、わかっているのは愚痴を聞いてくれる人がすぐそばにいないってこと……。
アタシは立ち上がりトボトボと歩きだした。
さっきのタクシーはもう行ってしまったし、アタシの気持ちもモヤモヤしてる。
海からは離れているはずなのに風が冷たい。
思わず身震いをした。
セイコ(夏なのにさむいってなに。)
ため息を一つ。二つ。三度目はない。足どりが重い。
まるで鉄球が足に引っ付いていてそれを引っ張ってるみたい。
三度目のため息がでそうになったけど飲み込んだ。
誰かが『ため息つくと幸福がにげる』って言ってたもんね。
グッと堪えて一歩ずつ力をこめる。
セイコ(負けてたまるか!)
息を鼻から吸う。それだけでなんだか頑張れそうな気がしてきた。
アタシは高らかに腕を上げて叫んだ。
セイコ「負けてたまるかぁ!!」
その声は夜も深い空に溶けて消えた。
アタシのアトリエでの仕事は床掃除、作品のホコリ叩き、クジに当たったお客さんの相手、食事の世話。食事の世話!?
なんでアタシが!と正直思うことばかりだけど約束は約束、山田先生がせっかく提示してくれた未来へのきっかけになるかもしれない物事だから、頑張らなきゃ。
帰りの電車に揺られる中、携帯電話に日程をうちこんでいく。
セイコ(あ…………お母さんたちに言わないと……)
きっとお母さんたち怒るだろうなぁ……
その情景を想像して少し気分が曇ってしまった。
どうしよ……。
進路の話をしただけであんなに怒るんだから、泊まり込みでアルバイトなんて言ったら、きっとかなり、ううん、すごく怒るに違いない。
腕を組んで考えてみる。
けどいい考えなんて浮かばない。
セイコ(う~ん、どうしよう……)
最寄り駅に到着しても何も思い付かない……。
でも言わなきゃなぁ……。階段を昇り改札を通ると風が駅構内まで吹き込んで来ていた。
裾を抑えて道路まで走る。
道路に出ると風はそんなに強くなかった。
軽く裾を掃って足を運ぶ。
運ぶ足が重すぎて家に帰れなければいいのに……。
そうすればお母さんの顔をみなくてもいいし……。
けど足はいつものように進み、アタシはどう言い繕うか、どう切り出すかを考えなければならなかった。
……………………。
何も思い付かない。
もしもアタシが交渉人や弁護士だったらこの局面を打破して自由を勝ちとっていただろうな。
だけれどアタシにはきっと無理だ。
母「そんなの許可できないわよ!」
帰宅してすぐにお母さんに報告したら予想したとおりにお母さんは声を張り上げて言った。
母「住み込みでアルバイト?はぁ!?馬鹿も休み休み言いなさい!」
セイコ「でも……こんなチャンスもうないかも……」
母「何言っているの?!チャンスなんかじゃないわ!それに誰よ!?『カノウタダミチ』って、聞いたことないわよ!!」
セイコ「芸術家……なの」
母「聞いたことないわよ!それにアンタ!行ってどうすんの!?」
セイコ「どうって……」
お母さんはヒステリー的に叫びまくっている。
母「だいたい芸術なんかで暮らしていけると思ってるの!?」
セイコ「だからそれを確かめに行くの……」
母「たしかめてどうするの!?」
セイコ「……えっと」
母「アンタには芸術は無理よ。」
セイコ「……」
母「お母さんにだってできなかったんだから、アンタにも無理よ。」
アタシに希望はない、あるのは誰かが引いたレールの上を走ることだけ。
セイコ「もういい……」
ため息をお母さんの前に吐きかけて自分の部屋に駆け込んで大きな音を立ててドアをしめて鍵をまわす。
カチリとはまる音の後にお母さんが扉を叩く音が響いた。
母「でてきなさい!なんなのその態度は!」
まだ叩いてる。耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
セイコ「うるさい!お母さんはアタシのこと何もわかってない!!」
口からでたセリフで気付いた。
セイコ(ダレモアタシノホントウヲミテナイ、リカイシテモラエナイ……)
機械みたいな声がアタシの真っ暗な頭の中で響いた。
胸が痛くなった。
胸の中が凍り付くみたいな痛みが走る。
手で胸を抑えて温めようとした。
けど。
手が震えていた。
右手を左手で押さえ付けたけど停まらない、左手も震えていたからだろう。
怖くなって携帯電話をにぎりしめた。
両手で強く。
祈るように強く。
セイコ(誰か……)
届かない願を馳せる乙姫のように、ただ純粋に。
イエスの無事を祈るマリアのようにただ一途に……。
誰にも届かない気持ちが部屋を駆け巡った。
……。
何も……何も考えられない。
電気の消えた暗い部屋でうずくまっていることしかできなかった。
それだけしか許されなかった。
どれくらいの時間がたったのかな……。
いつの間にか寝入っていたみたい。
ムクリと上半身を起こして手探りで携帯電話を探す。
ない。
セイコ(あれぇ?おかしいな……。)
目を凝らしてもう一度探してみた。
無い。
セイコ(んん~……)
立ち上がって見回す。
無い。
ペタリと座り込んでからまた寝そべる。
まだ頭が麻痺していてなにも考えられない。
静かに目をとじていく。
眠いのに眠くない。そんな気持ちに揺られて漆黒の世界にまた身を投げた。
『「親の名誉」や「体裁」、「評価」「ブランド」「将来の稼ぎ」を考えて、「自分の本当」、「自分が自分らしくあるための将来」を諦めたんだ。』
キリさんの声が響いた。
自分じゃどうすることもできない事実、これが現実。
セイコ(誰も助けてくれない……)
深い絶望感が波になって襲ってくる。
セイコ(誰か……)
『その心構えが気に食わない。』
カノウタダミチの声が波の合間に打ち寄せる。
『自らを練り上げて……』
セイコ(うるさいな!)
目をひらいて机に向かう。スケッチブックをひらく。
セイコ(あんな人に言われたくない!心構え?アタシに自由意思はない!アタシはお母さんの作品なんだから!お母さんの思った通りにしか生きちゃダメなんだ!)
怒りに任せて線が太く濃くなる。
それは産まれて初めて描いた絵のようにバランスも空間もメチャメチャで、「絵」と呼んでは世の中の全ての「絵」に対して失礼に値するモノだった。
だけど……不思議と嫌いな感じはない。
だけど……なにを描いたか自分でもわからない……。
セイコ(…これは…お守りとしてもっとこ)
スケッチブックのページにはさんでおいた。
セイコ(あれ?)
絵を思い切り描いたからなのかな……?
モヤモヤイライラがなくなった。気がする。
深呼吸を2、3度。
ふいに深い眠気に襲われた。
また深い暗闇に溶けた……。
心地良い闇。
まったりとした空間。
2度と浸ることはないだろうな、と思った。
きっとこの心地良い空間は、あの絵を描いたから浸れたんだ。
違う絵を描いたらきっと。
また違う感じになるに違いない。
アタシはそう感じた。
……。
カノウタダミチみたいな人はどんな感じを受けるのかな……。
ウインドウ越しに見たカノウタダミチの姿がまた浮かぶ。
セイコ(きっと幸せな感じに包まれているよね……)
素直に、真っ直ぐにアタシはカノウタダミチのような絵を描きたいと思った。
目が覚めるとすでに時計の短針が11時を指していた。
セイコ(今日は……何曜日だっけ?)
カーテン越しに降り注ぐ光を感じながら考える。
セイコ(土曜……?……日曜………???………)
手探りで携帯電話を探す。
指先になにかが触れた。
セイコ(あ……あった。)
携帯電話。
それを開いて画面を見た。
メールが数件入っている。
セイコ(でもそれよりも日付を見るのが先……)
目線をずらしていく。
セイコ(えと、月曜日か……)
……。
セイコ「月曜日っ!!」
叫んで寝床から飛び出した。
セイコ(ヤバイ!遅刻だ!)
急いで服を着てリビングにでる。
テーブルに乗っている食パンに苺ジャムを塗りたくって噛み付いた。
父「なにをそんなに慌ててるんだ?」
セイコ「へ?」
ようやくお父さんがいることに気がついた。
セイコ「おほぉーふぁん!」
父「食べながらしゃべるな、はしたない。」
セイコ「……っ。お父さん!なんで?月曜日だよ?仕事は?」
父「社会には夏休みがある会社もあるんだよ。」
セイコ「夏休み???」
父「夏休み。」
セイコ「じゃあ学校は?」
父「先週から夏休みだと言っていたじゃないか。」
セイコ「あ……。」
セイコ(そうだった。忘れてた、というか昨日のお母さんとの言い合いで頭になかった。)
一気に力が抜けた……。
セイコ「あああー……。」
テーブルにへばった。
そして一気に食パンを頬張った。
父「そうだ、セイコ。」
セイコ「………なにぃ?」
お父さんは緑茶をすすりながら新聞紙を広げている。
父「昨日の夜な、母さんから聴いたんだが。住み込みでアルバイトするのか?」
セイコ「…………」
父「どうなんだ?」
セイコ「その……つもり」
父「それはどうしてもやらなきゃいけないのか?」
セイコ「……」
父「アルバイトするほどならお小遣……」
セイコ「お父さんもわかってない……」
父「どうゆうことだ、父さんほどお前を理解してる人はいないぞ。」
ため息がでた。
セイコ(そうゆうのが『わかってない』んだよ……)
まだ何か言い続けてるお父さんの言葉が耳に入らなくなっていた。
アタシはテーブルの上に置いてあった菓子パンを二つ拾って部屋にもどった。
セイコ(お父さんもお母さんも嫌い……)
鼻から息がフンフンとでる。
ため息よりも憤りの息に近い。
ベットにダイブして寝転がりながら菓子パンの袋を開けた。
一口頬張る。
甘い香りと引き換えに口の中の水分が幾分か吸い取られる。
セイコ(うぅ……。)
それでもお腹を満たすために我慢して口に入れる。
口の中で唾液と混ざりながら砕かれていく。
最終的には粘着性のあるものになって体の中に送り込まれた。
だけどやっぱり喉が渇いて仕方がない。
どうにかお父さんと目があう前に走って冷蔵庫にあるペットボトルをとりだす。
なんだか自分が悪いことしているみたいな気がした。
キャップを回して口に液体を流し込む。
炭酸が弾けて口の中を踊る。
セイコ(ふぅ……)
残りの菓子パンにもかじりついた。
今度のはクリームが入っている。
炭酸とクリームが混じり合って少し気持ち悪い。
クチクチいわせながらお腹の中に詰め込んでいると、お父さんがドアを叩いて入ってきた。
思わず口の中のものをいきなり飲み込んだ。
セイコ「ゲホッゲホッ。」
父「おお、大丈夫か!?」
セイコ「だ、大丈夫。それより何?」
お父さんは頭をかきながらベットの端に座った。
そして静かに口をひらいた。
父「なぁ、なんで話をしてくれないんだ……。」
アタシは寝転んで言った。
セイコ「お父さんたちは…言っても理解してくれないから。」
父「そんなことはないぞ」
顔はアタシにむいてない。部屋の壁にかかっているアルフォンス・ミュシャの絵に向いている。
セイコ「そんなことあるよ……」
父「おまえは将来どうなりたい?」
セイコ「……。」
父「『言っても無駄だ』と思ってるか。あのな、父さんたちだって頭から否定してるわけじゃないんだ。ただセイコが幸せになれるようにかんがえてだな……」
セイコ「幸せってなによ。」
ベットに座り直して父さんの言葉に噛み付いた。
父「……」
セイコ「お父さん教えて、『幸せ』ってなによ。」
父「……」
セイコ「教えてよ……。」
父「大丈夫だ、父さんたちが幸せにしてあげるから。」お父さんは優しく頭を撫でてくれた。
アタシはその手を掃った。
セイコ「『幸せ』がなにかも教えてくれないのに偉そうに言わないで!」
父「セイコ……。」
セイコ「でてってよ!部屋からでてって!」
枕やらヌイグルミやらを投げ付けた。
セイコ「アタシはお父さんたちの人形じゃない!自分で道も決められる!」
そう言って布団を頭からかぶった。
しばらくしてから足音が部屋からでていったのが聞こえた。
アタシは布団のなかでうずくまり静かに泣いた。
次の日からはお父さんたちとアトリエでのアルバイトについてキチンと話し合っていない。
話すこともない。
アタシはモヤモヤしながらも夏休みを親と過ごしたくないからキリさんの喫茶店に向かった。
セイコ「キリさんっ!いつもの!」
言葉とともにカウンターになだれ込んだ。
道場破りさながらの登場にキリさんは目が点になっている。
キリ「もう、女の子なんだからもう少しおしとやかにしないと男の子に嫌われちゃうわよ?」
優しくカウンターにコーラを置いてくれた。
少しむくれて言い返す。
セイコ「いいもん!アタシかわいくないし!」
キリ「もう、そんなこと言わないの。」
キリさんはコップをふきながら優しい笑顔をくれた。
セイコ「事実だもん。」
キリ「もー、反抗期なんだから。」
それでも優しい笑顔は崩れない。
カウンターに頬をつけて木製作りの良さを肌で感じる。
セイコ「うひぃ……。」
すでにコップの側面に水滴が浮かんでいる。
カラン。
氷が溶けて心地よい音がした。。
お店の中は自然な涼しさで保たれている。
キリさんにどうしてか聴いてみた。
キリ「この建物を作る計画が出たときにそのオーナーの知り合いのデザイナーだか芸術家が設計したみたいで、奥の窓と入口近くの窓を開けると気圧の変化だかなんかで空気が滞らずにながれるんだってさ。」
キリさんは窓をそれぞれ指差した。
セイコ「ふ~ん。そのデザイナーだか芸術家ってゆうのはすごい人だね!」
テンションが上がる。
隠れ家みたいなこのお店はきっと愛されている。
そう感じた。
キリ「あれ?今日からアトリエだっけ?」
キリさんは最後のコップを吹き終えてアタシの隣のカウンターに腰を下ろした。
セイコ「ううん、まだ。」
キリ「そう……。」
セイコ「うん。」
ひんやりとして物静かなお店はただ時を知らせる円盤の針が動く音しかしない。
セイコ「ここってさ。なんか不思議だよね……。」
キリ「ん?」
セイコ「さっきまでイライラしてたのにさ……なんかなくなっちゃった。」
キリ「そう?」
キリさんはアタシの頭を軽く撫でた。
セイコ「うん、なんだろ……雰囲気かな……?ここだけ別世界みたいな……。あれ?」
店内をみまわしていたらあの絵が壁にかかっているのに気がついた。
セイコ「キリさん……カノウタダミチの絵飾ってるの?」
キリさんは優しく艶やかな顔でその絵をみた。
キリ「うん、やっぱさ。絵は見てもらわないとね。いつまでも隠すように置いといちゃダメなのよ。」
その口調はすこし哀しそうだ。
セイコ「キリさんなんだか哀しそう……」
ポロリと口からでた。
その言葉でハッとしたようにいつものハツラツとした顔に戻った。
セイコ「あ、キリさん。ごめんなさい。」
キリ「なんで謝るの、あなたは悪くないのに。」
キリさんはニカッと笑った。
キリ「私が勝手にそんな顔しただけなんだから!」
頭をポンッと叩きまたカウンターに入った。
セイコ「さぁ、悩める少女よ。『いつもの』もう一杯いく?」
アタシが返事をするまえにコーラが冷えたコップに注がれてでてきた。
キリ「あの絵を飾ることにしたのはね……、私なりのけじめなの。」
キリさんは見たこと無い悲しい顔をした。
セイコ「けじめ?」
キリ「そ、けじめ。」
セイコ「なんのけじめ?」
キリ「それは秘密よ!」
まるで恋する女の子のような笑顔にドキドキしてしまう。
セイコ「なんで~?そこまで言っといて」
キリ「ヒ・ミ・ツ!」
二人で恋話をしているみたいにはしゃいだ。
セイコ「けじめかぁ……」
思い出してテンションが下がる。
キリ「どうしたの?」
セイコ「……。実はまだ親にアトリエでのアルバイトのこと……認められてないんだ……」
キリ「……。」
セイコ「あの人たちはアタシのことわかってないの、何一つ。アタシ自身を……。」
キリ「……。」
セイコ「見ようともしない。」
コップの飲み口を指でなぞる。
キリ「……違うよ。」
セイコ「え?」
キリ「見ようともしないとか、そうゆうのは違う。……少なくとも心配はしてくれてるし。反対するのにも何か理由があるのよ。」
キリさんは腕を組んだ。
セイコ「でも……」
キリ「あなたはきちんと話し合った?耳を傾けて聞いて、言葉を選んで並べて、説明した?」
セイコ「……。」
キリ「自分の思いを、一方的にぶつけるんじゃなくて……」
セイコ「……」
キリ「ね?……もう一回さ、言ってみなよ、そうすればなにか道がひらくと思うし。」
セイコ「…………うん……」
キリ「ね?」
セイコ「……うん。」
返事はしたけどまだ納得できなかった。
セイコ「…………でも……」
キリ「ん?」
セイコ「でも、それでも、アトリエのアルバイトのこと認めてもらえなかったら?」
キリ「どうしたい?」
セイコ「え?」
キリ「あなたはどうしたいの?諦める?認められなかったら諦めるしかできない?」
セイコ「……。」
キリ「夢を追うのはそうゆうことがいつも付きまとうの、あの人は認めてくれたけどあの人は違う。なら諦めるか?って……。」
セイコ「……。」
キリ「あ、氷……溶けちゃったね、もう一杯いれてあげる。」
セイコ「…………ん。」
キリ「これはね何事にも付きまとうかもしれないわね、恋愛、夢……。」
セイコ「……。」
キリ「でも私は諦めちゃったわけだけど……、後悔しか残らない。」
セイコ「……。」
キリ「だから……ね?アナタはまだ夢自体を否定されたわけじゃない。諦めるにはまだ早いと思わない?」
氷がまた少しずつ溶けてはじめていた。
セイコ「話……聞いてくれないと思う。」
コーラをチビッと飲んだ。
セイコ「けど、もう一回話してみようと……思う。」
キリ「うん、だね。」
そう言ってキリさんはアタシの頭を優しく撫でた。
コップを口まで運んで一気に流し込んだ。
あまりの刺激に涙がでた。
セイコ「アタシっ!!頑張ってみるっ!!」
立ち上がって伸びをした。
ドアのほうまで歩き絵の前にとまる。
天使の、美しくも悲しい絵。
向き直って聞いた。
セイコ「この絵、触っても平気?」
キリさんは優しく言った。
キリ「うん。優しくね。」
右手で絵に触れた。
右の掌で。
乾いて冷たい天使から暖かい優しさが体の中に流れてきた。
包み込まれるほど大きな想いが……。
セイコ「あれ?」
……涙が流れていた。
拭っても拭ってもとまることなく、流れた。
自分の体が涙のとめかたを忘れてしまったようだった。
しまいにはアタシは絵の下でえぐえぐと泣きはじめた。
キリ「大丈夫?」
急いでキリさんは駆け寄った。
ふわりと甘い、いいかおりが漂う。
セイコ「ヒックっ!だ、大丈夫。……」
キリ「一体、どうしたの?」
セイコ「わかんない……、急に、涙がでてとまらなくて……。」
まだ出ている。
セイコ「……!」
すると急にキリさんがアタシを抱き寄せた。
セイコ「キリ……さん?」
アタシが言うと少しつよく抱きしめた。
セイコ(やわらくて……いい香りがする……。)
アタシも手をまわしてキリさんを抱きしめた。
なんだか不思議な感じ、ドキドキしないのに体が暖かくなっていく。
肩の力が抜けるのがわかる、体がリラックスしていく。
涙が止まった。
セイコ「キリさん……なんだかお母さんみたい……。」
言ってから恥ずかしくて慌てて離れた。
キリさんは目が点になっていたが、すぐにいつもの顔に戻った。
キリ「せめてお姉さんにしてよ。」
恥ずかしくて顔が熱い。
セイコ「……ハイ……。」
キリ「私はまだ『お母さん』なんて歳じゃないよ。」
笑いながら頭をポンッと叩く感じはかつて夢にみた理想のお姉さん像そのものだった気がした。
キリさんの不思議な抱きしめでアタシはなぜだかやる気が増した。
ううん、キリさんのおかげもあるけど……。
多分あの絵に触れて泣いたおかげもあると思う。
心が晴れているような、そんな気分。
変なの……。
セイコ「アタシ……行ってくる。お母さんと話しなきゃ。」
キリ「そう。」
素っ気ない返答なのに、なにもかも知ってる姉妹のような深さを感じる。
セイコ「うん。」
キリ「……うん、頑張って。」
それだけ。
それだけなのに暖かい。
セイコ(……なんだろう……この感じ。)
人はどこまで理解し合えるんだろう。
洋服の好み、食べ物の好み、仕草、くせ。
どこまで知れば理解したことになるんだろう。
小学生のころに先生にきいたことがあった。
なぜイチタスイチがニなのかと、ニになるのは知っている。
聞きたいのはニになる理由だ。
先生は答えた「きちんと理解しろ」
どうなったら理解したと言えるのかな……。
アタシの頭の中は整然としているのに次から次に疑問が出てくる。
アタシはこれから戦いに出るのだ。
アタシの敵はお母さんだ。
セイコ「だから、そこで働きながら教えてもらうの!」
アタシはお母さんとお父さんを前にして説得をするために気持ちが走る。
母「男の人と二人きりなんて良いわけないじゃない!」
お母さんも気持ちだけが走る。
お父さんは黙って聴いていた。
セイコ「二人きりなのは昼だけで夜はアタシ一人なの。」
母「なおダメだわ。」
セイコ「なんでよ!」
母「暴漢に襲われたらどうするのよ!」
セイコ「あんなとこにくる暴漢はいないよ!」
母「そんな辺鄙なところなの!?ならさらに行かせるわけにはいかないわ!」
セイコ「お母さんは場所関係なく行かせたくないだけでしょ!?」
母「そんなわけないじゃない!」
セイコ「じゃあなんでわがまま聞いてくれないの?なんでアタシの気持ちを理解してくれないの?
母「いままでわがまま言わなかったのになんで今言うのよ?」
お母さんはついに泣きはじめた。
母「私はそんな風に育てた覚えはないわよ……。」
セイコ「……っ。」
するといままで黙っていたお父さんがゆっくりと口を開いた。
父「セイコ、そこに行かなきゃならない理由を教えておくれ。」
セイコ「……大学の……推薦のため……。」
父「推薦ならそこにいかなくても貰えるだろう、学校の山田先生にでも。父さんがきいているのはなんで『そこで働かないといけないのか』だ。」
セイコ「……」
確かに推薦自体はカノウタダミチのアトリエに行かなくても得られる。
それなのになんで……。
母「答えなさいセイコ!」
泣いていたお母さんが鼻水たらしながら怒鳴る。
父「母さんっ!……今、セイコは自分と向き合おうとしているんだ、黙りなさい。」
母「だけどっ!」
父「黙りなさい、自分の人生を決めるのは自分しかないんだ。僕たちが何を言ってもそれはただの邪魔にしかならないよ。……セイコ、いいか?よく考えて、答えを探し出しなさい。自分の中にしかない答えを。」
お父さんはじっとアタシを見た、アタシの中を探るように。
セイコ「ア、アタシは……」
目はテーブルを見ているのに、頭は、意識は前に観た必死に絵を描くあの日の、初めてカノウタダミチを観た映像を流していた。
セイコ「うまく……言葉にならないけど……。」
天使の絵……、それを悲しい暖かい目で見るおじいさん。
セイコ「なんか……今までお母さんたちが引いてくれてたレールに乗ってただ走ってただけで……。自分をたいして意識してなくて……、何がしたいか、何をしていいのかがわからなくて。誰に聞いても『アタシの訴え』を聞いてくれなくて。なにがなんだかわからなくなって。そんなアタシの中にあの絵が飛び込んできた。アタシを観て、アタシを見つけだした絵、それを描いた人が見たくなってその人が知りたくなった。アタシがそこに行きたい理由は多分それ。どうしたらその人みたいになれるのか知りたい。そうなれる可能性が在るのか知りたいから…………よくわかんなくなっちゃった。」
父「いや、わかるよ。」
お父さんは遠くを見るように呟いた。
母「どうゆうことよ?」
片眉をひそめたお母さんがきいた。
父「人は誰しも自分自身を理解してはいないんだよ。」
お父さんはお母さんを見た。理解したと思っているのは人類全体の三割くらいだろうか、残りの人類は常に自分を知ろうとしているんだ。君は三割にも入らない『知ろうともしない人』だ。」
母「喧嘩売ってるの?」
父「いやいや、違うよ。『それでいい人もいる』って話だ、だが僕らの娘は知ろうとしてしまった。」
母「だからなに?」
父「その思いを否定するようなことはしないほうがいい。」
母「あなたは心配じゃないの!?」
父「心配だよ、死ぬほどに心配だよ。だけど心配だからって試す機会まで失わせるのは違うんじゃないかな?」
母「なに?あたしが間違っているっていうの?」
お父さんは静かに息を吐いた。
父「この際だから言わせて貰おうかな。」
母「何をよ!」
鼻息がかなり荒いお母さんは顔がトマトみたいになっている。
父「いいかい?セイコは今、自分を見つけようとしている、それは他人にはわからない感覚なんだよ。例えばカゴに鳥を飼うとしよう、鳥自身はこのカゴから逃げて鳥として生きて行きたいと願っている。だがそれを汲み取らず、頑なにカゴに閉じ込める。君がしようとしていることがそれだよ。」
母「……」
父「たしかにカゴの中は安全だ。飛ぶ必要がないほどにね。だけどそれは鳥にとって幸福なんだろうか……。」
母「……」
父「こんなことを聞いた覚えがある、カゴの中に閉じ込められた鳥は自由になっても飛べなくなると。必要ないから、排除するのだって。人にも同じことが言えるって。」
母「……」
父「自ら考えて感じなければ、抑制され否定され続ければ誰も夢なんてみなくなる。」
母「……」
父「君が毛嫌いしてた今の若者たちがそれになっているんだよ。だが、勘違いしないでほしいのは君を批判して喜びたいわけじゃない。理解してほしいんだ、自分の子供のことを。子供達に必要なのは『否定すること』じゃなく、『同意すること』なんだってことを。」
母「…………、夏休みがおわるまでよ。それまでにその『なんとか』って人が推薦を出さなかったら……わかってるわね。」
セイコ「ありがとう、お母さん」
母「私に言ってどうするの、お父さんに言いなさい。お父さんの意味のわからない難しい哲学のおかげなんだから」
父「意味がわからないって…ひどいな」
セイコ「うん、ありがとう、お父さん、お母さん」


―扉―

夏ってなんでこんなにジメジメで暑いんだろう。
暑いだけならまだしも肌が焼けてしまうほどの光。
セイコ(あ~、アタシはきっと溶けてなくなってしまうんだ…アイスみたいに…)
と、とと。
カノウタダミチが個展で話していた『アトリエ見学会』の受付をしながら考えていた。
アトリエが海に近いせいなのか、日に直接当たっていないのに肌がヒリヒリしている。
我が家で行われたあの家族会議は一応アタシの意見、というか願いが叶い。
お父さんがお母さんを説き伏せる形で幕を下ろした。
夏休みという限定された時間の中でカノウタダミチに認められるのはかなりシンドイと思う。
けど、頑張るのだ。
???「あの!」
セイコ「あ、はい。」
フワッと拡がる強めの香水の匂いが意識を遠ざけようと意気込んできた。
見ると明らかにお金持ちそうな女性がこちらをみていた。
???「ワンちゃんは入れるのかしら?」
その女性はカノウタダミチの目をひこうと、不釣り合いなほどにおめかししていた。
セイコ「ペットは入れないようにとカノウタダミチに言われておりますので。」
マダム「うちのコはペットじゃないわ、家族なの、息子なのよ。」
あーこの手の人はかなり面倒くさい。
セイコ「そうですか、でも人以外はいれるなと…言われておりまして…」
マダム「ふーん、それは、ま、仕方ないわね。」
御婦人は犬を外のポールに繋いで中に入って行った。
このワンちゃんは主人が自分を見捨てたと思っているのか、思っていないのか。ぶふん。とノドを鳴らして地面に腹ばいになった。
いつもそうされていて余裕しゃくしゃくなのか、諦めたのか……。
しばらくアタシとワンちゃん、いやもしかしたら犬くん、は熱風渦巻く外に放置されていた。
セイコ「あっついね。」
パタパタと手で自分の喉元を仰ぎながら犬くんに言ったのだが見向きもしない。
セイコ(あのおばさんあってこの犬ありか……)
アトリエの中では御婦人のバカ笑いが響いていた。
セイコ(あの人、恥ずかしくないのかな……)
持参していたペットボトルの口をあける。
その音を聞いて突然犬くんがこっちを向いた。
セイコ「な、なんだよう。」
アタシは身を逸らせて言葉を発した。
吠えるわけでも無く、ただジッとこっちを見つめている。
セイコ「なに?どうした?」
セイコ(なによ……)
一口水分を補給した。
適度に常温になってしまっている水を飲んで喉を潤した。
セイコ「……あ。」
もしかして水分だったのか、犬くんは水分補給したかったのか。
セイコ「ちょっと待ってて。」
きっとこの犬くんは駅から歩き通してきたのだろう。
お椀を駆け足でアトリエから持ってきて水をいれながら道のりを考えてみた。
途中にある公園やらで少しは水を飲んできてはいるだろうけれど……。
セイコ(この暑さだもんねぇ……。)
またアトリエに走って冷凍庫から氷をだしてお椀に入れて考えた。
人も犬も冷たい水が飲みたいに違いない。
急ぎ足で氷水入りのお椀を持って犬くんのところに戻る。
セイコ(あれ?)
犬くんの前に人影がある。
???「お前可哀相にな、こんなトコロまで歩かされて。ん?なんだ?そうか水が飲みたいのか、ほれ、海に入ればたらふく飲めるぞ。」
セイコ「何やってるんですか。」
???「いや、マネージメントが対応してくれるから休憩しようと思ってな。ああ、水か……。」
セイコ「はい、犬くん。海の水なんて飲んじゃダメですよ。」
アタシは犬くんの前にお椀を置いた。
???「本当に飲ますわけないだろ。」
犬くんはバッツバッツと音を出しながら水を飲んでいる。
???「この犬は誰の連れだ?」
セイコ「ああ、あの声の大きい御婦人です。」
カノウタダミチは中の様子を伺ってから犬にむかった。
犬は水を飲むのをやめてカノウタダミチの顔を見上げた。
カノウ「まだかなり時間がかかりそうだから。こいつとそこの浜辺にいってくる。あのおばさんに伝えとけ。」
セイコ「え?」
カノウ「それともお前もいくか?」
カノウタダミチはリードをポーロから離して手に握って歩き出した。
セイコ「わわ、ちょっと!」
カノウタダミチはアタシの静止を気にすることなく歩いていく。
犬くんもフンフンと鼻息荒く尻尾を振りながらついていく。
アトリエから海までは目と鼻の先で、思ったよりも時間がかからずに到着した。
そしてとても静かなトコロだった。
セイコ「うわぁ。」
しか言えない。
波の音と海の匂いがアタシの顔に飛びついてくる。
波は低く、砂浜は水分を含んでいてひんやりし、風も穏やかにそよいでいる。
犬くんはカノウタダミチを引っ張りながら波打際をいったりきたりしている。
カノウ「お前海は初めてなのか。」
犬くんはカノウタダミチの顔をみた。
カノウタダミチはリードを外して呟いた。
カノウ「…よし…楽しんでこい。」
その言葉に従ったのか犬くんは波に突っ込んだ。
犬くんが波と海に戦いを挑んでいるのをカノウタダミチは笑いながら見守っていた。
波にさらわれるのを予防するためじゃなく、『ただ見たいから見ている』と言うように、目に焼き付けているように。
その眼差しは優しく穏やかで、絵を描いているときのような、あの日のような余裕のない顔ではなく、まるで自分の家族を見守っているような感じがした。
セイコ「あの………えっと…犬好きなんですね?」
アタシはカノウタダミチの横に立って言葉を発した。
カノウタダミチ振り向かずに小さくうなずいた。
セイコ「かわいいですもんね、言うこと聞いてくれるし、忠実だし。」
カノウ「そうだな。」
セイコ「素直だし。」
カノウ「たしかに嘘はつけないだろうな……。」
セイコ「寿命が短いのが唯一嫌な点ですよね。」
カノウ「だがこいつら犬は自ら死を迎えようとは考えない。」
セイコ「え?」
急な言葉に思わず聞き返してしまった。
カノウ「人間だけだ、裏切ったり自殺しようとするのは。」
その時見せたカノウタダミチの表情は、軽く触れただけで崩れ落ちる砂の城のように渇いていて冷たく、重く沈んでいた。
犬くんが海に勝てないと悟り、びしゃびしゃになっている身体をカノウタダミチに摺り寄せた。
カノウ「ん?どうした?」
犬くんは顔をカノウタダミチの膝辺りに擦り寄せた。
セイコ(この人は動物に好かれる人なんだなぁ……)
カノウ「そうか、お前はわかるのか……。」
セイコ「?」
カノウ「……神谷セイコ、君は絵を描くときに気をつけていることはあるか?」
セイコ「はい?」
カノウ「何を心掛けている?」
セイコ「???」
カノウ「いや、いい。……そろそろアトリエに戻るか。」
それだけ言うとカノウタダミチは犬くんを率いて歩きはじめた。
セイコ(何を心がけて?……綺麗に描くこと?)
アトリエへの道のりは行きとは変わりとても静かなモノだった。
海へ行くときは何かザワザワしたものが聞こえていたように感じていたのに……。
今は寂しいほどに静かだ。
カノウタダミチは連れている犬くんを時々撫でるものの、その背中には寂しさが溢れているように感じた。
理屈じゃなくただそう感じた。
犬くんもどこか悲しそうにカノウタダミチを見上げてはトボトボと足を動かした。
まるで二度と逢えないと思っているような。
『君は絵を描くときに気をつけていることはあるか?』
カノウタダミチの言葉が頭の中で反芻された。
セイコ(気をつけていることは…………なるべく綺麗に描く……かな)
それしか頭に浮かばない。
綺麗な絵こそ芸術なんだ。
赤なら赤。
海なら蒼。
アタシはいままでそうやって描いてきた。
そうであるべきなんだ。
道端に転がっている小石を小突きながらカノウタダミチのあとに続く、きっと今のアタシの背中は傲慢さが滲み出てるんだろうな。
チラッとカノウタダミチを見る。
カノウタダミチの背中には何も感じなかった。
憤りも憐れみも感情がなにひとつ。
後ろから抱きしめたくなった。
力いっぱいに。
そうすれば互いになにかが得られるような気がした。がアタシは何もできなかった。
汗が背中を湿地帯に変えるころアトリエについた。
犬くんは海辺に行く前にアタシがいれた、少し温くなった水を飲み始めた。
それをリードをポールに付けたカノウタダミチが見つめている。
汗一つかかずに見つめている様子は少し恐ろしく感じた。
セイコ(暑くないの???)
思わず額に手を当てたくなる。
カノウ「なあ。」
セイコ(う。)
カノウタダミチに少しばかり近づいていたアタシは数歩さがった。
カノウ「さっきの話は本当になかったことにしろ……君にあんなこと答えられるわけがないんだ。」
さすがにムッとしたけどすぐに口から言葉がでなかった。
それはいつもの彼の顔が冷たい顔に戻っていたから。
セイコ(この人はどうしてこんなにも冷たい顔になってしまったのだろう。)
なんだか悲しくなった。
彼がそうなってしまった理由を知りたくなった。
お節介なのはわかっているし、余計なお世話なのも重々わかっている。
でも知りたくなってしかたがない。
カノウタダミチが犬くんに呟いた『そうか……お前はわかるのか』……。
あれもきっと彼を知ればわかる気がする。
カノウタダミチは静かにアトリエ内に入って行った。
犬くんは彼を目で追っていた。
アタシも彼を目で追っていた。
もしかしたら犬くんとアタシはこのとき同じ事を考えていたのかもしれない。
彼、カノウタダミチがアトリエに入り数分してから声の大きい御婦人がでてきた。
顔に『カノウタダミチに顔を覚えて貰えたわ』と描いてある。それに目をハートにしていた。
だけどアタシが見ているに気がつくとまるで汚物を見るかのような目で睨みつけた。
その様子を見た犬くんが少し御婦人に対して唸っているようだ。
御婦人はそんなことお構い無しにリードを手にとり犬くんを力のかぎり引っ張る。
犬くんは苦しそうに唸るが立ち上がって従った。
それが苦しまない最善の策だと知っているんだ。
ヨタヨタと御婦人に連れていかれる犬くんは少し悲しそうにこちらを数回振り返る。
カノウタダミチを探しているのだろう。
そんな可愛げの出てきた犬くんを御婦人は問答無用に引きずりながらズンズン歩いて行った。
その様子に少し腹がたった。
……。
………………。
いや、かなり。
なんであんな人がー
???「なんであんな人がいるんだろう?か。」
声が室内から響いてきた。
セイコ「なんで、」
カノウ「顔に書いてあるからだ。」
カノウタダミチが静かに現れた。
カノウ「君は顔に出やすいみたいだな、忙しいやつだ。」
セイコ「どうも。で、なにか用で?」
この人はどうもよくわからない。
カノウ「あの品のない御婦人でおしまいだ。神谷セイコ、アトリエの清掃を頼む。品のない臭いで作品がダメになるまえに。」
品がないって……たしかに。
セイコ「わかりました、」
カノウ「それと、絵には触れるなよ。」
……。
作品にはすでに布がかぶせてあった。
セイコ「……はいはい」
受付の台を待合室のような広間に置いて、部屋にホウキをかけはじめた。
肉眼ではわからない埃が舞いそしてさっきのご婦人の強い香水の匂いで、むせた。
セイコ(こりゃ窓全開にしなきゃ。)
開けると風が流れて気持ちいい。
ホウキを再度かける。
窓から入口に向かってホコリや汚れが流れて行く。
渇いた床にホウキが断続的な音を奏でた。
???「ありゃ?もうおわりかな。」
聞き覚えのある声にホウキが動くのをやめた。
セイコ「山田先生!!」
この場所に似つかわしくない先生が少し新鮮な感じに見えた。
山田「おお、感心、キチンと手伝いしているじゃないか……あれ?カノウは???」
セイコ「あ、奥に……ちょっとまっててください。」
山田「ああ、頼む。」
山田先生がきたことを告げるとカノウタダミチは自分の部屋に通した。
アタシはしばらく清掃をしていたけどお茶を出していないことに気がついて慌てて湯を沸かした。
セイコ(先生はお茶よりもコーヒーのほうがいいかな……)
少し考えてからコーヒーの袋を開けてメーカーに盛った。
セイコ(お湯沸かす必要なかったな……あとでカップ麺でも食べよう。)
……ごぽ…こぽぽ……
メーカーに黒い液体が少しづつ垂れてきている。
セイコ(何を話すのかな?久しぶりっぽかったから昔の話しかな……。キリさんのことかな……)
…………こぽぽ
黒い波紋が拡がる。
セイコ(何話してるんだろ…気になる…。)
山田「…………彼女はどうだい?」
下書きやらアイデアやらを描いた紙が散乱する部屋で、カノウタダミチと山田は向かいあって座っていた。
入口入って左にカノウタダミチ、右に山田。
カノウタダミチの背には膨大な冊数の本が納められた本棚が、山田の背には誰かが描いた絵。
カノウ「まだダメだな。」
山田「だろうね。」
カノウ「神谷セイコには熱量を感じない。」
山田「君みたいには中々いかないさ」
カノウ「……」
山田「けどさすがに、あの人みたいにきれいな絵を描いているみたいだな」
山田は散らかった部屋の中唯一綺麗にしてある紙を広げて見た。
カノウ「血は争えん、か。」
カノウは山田の後ろにある絵を見つめた。
山田「……彼女はあの人の存在すら知らないだろうに」
カノウ「だろうな。」
山田「話さないのか?」
山田はカノウを見遣った。
カノウ「俺が話すことじゃないだろ。」
カノウも山田をみやる。
山田「たしかに……あれからどれくらい夏が過ぎたかな…。」
山田は後ろにある絵を見ながら言った。
山田「もう何年になるんだろうか」
山田はカノウを見つめた。
カノウ「さあな。」
カノウは絵を見たままだった。
……コンコン。
セイコ「あのぅ、コーヒー入れてきました。」
扉の向こうで神谷セイコが言う。
部屋に入るなり神谷セイコは尋ねた。
セイコ「なんの話してたんですか?」
少しぶりっこぽく話してみたら先生たちが何かを言ってくれると思ったからだ。
山田「君についてさ」
笑いながら山田先生は言う。
すぐにカノウが言った。
カノウ「語弊を招く言い方はやめろ、ただしくは『君の絵について』だ。」
それを聞いた神谷セイコの顔が少し暗くなった。
コーヒーを二人の前に置き、お盆をお腹の前に持って神谷セイコは立っていた。
セイコ「やっぱり下手くそ、ですよね。」
カノウ「下手すぎるくらいにな。」
カノウはオブラートに包まない、絵に関しては。
コーヒーを一口すする。
山田「カノウ、言い方があるだろう。」
セイコ「いいんです、初めて絵を見せたときに言われましたから」
カノウ「語弊が無いように言っておくが『絵が汚い』わけではなく、『絵に熱量が無い』だけだ。」
山田「それでも語弊はあるんじゃないか?」
セイコ「……」
カノウ「……君の絵は綺麗に描けている、そこらへんにいる絵かきよりもよほどな。しかし気持ちがこもってないんだ。『絵にまつわる思い』が感じられない。」
山田「ん~」
セイコ「……その方法がわからないんです。」
カノウ「それは君が何も込めていないだけだ。」
山田「まだ人生経験が足りないからねぇ」
セイコ「わかりません。何をどうすればいいんですか!?」
山田「簡単さ。僕ならラブレターを書くように好きな人を思いながら描くね、そうすればおのずと気持ちのこもった作品が生まれるものさ。絵もそれに因んだ味のある雰囲気になる。」
セイコ「はぁ」
わかるようなわからないような。
カノウ「つまりは気持ちをぶつけるんだ」
セイコ「……」
だから。
だからあの日のカノウタダミチの顔は余裕がなく見えたんだ。
自分のすべてをぶつけていたから……。
セイコ(アタシにできるだろうか……)
かなり自信が無い。
今まで……今でも気持ちを何かに、真剣にぶつけた事が無いから…………
今だって…………
できるかな……。
アタシは恋をしているシンちゃんに告白することも出来ないのに……。
カノウ「………………こんな言葉を聞いたことがある」
セイコ「???」
山田「なに何?」
カノウ「昔、あるところに兄と妹がいた。二人は絵かきを目指していた。兄は慎重、妹は才能に溢れていた。兄は気持ちを閉ざし、妹は逆。しかし絵かきになったのは兄だった。」
セイコ「!!」
あんなに騒がしかった山田先生は話が始まった途端に喋らなくなってコーヒーをブラックのまま鈴鹿に飲んでいる。
カノウ「…………」
セイコ「なぜ……ですか?」
カノウ「…………兄は自分に足りないところを知っていたからだ。兄は命懸けでそれを補ったんだ……。」
山田「…………」
セイコ「…それじゃあ…妹、妹のほうはどうなったんですか?……才能があるのになんで絵かきにならなかったんです?」
カノウ「妹は……なれなかったんだ。その妹は才能があるから故になれなかった。」
山田「…………」
今度は先生は砂糖をコーヒーにいつも通りに何個も入れた。
セイコ「なんで……。」
山田「きっと自分に『偽り』を作って、それに堪えられなかったんだ。……自分の気持ちに素直じゃなきゃ絵は描けないんだ。」
カノウ「……芸術家は自分に正直に生きなくてはならない。だが、作品を作った後に世の中で販売するためには嘘をつかないといけないことがおおい。先ほどきたご婦人のような人間にも笑顔で接することが必要だ。絵を買ってもらうために。」
カノウタダミチはコーヒーをブラックのまま口にふくんだ。
山田先生のコーヒーはすでにお湯砂糖に変化している。
セイコ(うへぇ……)
カノウ「…………君は、誰かに絵を習ったことがあるか?」
山田「……」
セイコ「絵は……昔おばあちゃんと描いていただけで習ったことはないです。」
カノウ「そうか。」
セイコ「???」
カノウ「いや、いいんだ。それよりも清掃はすんだのか?」
セイコ「あ。」
山田「おいおい、それが終わってからだろ。普通はさ。」
セイコ「ハイハイ。今やってきますよ!」
山田先生の言い方に多少いらつきを覚えつつ部屋の扉をあけ飛び出した。
山田「……どうした?お前らしくないな、助言をやるなんて。」
カノウ「…………あぶなっかしくて、ああいうタイプは道を踏み外しやすいからな。」
山田「……なるほどね。」
セイコ(忘れてた忘れてた。)
アトリエ内の清掃が中途半端だった。
しかも窓もドアも開けっ放し……。
下手したら作品を盗まれているかもしれない。
セイコ(やばい!)
しかしその心配も空を切り、作品は無事だった。
セイコ(はぁ、よかった。)
ドアに鍵をかけため息を一つ漏らす。
セイコ(自分に正直に……か。)
かつてピカソは生涯六人の女性と関係をもったらしい。
ダリは誰もしないことをするために生きた蜘蛛を食した。
アルフォンス・ミュシャは女性を描きつづけた。
みんな自分の欲望に忠実に、素直に生きた。
『だからと言ってそれが、自分に正直な生き方が正しい生き方だとはかぎらないわ……助けてあげて……』
不意に聞こえた気がした声とともに甘い、優しい香が漂い、アタシは振り向いた。
さっきまで誰もいなかったのに、絵の前に一人の女性がたっていた。
その女性は物凄く透明感があって綺麗だった。
綺麗すぎるほどに。
セイコ「あの、今日はもうアトリエは終わったんです。」
『自分に正直に生きると言うことは、それだけつらいことや悲しいことをも受け入れなければならない。……あの人は苦しんでいるの……』
セイコ「あの……。」
『あなたは私みたいにならないで……。』
セイコ「……え?」
彼女が言い終わるとともに突風が吹いてアタシはそちらを向いた。
再び目をやるが彼女はいなくなっていた。
セイコ(え?なんだったの……)
アタシは今目の前で起きたことが理解できなかった。
アタシと同じくらいの女性がいきなり現れて消えた。
理解できる?
恐!
セイコ(きっと絵に光が反射してその絵が立体的に見えたんだ。)
そうとしか思えない。
アタシは女性が立っていた絵の近くに恐る恐る近づく。
セイコ(この絵はたしか……)
カノウタダミチが一番気に入っている、年代の古い絵。
セイコ「題名は……『年陰る少女』」
まるでフェルメールの絵のような優しく淡い、少女が振り向いた瞬間を切り取ったような絵。
前に見た天使の絵とはまた違う、心を満たす思いが感じられる。
セイコ(あったかいなぁ……。)
この絵の女の人が光に反射してたまたまそう見えただけだよね?
カノウタダミチのこの絵に込めた、この絵の女の人にたいする『愛』を感じる。
セイコ(ものすごく大事に思ってたんだ。…………恋人……かな)
そういえば一緒にいる期間が短いとはいえ、カノウタダミチが女性と一緒にいるところ見たことがない。
セイコ(見た目はかっこいいのに……。見た目だけは……。性格はかなり冷たいけど。)
山田「お、キョーコじゃん。」
セイコ(キョーコ???)
振り返ると山田先生とカノウタダミチが話し終えて出てきた。
セイコ「キョーコって……誰ですか?」
山田「カノウのイモウトだよ、お前こんなの描いてたんだな。」
セイコ(……妹……)
カノウ「……ああ、かなり昔にな。」
山田「……よく一般人に見せる気になったな。」
カノウ「見せる気はなかったんだが、なぜかそこに置かなければいけない気がしてな。」
山田「お前が言う「……ればいけない気がする」は迷信めいてるからな……怖っ!」
セイコ「なに!?なんです?」
山田「こいつ、元々絵かき志望じゃないんだよ。」
セイコ「え?そうなんですか?てかそれでなんで迷信めいてるんですか?」
カノウ「……」
山田「語っちゃっていいんかなぁ……。」
山田先生はカノウタダミチの顔をチラリとみた。
カノウ「死んだんだよ、うちの妹は。」
ゾクリとした。
セイコ(まさかアタシのみたのは……)
カノウ「七年前だ。」
カノウタダミチは絵を見てから絵の少女の輪郭を指の腹でなぞった。
山田「今のお前と同い年の時さ。」
セイコ「え?」
山田「そいでカノウがキョーコの夢だった絵かきを継いだんだ。」
カノウ「……」
だからこの絵からカノウタダミチがいう『想い』が伝わったんだ。
セイコ「え?それってさっき話ししてた…」
だからこの人は……この人の目は悲しみに満ちていたんだ。
カノウ「…………すまない……少し一人にしてもらえないだろうか?」
山田「は?……まぁ仕方ないな……わかった、」
セイコ「え?」
山田「キリちゃんの店にいるよ。」
カノウ「……ああ」
セイコ「え?」
山田「お前も来い。」
セイコ「ええ?」
アタシは半ば強引に山田先生に引きずられるようにしてキリちゃんの喫茶店に連行された。
…………なぜ、なぜアタシはキリさんの店で先生と飲んでいるのだろう。
…………なぜこんなにも雰囲気が張り詰めているのだろう。
せっかくのいい雰囲気のお店が少し怖いくらいに感じる。
山田「へぇ、カノウの絵を飾ったんだ。」
キリ「うん。」
山田「やっぱりあいつのはいいよな、」
キリ「うん。…………こないだセイコちゃんがあの絵の前で泣いちゃって……ね?」
セイコ(う……)
山田「ほー、お前も泣いたんか。」
セイコ「お前も?」
山田「キリちゃんもこの絵をみたときに」
キリ「う……。」
セイコ「そうなの?」
キリ「……うん。」
山田「あいつの絵は訴えるものがあるよなぁ。」
アタシとキリさんは同時に頷いた。
山田「キョーコの絵も見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに幸せな雰囲気だし。」
キリ「ホントだよね。似てなかったかったのに仲良かったからね。」
セイコ「キリさん、キョーコさんの事知ってるの?」
キリ「うん、まだ高校の時にね、アタシらが二年の時にキョーコちゃんが新入生でね。可愛かったんだから、」
山田「ファンクラブができるくらいにな。」
キリ「普通あんなにかわいかったら性格がドブスなのに、あのコは天然でかわいいから……も~、だきしめたくなっちゃうのよ!」
セイコ「へー……。」
山田「すごかったよなぁ、毎日お出迎え付きでさ。」
キリ「キョーコちゃんは嫌がってたけどね。」
山田「まぁ、しつこかったからなぁ。トイレの前まで張り込まれちゃあな。」
キリ「ま、すぐにそういうヤツラは大人しくなったけどね。」
セイコ「え?」
山田「『カノウの撲滅運動』だよ、簡単に言えばキョーコの嫌がることをしたヤツラを滅殺していった『死の七日間』があったんだ。」
キリ「怖かったねぇ……」
山田「怖かったねぇ…あいつはかなりのシスコンだったからなぁ、すべての優先順位がキョーコからはじまっていたしな。」
キリ「あれは少し異常だったよね。」
山田「異常だったねぇ…ま、しかたないっしょ、あいつら血が繋がってなかったらしいし……」
キリ「……。」
セイコ「……え。」
山田「ほら、あの絵からわかるけど似てないだろ?カノウの親父さんがキョーコを幼いときに引き取ったって言ってた。」
キリ「だから余計に可愛かったんだろうね。」
山田「……あの頃知ってたのは本人達だけだった。」
キリ「辛かったのかなぁ……。」
山田「二人だけだからね……。」
セイコ「……あ……あの、妹さんは……キョーコさんはどうして亡くなったの?」
山田「……さぁね、アイツからはそのへんは何も聞いてないから……さすがに聞けないよな。」
キリ「でもキョーコちゃんが亡くなってからだよね、アイツがあんなになったのは。」
セイコ(……あんな?)
山田「ああ、昔はもっと覇気があったもんな。」
セイコ「む、昔はどんなだったの?」
キリ「ん~……快活で熱意に溢れていて……かなりステキだったわよ。」
セイコ(今とは正反対だ。)
山田「むしろ熱血すぎて恐れられていたけどね、」
キリ「スジの通らない人がいたら、先生だろうが不良だろうが何がなんでもスジを通させていたわね。」
山田「不良よりこわかったもんな。」
キリ「髪が赤かったしね。」
セイコ(想像できない……。)
キリ「それがいきなり『俺、絵をかかなければならない』って、びっくりしたもんよ。」
山田「キョーコがなし得なかった夢を果たさなければ、ってな。」
セイコ(…………)
キリ「守れなかった責任を負っているのかもね。」
山田「……だろうな。」
キリ「ほんっとに!アイツは馬鹿なんだから!」
キリさんはアタシに瓶のコーラを山田先生には熱々のコーヒーをだした。
もちろん角砂糖が山のように入っている入れ物も一緒に。
セイコ「なんでカノウタダミチはみんなを頼らないの?」
山田「頼れないんだよ、頼りかたがわからないんだ」
コーヒーがトロトロになっていく。
キリ「バカだよね、きっと今まで強く生きたいと願ってたから弱みを見せられないのよ。」
セイコ「そんなもん……かな?」
山田「…………」
キリ「……」
セイコ「………………カノウタダミチってさ、彼女いないのかな?」
山田「唐突にどうした?」
セイコ「や、だって。そのキョーコさんがそうなったときになんで支えてあげなかったのかなって。」
キリ「……」
山田「だってさ。」
セイコ「……???」
キリ「…………そうよね、なんであの時、支えてあげれなかったのかな。…………」
セイコ「え?」
キリ「きっとキョーコに嫉妬してたし、急に変わってしまったアイツが…………その事実が、怖かったのかもしれない……ううん、怖かったんだわ。」
山田「あの時は誰も何もしてやれなかったからな。」
セイコ「キリさん付き合ってたの!?」
キリさんは少し照れて頭をかいた。
キリ「はは、そうなの。」
山田「あの時のカノウを制御できてたのはキリちゃんとキョーコだけだったもんな。」
懐かしそうに目を細める仕草が羨ましく感じた。
キリ「でもアイツがキョーコちゃんのことばかり言うから嫉妬してたのよ。」
セイコ「……それで別れちゃったの?」
キリさんは首を振った。
キリ「それはない、たしかにかなり嫉妬はしたけどね。それだけで別れはしないよ。ただ……」
セイコ「ただ?」
キリ「……ううん…………いろんな要因が絡んでそうなったの。」
セイコ「…………。」
目を細めて見つめる先にある天使の絵が、ひどく柔らかく感じた。
セイコ「…………実は……アタシ、さっきあのキョーコさんの絵の前でキョーコさんを見たんです。」
山田「は?」
山田先生とキリさんは目を見合わせた。
キリ「光に反射してそうみえたとか?」
セイコ「そうかもしれないって自分でも思いました、けど……声も聞いたんです。」
山田「声?」
セイコ「『自分に正直に生きるのが正しいとも限らない』とか『自分みたいにならないで』って……」
山田「……」
キリ「……」
セイコ「…………たぶん聞き間違いだと思いますけど……。」
モダンな店内に沈黙が腰を下ろした。
日の光りが沈んで閉まったのか中からは外を伺うこともできない。
山田「キョーコは……まだカノウのそばから離れたくなかったのだろうな……。」
キリ「あの若さだもん。」
セイコ「……え?あ、アタシの見間違いもしれないのに?」
山田「……芸術家や音楽家、それらに限らず、自らを表現する人達は見えるって聞いたことある。」
セイコ「え?」
山田「なんでも第六感が働くからなんだそうだ。」
キリ「……」
セイコ「でもアタシは芸術家になってもいないのに?」
キリ「でもなろうとはしてるでしょ?」
セイコ「……ちょっとは……。」
山田「だからかもな。」
キリ「……何かを伝えたかったのかもね。」
絵をじっと見つめているキリさんはその『何か』を推測しようとしていた。
キリ「あいつにはキョーコちゃんが見えたのかな?」
山田「いや、見えないだろうな、というか自分で見ないようにしているんだろうな。」
セイコ「なんで……」
山田「あいつからしたらキョーコを失った原因は、守れなかった責任は自分だと、そう思っているに違いないしな。そうゆう気持ちが『見る』ことを拒絶しているんだろうな。」
セイコ「だから『助けてあげて』っていってたのかな……」
キリ「ん?」
セイコ「キョーコさんから言われたなかにそう言ってたのがあって……『苦しんでいるから』って。」
山田「……血が繋がってないとはいえ妹が死んで、家族からは見放されてしまったんだ…………苦しむのは当然さ……」
キリ「それもそうか…………でもその事以外にアイツがなにか隠していないかって思うの……アイツはそうゆうやつだから」
キリさんはカウンターに頬杖をついた。
山田「どうだろうな……隠したい事の一つや二つは誰にでもあるものさ。…………そうだろ?」
ドロっドロのお湯砂糖をちびりと口に含んで呟いた。
キリ「だからって!……」
感情のまま立ち上がったキリさんを制すように山田先生は繋げた。
山田「その隠し事が重大であったなら、大切な人に言う自信はないな。」
キリ「どうゆうこと?」
山田「わからん。」
セイコ(……そんなものなのかな……。少なくてもアタシは言ってほしいよ……。)
アタシはシンちゃんに隠し事されたら悲しいもん。
セイコ(……)
キリ「どおしたの?」
セイコ「……へ?」
キリ「悲しい顔…してるよ」
セイコ「…………悲しいなって、隠し事されたらアタシは……悲しいなって。」
山田「……」
キリ「…………」
手の中にあるコップを強く握りしめてアタシは思った。
セイコ「好きな人に隠し事されて平気な人はいないんじゃないかな、もちろん隠し事ない人なんていないのもわかってるけど。それでも……」
山田「……」
セイコ「それでも言って欲しい。」
キリ「……うん、だよね……」
山田「………………なら本人にきかないと、しゃべらんだろ。山田「隠し事している人たちは2種類に分類されるんだ、自ら隠すやつとやむなく隠さなければならなかったやつ。前者はきいても話してくれないが、後者は話すタイミングを失っただけで、きけば話してくれるんだ。……それにアイツは後者。」
キリ「けど、きいてもいいのかな……。」
山田「お前らしくないな、いや、お前らしいのか……カノウのことになると臆病になるのは昔っからだったな。」
セイコ「……」
山田「アイツは、悩みを、心に蓄積したものを取り除きたくて、足掻いているんだと思うんだ。…………けど他人に頼ることを知らないから、……知っていても怖いから話せないんだと思う。」
キリ「……」
セイコ「……怖いから……。でもそれじゃあ……ただ苦しいだけだよ。」
そう、苦しいだけ……
同じだ……アタシと……。
山田先生やキリさんは支えなかったわけじゃない。
支えていたんだ……なのに本人がそれを理解していなかったんだ……。
セイコ「…………アタシ、行かなきゃ……」
キリ「……どこへ!?」
セイコ「アトリエ!!」
言い終わる前に店を飛び出していた。
山田「やっぱり血は争えないよな……。」
キリ「…………」
日が沈んだこの街の風は冷たいのに、背中を押すように柔らかかった。
はぁ……はぁ……
走ってみるとアトリエへの道のりは果てしなく遠いのを認識した。
辺りは暗く、月の光だけが道を照らしてくれている。
まるでアトリエへの道のりを教えてくれているかのようだ。

―蒼白の想いー

蒼と白にぼかされた世界はラッセンの絵を貼付けたように繊細で、今にも崩れそうなほど完璧に見えた。
セイコ「……はぁ、はぁ。」
もともと運動があんまり好きじゃないアタシは、息切れに対処できないでいる。
海の匂い、波の音が静かに響いている。
月の光があたるように計算されたようなアトリエはより幻想的な雰囲気をかもしていた。
昼は昼で、夜は夜でまったく違う雰囲気のアトリエにどこかこの世ではないイメージが浮かぶ。
背筋に寒気を感じた。
アトリエ自体が触れてはいけない物みたいに見える。
綺麗過ぎるものは時に恐ろしさを感じてしまう。
アトリエのドアノブをひねるとドアが奥へと誘う口を開けた。
電気が消えていたが中は月の光を迎え入れて、薄白く、微かに光をともしていた。
作品を飾った廊下を歩きながら声をだす。
セイコ「あの……。」
中に声が吸い込まれて行く。
セイコ(寝ちゃったのかな……。)
作品に優しい柔らかなライトがあてられている。
夜間の作品展示もマネージャーさんがおこないたい言い、無断で付けたライトだ。
その明かりで廊下の壁にぶつからずにすんでいる。
数点、数十点の作品に見守られながらキョーコさんの絵が展示してある広間を前にした。
窓が大きく、より多くの光を取り入れるつくりのようだ。
セイコ(…………あれ?……キョーコさんの絵がない。)
そこに立ちすくむように置かれていた美しい絵が、姿を隠していた。
セイコ「なんで?」
思わず駆け寄り辺りをキョロキョロと探したが見当たらない。
セイコ(まさか、盗まれた!?)
と思ったがこの絵だけを盗むなんてありえない。
アタシが泥棒なら全部盗む。
今通ってきた廊下の作品はなにひとつとして無くなっているものはなかった。
セイコ(泥棒じゃない。)
だとするとカノウタダミチがしまったのかな……。
カノウタダミチがしまったとすれば、絵は彼の部屋にあるはずだ。
広間の明かりをつけて階段を上る。
セイコ(……一応確かめないとね、それに……)
カノウタダミチがいればキリさんや山田先生のことも伝えられる。
もしかしたらアタシのときみたいに何か打開できるかもしれない。
キリさんたちが言う『昔のカノウタダミチ』に戻れるかもしれない……。
セイコ(……それに……)
アタシはカノウタダミチにきかなきゃならないことがある。
ギシ……
……ギシ……
一段踏み締めるごとにカノウタダミチの部屋に近づく。
少し怖い気もする。
もしきいても何も教えてくれなかったらどうしよう……。
ドアの前で立ち止まった。
セイコ(アタシなんかに教えてくれるわけない………………アタシはカノウタダミチからしたら赤の他人だし。たまたま山田先生に口添えしてもらったアルバイト。絵の描きかたのことも何にも教えてもらってないし……。)
そんな人に隠し事を打ち明けるだろうか……。
『芸術家は自分に正直にならないといけない。』
頭に言葉が浮かんだ。
セイコ(…………正直に……)
アタシにとって『自分に正直になる』ってことは、今現在、よくわからない。
けど……。
セイコ(……立ち止まってちゃダメだ!)
ノブをひねり、ドアを押し開けた。
カノウ「……神谷セイコ。」
少し驚いたような顔にも見えたが、カノウタダミチはアタシが言葉を発する前に続けた。
カノウ「一人にしておいてくれと言ったはずだが……?」
椅子に腰をかけたままカノウタダミチはこちらをむく。
部屋に二、三歩進んで告げた。
セイコ「…えっと…アタシは、『わかった』なんて言ってない。」
カノウ「では今一度言おう、一人にしてはくれないだろうか?」
カノウタダミチの目から光が消えている。
冷たい、人を信用していない目。
夏の前までのアタシと同じ目。
セイコ(アタシはキリさんに話しを聞いてもらったから……。)
この人は未だに誰にも話せずにいるんだ。
セイコ「……ヤダ。アタシは貴方にききたいことがある」
カノウタダミチは少し意外そうな顔をした。
カノウ「聞きたい事?……一体なんだ?」
セイコ「…………あなたは……あなたはなんのために絵を描いているのか……まずは、それが聞きたい。」
カノウ「…………」
セイコ「山田先生とキリさんから聞きました、あなたが絵を描き始めたのは、キョーコさんが亡くなってからだって……。もし、キョーコさんが原因だったら、キリさんに言った『描かなきゃならない』っていうのが本心なら…………あなたがアタシに言った台詞が間違っていることになる。あなたはなんのために絵を描いているの?」
カノウ「……そうか、きいたか……ま、黙っていないと思っていたけどな。………………たしかに俺は、キョーコの代わりに、あいつが成せなかった夢を果たすために描いている。」
カノウタダミチは天を仰ぐようなそぶりをした。
カノウ「俺は描かなければならない、あいつの無念のために、アイツを、キョーコを護れなかった罪を償うためにも。それが『俺が絵を描きつづける理由』だ。だが言ったことに間違いはないと言い切れる。間違っているのは俺の生き方だ。」
セイコ「…………」
カノウ「『描かなければいけない』なんてのは間違っている、だが俺はもう生き方を変えるつもりもない。だが、君にはまだ選択の余地と時間がある。」
セイコ「……あなたにだってまだ時間がある。」
カノウ「そう……だな。」
いつからアタシたちは将来を選択するのだろう。
選択肢を増やし、絞り、選び。
それが間違いじゃないと思い込む。
選ぶ基準はいかに早く決められて、いかに他人よりも稼ぐか、いかに今の時代に沿うか。
決めた将来は変更は許されないのかな。
間違っているのかな。
間違っているとしたら、何が正しいのかな。
間違っている基準は何なの。
わからない。
カノウ「たしかにまだ俺にも時間はあるな……。」
セイコ「だから、今からでもキリさんや山田先生を頼ってみてもいいと思う……きっと、二人ともそれを願ってるし……。」
カノウ「……ああ…………そうだな。」セイコ「あと……アタシ……昼間、キョーコさんの幻を見た……んです。…………たぶん。」
カノウ「そうか。」
セイコ「驚かないんですか?」
カノウ「ああ。俺も昔観てたんだ。あいつが死んでから二年くらいは。」
カノウタダミチは机の引き出しからキョーコさんの絵を取り出した。
カノウ「だがしばらくして画家として名声を得るようになり、あいつの夢を達成するために無我夢中に描き続けているうちに、いつしか観なくなっていった。」
カノウ「あいつは怨んでいるだろうな、生きていたときに守りきれず、死んでも俺ばかりが名声を得、果てには……」
カノウタダミチはキョーコさんの絵をアタシに手渡した。
カノウ「明日から三日ほど君は来なくていい、少し作品に集中したい気分だ。」
セイコ「あ、え?」
カノウ「その絵は君が持っていてくれ、それがあると集中出来ないのでね。」
セイコ「でも。」
カノウ「今日はもう寝たまえ。」
カノウタダミチはアタシを部屋のそとに押し出して扉をしめた。
セイコ(来なくていいって言われても……)
家に帰れってことか、いくらなんでも強引でしょ。
アタシは渡されたキョーコさんの絵を少しにぎりしめて自分の部屋に戻った。
どうしよ。その日は中々寝付けなかった。
まさかアルバイトを始めていきなり出勤させてもらえなくなるなんて……。
荷物をまとめて鞄に詰めた。そして静かにアトリエを後にした。
実家への帰路につくと考えていた。
まだ何も決まっていないのに実家に戻るはめになるとは……。
お母さんに何と言われることやら……。
トボトボと駅から歩く。
近いようで遠いような距離。
アタシの中ではキチンと決めてから戻ると決めていた道。
なんか変な感じだ。
セイコ(なんか家出して出戻りした気分……)
道端の石ころを蹴りながら歩いてみる。
…………カツン。
カツンっ、
…………ガツっ。
意図したほうに転がらないのが楽しさなのかな……。
???「何やってんだ?」
ハッとして前をむく。
セイコ「シンちゃん。」
少し日焼けしたシンちゃんがそこに立っていた。
シン「どっかいってたのか?」
セイコ「………うん…バイトそっちは…………海……行ったんだ。」
シンちゃんは左腕をかいた。
シン「……ん。」
セイコ「楽しかった?」
シン「まぁまぁ。かな。……バイトって何やってんの?」
セイコ「……住み込みで画家のお手伝い。」
シン「…………画家?」
セイコ「うん。」
シン「なんて人?」
セイコ「カノウタダミチ」
シン「……若いの?」
セイコ「うん。」
シンちゃんが歩き始めた、アタシも後を追うように歩き始める。
シン「なんでアルバイト?」
セイコ「山田先生が進路のためにって紹介してくれて。」
シン「進路……決めたんだ?」
セイコ「うん。…一応…美術系に。」
シン「……そか。自分で決めたの?」
セイコ「……うん。シンちゃんは?自分で決めた?」
シン「うんにゃ、相変わらず決められた将来を歩くよ。」
シンちゃんはアタシに微笑みかけた。
セイコ「そうなんだ……。」
アタシはその微笑みになんの反応もできなかった。
シン「きっかけは?………道を決めた…ポイントは?」
セイコ「バイトさきの師匠が、真剣にダメだししてくれたから……かな。」
シン「なんだそれ。」
セイコ「ね、なんだろうね。」
頑張って笑ってみせた。
たしかに他の人からしたら変だろうね。
アタシも人から聞いたらアホだなって思うもん。
ダメだしされて『これに決めた!』なんて普通は思えないもんね。
てゆーかアタシはそう思ってたのか……。
シン「……どんな感じ?」
セイコ「へ?」
シン「将来を自分で決めて、それにむかうときってどんな感じなん?」
セイコ「……ん~……きついよ、親とも喧嘩しちゃったし……、でも、なんか真っ暗だった部屋に明かりをつけたみたいに、見通しがよくなる。それに、」
シン「?」
セイコ「なんか自分で決めたからかな、なんでもやってみたくなる。」
少なくともあの気持ちのときよりは……。
シン「…………そっか。」
セイコ「シンちゃんはやりたいことが本当にないの?」
それを聞いてシンちゃんは立ち止まった。
シン「……ある。いや、『あった』だね。」
セイコ「ならなんでやらないの?」
シン「できないんだよ、うちん家はエリートしかいられないからさ。兄貴はすでに官僚入りが決まっているし、親父も官僚だし、じいちゃんはW大の教授だった。そんな家庭にいるやつが『映画俳優になりたい』なんて言えないっしょ。」
シンちゃんはまた歩き始めた。
せっかくの夏なのに、シンちゃんの心は冷えて凝り固まっていた。
セイコ「アタシは、良いと思うな。俳優。少し天然だけど、顔はいいし。天然だけど人に嫌われないし、いいと思うな。」
シンちゃんは構わず歩き続ける。
セイコ「…………ねぇ、なんで闘わないの?自分と周りと、なんで夢を捨てちゃうの?」
シン「無駄だからさ。」
セイコ「アタシは闘って、なんとか権利は勝ちとったよ。」
シン「うちとセイコの家じゃ違うんだよ。」
セイコ「ひどい、シンちゃんがそんなに意気地無しとは思わなかった。」
シン「何がわかるんだよ、」
嘲笑うようにシンちゃんは言った。
セイコ「わからないから話してるんでしょ!シンちゃんだってアタシの何がわかるのよ!」シン「俺だって、闘ったよ!けどダメなんだよ!闘ったくらいじゃどうにもならないことだってあるんだよ。」
知ってるよ、アタシだってそう感じてた。
けど闘い続けなきゃ何も変わらない。
辛いからって諦めちゃダメなんだ。
セイコ「自分の人生だもの、闘い続けなきゃ。」
シン「セイコ、変わったな。」
セイコ「闘い続けたから、変わりたいって思ってたから。」
シン「……」
セイコ「シンちゃんも闘い続けようよ、辛いけど頑張ろうよ。」
シン「考えてみるよ……。」
シンちゃんの言葉が悲しくアタシに響いた。
シンちゃんとは家の前でわかれ、アタシはドアをあけた。
セイコ「た、ただいま~……」
中を伺いながら入る家はなんだか売れない店を覗いているみたい。
靴をみるにお母さん以外みんないるようだ。
荷物を玄関に下ろした。……カチャ
「ただいま~」
さりげなくなにげなく、それとなくリビングの扉をあけて入る。
ほんの少しだけいなかっただけなのに何年も家出していた心境に少し驚いた。
そう感じることが出来たことに1番驚いた。
父「おや、どうした?もう帰宅か?」
セイコ「げ、お父さん。」
思わず声にだしてしまった。
父「『げ』、とはなんだ。」
セイコ「ごめん、なさい。」
お父さんはリビング奥のキッチンから麦茶を取り出して戻ってきた。
片手には二つのグラス。
それをリビングのテーブルに置くとアタシに椅子に座るように促した。
お父さんは麦茶をついでくれた。
おそらく昨日作った麦茶だろう、ついですぐにグラスの外側に水滴が浮いたことでキンキンに冷えていることがわかる。
お父さんと向かい合うように座ったアタシは見上げるようにお父さんをみた。
お父さんは麦茶をゆっくりと飲み干した。
父「で、どうして帰ってきたんだ?」
セイコ「えっと……」
父「夢は諦めたのか?」
アタシは昨日の夜のことをお父さんに話した、むろんキョーコさんのことも……。
父「……キョーコが…………」
セイコ「お父さん……知ってるの?」
父「……」
セイコ「お父さん!?」
お父さんは麦茶を継ぎ足して一気に飲み干した。
父「………………知らん」
セイコ「え?でも。」
父「知らん!!」
お父さんは麦茶をそのままに席をたった。
セイコ「なんなのよ。」
セイコ(そんなにむきにならなくてもいいのに。なんか知ってるふうだったな……。)
少ししてからアタシはもう一杯飲んでから麦茶を冷蔵庫に、コップを二つ流しにおいて水を浸した。
少し待ってもお父さんは下りて来そうにないから部屋に足を進めた。
ああ、アタシの部屋。
愛おしいアタシの部屋。
アタシがアタシのためにコーディネートしたアタシ専用の空間。
三人寝れるくらいの広さだけど、壁に大好きな俳優のポスターを貼って、ディズニーのドナルドの人形が散乱した部屋。
机にはシンちゃんとの写真が立て掛けてある。
荷物をドアの陰に置いてヨロヨロとベットに倒れ込んだ。
少し懐かしい匂いを鼻一杯に吸い込む。
セイコ(帰ってきたんだ……)
中学生の時の修学旅行から帰ってきた時もこんな気持ちになっていたなぁ……。
セイコ(あの時は楽しかったなぁ)
将来も何も気にせずに楽しく過ごせていた黄金時代。
その時の「今」が「すべて」に思えた。
それに。
セイコ(今みたいに複雑にモノを捕らえたりしてなかった。)
ベッドで身をよじって天をあおいだ。
白い生地に黒い汚れ。
アタシが産まれる前からあったそれはもうアタシの一部でもあった。
その黒い汚れはアタシが産まれる前の時代からこの部屋を見ていた。
そう思うと変な感じがした。
きっとお父さんが産まれる前から。
セイコ(昔使っていた人は一体どんな人なんだろう……。)
ふとさっきのお父さんの顔が浮かんだ。
セイコ(なんでお父さんはあんなにどなったんだろう……)
お父さんがキョーコさんを知っているのは間違いないとしても、あんなに怒鳴る理由が見当たらない。
セイコ(キョーコさんとなにかあったのかな)
そもそも二人が『知り合っていた』ことが疑わしい。
セイコ(お父さんが一方的に知っていただけかも。なんだろう、こんな気持ち初めてだ。)
カノウタダミチに逢うまではこんなに意味ないこと考えなかったのに……。
『お前かわったな。』
シンちゃんの言葉が脳裏に走った。
セイコ(アタシ変わったな。)
少し……ひっかかる。
『変わった。』
それは事実で、否定もしない。
じゃあ今までのアタシじゃないアタシは『アタシ』なのだろうか……。
セイコ「うー……わかんない。」
今まであったアタシを成すものが宙に浮いた不安定な感じ。
いや。
『いままで何もなかった処に突然、しかも確実に何かが建った』あの奇妙な違和感。
それが今アタシの中にある。
この感じは何だろう。
得体の知れないモノを抱え込んじゃった。
セイコ(これならたしかにシンちゃんの言ってた『レールの上の人生』のほうが楽だな……)
セイコ「ぷっくく!」
可笑しくなった。
あんなに嫌だった『レールの上の人生』を楽だな、なんて。
セイコ(アタシはどっちを望んでいるんだか。これじゃあシンちゃんにあんなこと言う資格ないな……闘わなくちゃ意味がない。)
アタシの人生の闘いはまだ火蓋を切った程度に過ぎない。
絵を描くことを『将来の夢』にしようなんて考えていなかった。
そもそも『夢は叶わないから夢なんだ』とさえ考えていた。
芸術の道は、いわば『非凡な道』。
今の世の中からしたら大学に入って、いい会社にはいって骨を埋める。
私生活においては結婚して子供を産み、そだてる。
それが『人生においてのサクセスストーリー』
けどそれ以外の選択肢は本当に『サクセスストーリー』には当て嵌まらないのだろうか?
なら音楽で成功した人は?
芸能人は?
北野タケシは?岡本太郎は?
あの人達は人生において成功しているとは言えないのかな……。
たしか誰かが言っていたけど『生きることを真剣に考えたら平凡じゃいられない』
平凡な人生ってなんだ?
非凡であることってなんだ?
何が正しくて何が間違ってるかなんて一体誰が決めるんだ?
そもそも人生に正しいなんて決めていいはずがない。
シンちゃんの選んだ道もシンちゃんの人生で、何を選ぼうとも間違ってもいないし、口を出すなんて論外なんだ。
セイコ(謝ろう……)
携帯電話がいつもよりも重く感じた。


―四肢往々に猫はほざくー

午後2時。
駅前マックにて。
アタシはシンちゃんと待ち合わせた。
謝るなら直接謝ろうと感じたからだ。
昼を過ぎているのに人がかなりいる。
これもジャンクフード店ならではなのかな。
アタシはチーズバーガーセットを召し上がる。
シンちゃんが来たのは、アタシがバーガーを食べ終わってポテトに手を付けた時だった。
シン「悪い、遅れて。」
シンちゃんは小走りに駆け寄ってきた。
シン「あ、ちょっと、俺もバーガー買ってくる」
セイコ「コーラMもよろしくね」
シン「……ハイハイ」
戻ってきたシンちゃんはがっつり食べるらしくセットにバーガーが一つ追加されていた。
席に着くなりバーガーの一つにかじりついた。
アタシはコーラを受け取りポテト攻略に再び着手した。
少ししっとりとしたポテトは塩分が強調されて、手が止まることがない。
シン「で?話って?」
セイコ「あ、そうだったそうだった。」
アタシは止まらない手を意識的に止めて答えた。
セイコ「この間はごめんね。何も知らないのに勝手なこと言って。」
シン「この間?」
セイコ「……夢の話」
シン「ああそれ……。」
セイコ「『ああそれ』ってあんなに怒ってたから、謝らなきゃって……。」
シン「いいよ、ああゆう話は慣れてるし。」
セイコ「……なんだ、心配して損した。」
シン「損って。」
セイコ「あ~あ、マックでお金まで使って謝ったのに……。」
シン「ひでぇな」
セイコ「そっか、慣れてるのか。」
シン「まぁね。」
セイコ「……ふ~ん。」
シン「なんだよ。」
セイコ「慣れてるならもう一回言ってあげる。闘ってよ。」
シン「なんで?」
セイコ「ん~……シンちゃんには夢を叶える可能性があるから、やりたいと思えたのなら可能性はあるよ。」
シン「可能性はあっても100%じゃない、」
セイコ「だからだよ、動かなきゃ100%にはならない。」
シン「でも100%になる保証もない。」
セイコ「たしかにそうだけど……」
シン「好きなことだけで生きていけるほどこの世の中は純粋に作られてないんだよ。」
セイコ「……」
シン「『いかに効率よく少ない労力で多く利益を得るか』これが世界の真理なんだよ。」
お店に漂うタバコとお肉のニオイが一層きつく感じる。
人は便利を求め、近代化を突き詰めた結果。
豊かになるに連れ、いかに金を得るか。
事を成すにあたり、結果を。
どれくらい過程に重点を置いても比率は一つの結果に優るわけもなく。
その比率も一枚のコインの前にはなんの役にも立たない。
かつて世の中が貧しく、不便な頃『夢』は『力』で『人を成す絶対的なモノ』だった。
いまじゃ噛み終わったガムを包むくらいしか役目はない。
今や『力』や『人を成す絶対的なモノ』は『金』が占める。
シン「だから俺は金を得るためだけにいきていく。」
セイコ「…………」
何のために人は生きるんだろう。
やりたいことができない人生をおくらせるなら、そんなことを考える脳みそを無くせばいいのに。
将来の夢なんてきかなきゃいいのに。
大人の人が『君達は将来いかに楽をして金を得るか、金を1番多く得た人が1番偉いんだ』って言ってくれればいいんだ。
『金にならない事はすべてクズだ、夢なんてみるな』って産まれたときに言ってくれればこんなに苦しまなくてすんだのに。
シンちゃんは食べ終わったゴミを丸めて一つにまとめた。
シン「もしかしてこんなこと言わせるために呼んだ?」
セイコ「……ホントは謝るだけのつもりだったんだけど、我慢できなかった。」
シン「ふ~ん。」
セイコ「……」
アタシは自分のポテトをただ見つめるしかできなかった。
なんだかとても申し訳ない気持ちに心が縛られていたからだ。
シン「でもさ、なんか嬉しいよ」
シンちゃんは残ってたアタシのポテトをつまんだ。
セイコ「……え?」
シン「たいていの人は言っても他人事みたいに真剣に話聞いてくんないもん。だから、ありがと。かなり嬉しい。」
この人はなんて飾り気もなくさらっと簡単にすごいことを言うんだろう。
なんて無邪気に笑えるんだろう。
苦しいはずなのに、悲しいはずなのに……
セイコ(天然だから苦しくないのかな?)
セイコ「『ありがと』なんて言わないで、」
シン「ん?」
セイコ「ありがと、なんて言われると辛くなるからやめて。」
シン「なんで?」
セイコ「…………もっと好きになっちゃうから……。」
シン「???」
セイコ「いや、なんでもない。」
シン「???」
そう『なんでもない』。
アタシがただ勘違いするだけで、『なんでもない』んだ。
シンちゃんがやさしいのは相手がアタシだからじゃない。
誰が相手でも優しい。
アタシがただその優しさに当てられて、茹だってしまうだけなんだ。
ただそれだけなんだ。
セイコ「シンちゃん。」
シン「ん?」
セイコ「もう二人で逢わないでおこう。」
シン「なんで?」
セイコ「なんでって…………シンちゃんの彼女さんに疑われちゃうとヤダし。」
シン「……」
セイコ「ま、そういいながら今日呼び出したのはアタシだけど。」
アタシは矛盾している。
アタシはシンちゃんの彼女になりたい。
彼女さんに『アタシなほうがシンちゃんに相応しい』と見せ付けたい。
なのに彼女さんに悪く思われるのは嫌だ。
『逢わないでおこう。』と言うのも、嫌だ。
逢いたくて仕方がない。
でもきっとシンちゃんと彼女さんがいるのを想像したくないから。
だから言ったんだ。アタシは矛盾している。
自分に素直になんてなれない。
アタシは傷つけること、自分が傷つくことがいやなんだ。
逃げようとしているんだ。
ホントは自分が傷つくことだけが嫌なんだ。
アタシは卑怯で臆病で度がしがたいくらいに矛盾している。
セイコ「……今日はこれから平気?」
シン「なぜ?」
セイコ「ああ言ったけど今日はまだいいから、少し話そ?」
ほらアタシは矛盾している。
きっと心の中で彼女さんに遭遇するのを待っている。
アタシはそうゆうやつだ。
『嫌なヤツ』
暗い暗い心の先で静かに、でもはっきりとアタシの声が聞こえた。
ズキン。
……
心にかかったフィルターの中から痛みのない傷が広がるのを感じる。
イバラの枝のようにゆっくりと周りを引き裂きながら成長してゆく。
そしてそれは更なる殻を作り始めていた。
薄く甘く、それでいて黒い殻。
触れば崩れるくらいの砂のような殻。
外にでると、日が1番高いところを過ぎて、その時に放出した熱意を届けてくれていた。
風がそよぐものの、長続きはしないで太陽からの熱意を妨げようとはしなかった。
セイコ(暑い……。)
ふと、あの日の犬くんのことを思い出した。
ふてぶてしい態度でこっちを見ていた犬くん、そして犬くんを連れてるカノウタダミチ。
海から流れてくる雲の端を見上げながら思う。
セイコ(なんで今カノウタダミチを思い出したんだろう……)
アタシはシンちゃんと一緒にいるのに。
『もう逢わない』って決めたからかな。
21…… …… 34…
シンちゃんの背中を追いながら無意識に歩数を数え、考える。
シンちゃんの背中にカノウタダミチがダブって見える。
セイコ(似てるよな……なんだろ、雰囲気かな?)
体つきも違うのになんでダブるんだろう。
………………てゆーか。
セイコ(せっかくシンちゃんといるのに何カノウタダミチのことを考えてるんだ!さっきからアタシはなんなんだ……。)
カノウタダミチにあってからのアタシは今までのアタシとは違う、違い過ぎでアタシ自身が自分を見失うくらいに違う。
今までのアタシだったら自分を確実に保てていたのに。
………………
いや、アタシはアタシを保つどころか。
『アタシ』の存在自身を諦めていたじゃないか。
アタシがアタシを見失うのはアタシができてきているからなのかな。
セイコ(今までこんなこと考えなかったのになぁ……)
ふとシンちゃんを見ながら思った。
セイコ(アタシはシンちゃんのことが好きなんだよね……?)
なんだろう、好きなのに……カノウタダミチのことが頭をよぎった。
セイコ「シンちゃん!」
シン「ん?」
昔と変わらないその顔がこちらを向いた。
セイコ「あの、あのね。アタシ…………シンちゃんのことが好き。」
アタシは勝手にでた言葉に驚いた。
たしかにいつも用意はしていた言葉だけど。
タイミングなんてあったもんじゃない……。
『ふと出た』にしてはずいぶんとパンチ力がある。
もう逢わないと決めたから言ったのか。
なんなんだろう。
シン「は?」
セイコ「あ、えと…………なんでもない!」
できればなかったことにしたい。
シン「なんでもないて言われても……。」
セイコ「……」
死んでしまいたい……。
………………。
『死んでしまいたい?』
セイコ(あれ?……なんでそんなことを考えたんだろう。)
『気がつかないの?』
セイコ(え?)
『心が乱れているのね。』
黒い深いところのアタシが言う。
『ホントは気がついてるんでしょ?』
『自分が今、誰に惹かれているか……。』
セイコ(え?)
『そう、しらばっくれるの』
『今はそれでいいわ、けど後悔するわよ……』
アタシはそう言ってまた深い闇に潜っていった。
シン「………うれしいよ…」
セイコ「えっ!?」
シン「……でも俺には今、彼女がいるから………」
…………
なんだろうなぁ………
欲しいものが手に入らないことになれているからなのかな。
こうなる予感がしていた気がする。
この日、アタシの好きなプロレスラーが亡くなった。
試合中の事故だった。
アタシはそのニュースを見つめるしか気力がなかったことしか覚えてなかった。
セイコ「うう~、うあーー」
アタシは手足どころか携帯も投げ出して、ベッドに沈んでいた。
あの日、アタシの独断した勝手な告白はもろくも崩れ。
『フられた』
その事実を認識するに至るしかなかった。
悲しいかな、人間気分が落ちているときはなにもする気がなくなる。
もはやあの日から二日目……
絵すら描いていない。
カノウタダミチから連絡もない。
セイコ(このままおばあちゃんになりそう……)
老けて溶けてなくなりたい。
セイコ(なんであのとき言っちゃったんだろ……)
言わなければ傷つくことも無かったのに。
しかも『好きか嫌いか』でフられたわけではない。
『彼女がいるから』フられた。
最悪。
一番あきらめられない、割り切れないフられかただ。
セイコ「はぁ………」
パジャマ姿でだらしなく身をよじる。パジャマがおへその顔をさらけ出させたが気にしない。
セイコ「はぁ。」
なにもしたくないなぁ。
もはやニートそのものだ。
部屋は散乱として携帯ゲームやらマンガが飛び散っている。
夏休みの宿題はやらずに眠らせて、ため込んでいた。
セイコ(なんだかもういいや……)
シンちゃんにフられたショックもかなりすごいけど、さらに自分にあんな黒い部分があったことにもショックがすごかった。
セイコ(アタシは黒いんだ)
悲しくなった。
セイコ「うぅ…」
自らの沈黙と部屋の静閑さに圧力を感じて、逃げるようにMP3のヘッドホンを耳にかぶせた。少しうるさいくらいに音量をあげた。
アタシの好きなグループの曲が切なさをかもして流れてきた。
『僕は君が大好きで君も僕を好きなのに…』
『二人はすれ違ったまま………』
『同じ時を今歩いている』
メロディアスな雰囲気に乗せられた歌詞に少しドキリとした。
その曲はアタシの頭を包み込んでしまった。
目をつぶると暗い世界に突発的にいろいろな映像が飛び出した。
それはまるで映画のダイジェストのようにストーリーを記したようで、次々にあふれるイメージは活発で優美だった。
あふれ出るイメージ。
いつもはそれを形にするべく紙に描き記すのだが。
今日は頭の中に映すのみで、それを楽しんだ。
曲の中では男の人が一人の女の人について歌っている。
曲の雰囲気から察するにきっとその女の人は今は男の人のそばにいないのだろう。
きっと、とてもとても大切ですごく愛おしい人だったに違いない。
………
なんだかカノウタダミチと映像がかぶる……
カノウタダミチもこの歌の人みたいに感じていたのかな……
キョーコさんという掛け替えのないものを失い。
大切なことも忘れ。
悲しいと思うこともなくなるのかな……。
セイコ(なんかやだな……)
……
………………
なんか考え方が暗いな。
アタシはこのグループの曲をやめてパンクをかけ始めた。
耳に残るギターの傷音とドラムの脈音、ベースの語りにかぶせるボーカルの叫び。
心のちっぽけな壁を破壊してくれる音。
セイコ(でもよくよく考えたら、黒いアタシもアタシなわけで…………)
それを否定するんじゃなく、受け入れる。
セイコ(じゃないとアタシがアタシを拒絶してしまうことになる……そうだ、受け入れてしまおう)
ハードなビートにモチベーションを浮上させられたアタシは、受け入れることを認識し、実行に移すことにした。
セイコ(アタシはシンちゃんが好き。フられた今もきっと好き。もしかしたらとも思っちゃう。恋人がいようと関係ない……きっとアタシはカノウタダミチのことも好き……シンちゃんとかぶってしまったってことは……そうだよね?)
爆音とともに叫ばれる英語が耳を破壊せんと、うなりあがった。
『all I want』
セイコ(全てを求める……か……)
歌詞の内容はわからないけど、爆音に乗せたリズムを聴くと。
なんだか、悩んでるのが馬鹿らしくなる。
小さいことで悩むのはやめろと言われているみたいな。
悩むくらいなら全てを手に入れればいいじゃないか……
そう叫ばれてるような……
セイコ(そうだよ、なやんでもなにも変わらないんだから……)
ゴロンと仰向けになって両手を天井に向けた。
セイコ(悩まなくてもいいか……アタシはアタシ、やりたいことをやる。)
これが『自分に正直になること』なのかな。
のばした両手の先を握っては開いて、そこにあるかもしれない運命を手に入れようとしてみた。つかめたのは無情だけの気がした。
セイコ「よっと!」
腰で起きあがって目を閉じた。
音楽の旋律。
魂。
流れてきたイメージ。
やっぱり。
セイコ「もったいないから……描こう。」
ハッと目を見開いて机に飛びついた。
イメージが流れ落ちる前に無地の紙に2Hの鉛筆で殴り描く。
ザツに、激しく。
しかし浮かんだものの切れ端をつなぐように。
紙に描かれている絵をなぞるように。
これがアタシの描き方。
カノウタダミチのように命を削るようには描けないけど。
アタシはこれでいくんだ。
これがアタシなんだ。
何枚も何枚も。
完成しない下書きが床にこぼれ続けた。
気がつけば床には下書きの絨毯ができていた。
アタシはそれを拾い集めてクリアファイルに閉じた。
なんだか満足感と達成感を閉じたようで、うれしくなった。
なんか、いますぐだれかに見せたいような。
そんな感じ。
セイコ(そうだ、キリさんに見せよう……)
アタシは音楽を止めて着替えた。
ハンドバックにクリアファイル、携帯、お財布、を入れて飛び出す。
髪が風に乗ってなびいた。
外はあの犬の日のように暑かったがアタシはかまわず走り始めた。
改札をとおり電車に乗って、ドア側にたつ。
これだといろいろな景色が観れる上に、景色に斜がかかるからいつもと違う景色にも見える。
考えながら乗ればさらにいいアイデアがでてくる。
それをまたメモる。断片的に、雑に。これがいつか形を成してアタシの前に現れてくれる。
駄作か傑作かはべつにして。
揺れる頭で考える。
そして乗っている人を観察する。
足先から毛先まで。
動き方を、作り方を。
セイコ(しまった。音楽持ってくりゃよかった。)
鞄をひっくり返さんばかりの勢いで漁ったけどお目当てはない。
仕方なくメモをしまった。
見慣れた、懐かしい駅前。
アタシは慣れた足取りで歩き始めた。
まるでこの町で産まれた地元の人のように迷うことなく。
大通りから路地に入って、そこから近道。
慣れたもんだと少しうれしくなった。
相変わらず日差しはきついけどそれも楽しめてしまう。
きっとアタシはこの町の一部になれてきているのだ。
お店のドアには「open」とくり抜かれた鉄板がぶら下がっている。
横長のステンレスの基盤をバーナーで熱してくり抜いたように加工がしてある。
左上から右下にかけてはサビが雷のように走っているかのようだ。
それがレトロな店の雰囲気にマッチして何とも言えないアクセントを残している。
セイコ(あれ?こんなの前にはなかったのに……)
これだけ見事なアクセントだ、一度見たなら忘れようがない。
からぁん。
ドアをあけるとベルがもの悲しげに鳴く。
キリ「いらっしゃい。」
キリさんのきれいな顔がこっちを向いた。
ふとカノウタダミチといるシーンを想像してしまった。
それはキリさんがふてぶてしい態度のカノウタダミチを叱っているのをキョーコさんがなだめているシーンで。
叱っているキリさんも、叱られているカノウタダミチも、間にいるキョーコさんも楽しそうで。
まるでいつものことであるかのように、笑いあってる絵だ。
キリ「どうしたの?」
心配したようにキリさんが訪ねた。
セイコ「……ううん、ただキリさんといたときのカノウタダミチは楽しかったんだろうなぁ……て思って。」
キリ「どうしたのいきなり」
さっき浮かんだシーンをキリさんに話すと、少し照れくさそうに笑うキリさんがとても美しかった。
セイコ「キリさんなにかあった?…………なんだかうれしそう。」
コーラをカウンターに置いてキリさんは答えた。
キリ「そう?」
セイコ「??」
なんだかキリさんの印象が前とは違う。
光ってるような。
なんだろ。わからない。
セイコ「あ!そうだ、ドアのアレいつつけたの?前はつけてなかったよね?」
コーラを口に含む。
炭酸が若さを惜しげもなく発揮する。
キリ「あれね……昨日部屋を片づけてたらでてきたの。昔もらったもので、大切に机の奥にしまってたわ」
セイコ「へぇ~!……誰からもらったの?」
少しうつむいてから少女のようにほほえんだキリさんははっきりと答えた。
キリ「カノウキョーコ」
やっぱり。
なんとなくそんな気がしていた。
はっきりとはわからないけど、なんかそんな気が……。
キリ「きっとキョーコが亡くなってからしまったのね。」
セイコ「…………いつ、もらったの?」
キリさんはカウンターに肘をついて口を開く。
キリ「たしか……そう、高校のとき、誕生日にくれたの。不思議よね、あのときはお店をやるなんてこれっぽっちも思ってなかったのに。だからくれたときに違和感を覚えたのを覚えているわ。あの子、「先」が見えていたのかしら……」
悲しそうにキリさんは虚空を見つめた。そこにあるのはかつての思い出と想いと、熱意だけだ。
セイコ「でもすごいよね!高校生であんなの作れるなんて!」
これを聞いたキリさんはまるで自分のことのようにうれしそうに語り出した。
キリ「そうなのよ!すごいでしょ?あの子は高校にあがる前にはすでに何個か作品を出品していたそうよ!」
セイコ「へぇ!」
子供のように語るキリさんにさきほどのような美しさはなく、むしろ子犬のような愛らしさがある。
キリ「あ、そうだわ。…………ありがとうね。」
キリさんはいきなりかしこまって頭を下げた。
セイコ「ちょ、どうしたのキリさん!?」
その驚きにアタシはこう言う以外になかった。
キリさんはカウンターをでてセイコの隣に座った。
そして手を握った。
キリ「じつはね、あなたの姿を初めて見たとき、キョーコを思い出したの…………それで懐かしくなって昨日押入をあさってみたらあれが出てきて、はじめはつけようとは思わなくて、でも今朝つけたくなった。」
キリ「あなたはキョーコと同じ雰囲気がする、だからあいつはあなたをアトリエにいれたのかも……」
キリさんはアタシをじっと見つめている。
アタシは恥ずかしさで目をそらした。
キリ「あ、ごめん。……でも本当に雰囲気が似てる。まっすぐなのに臆病で、思ったらすぐに行動する。まるで鉄砲の弾のようなコ」
セイコ「鉄砲の弾?」
キリ「すごい早さで一つのところに飛んで行っちゃうの。あいつの心のなかとか……ね。」
アタシにはいまいちキリさんが言っていることが理解できなかった。
キリさんがなぜキョーコさんのことを話すときに少し憂いの顔をするのかがわからない。
それはきっとアタシがまだ子供だからなんだろうな……。
セイコ「あ!そうだ…………キリさんこれ見て!」
アタシはキリさんに描いてきた絵を見せた。
むしろこれが当初の理由なんだけど。
キリ「絵のことは詳しくはわからないけど……いいわね、……なんかこうエネルギーを感じるわ。」
キリさんはアタシの絵をまじまじと見つめる。
完成しない下書きは感情や直感よりも深い、奥の奥からわき出た本能のようなものを表していて。
一枚一枚に説明を求められてもすべてに「本能」としか言えないくらい、音の旋律はアタシの深いところをえぐり出した。
キリ「複雑なのに繊細で、危ない感じ。」
つぶやいたキリさんはアタシをみた。
キリ「きっとこれを描いたときこんな複雑なモノが渦巻いていたのね。」
アタシの胸に手を置いて祈るように目をつぶって頭を伏せた。
まるでその時の心境を共有しようとするかのように。
キリ「で、この絵をどうするの?」
セイコ「え?」
キリ「まさか私に見せるためだけに持ってきたわけじゃないでしょ?」
セイコ「あ、えと見せるためだけにもってきたんだけど。」
キリさんはかなり驚いた。
キリ「なんで?私には絵のことはそんなにわからないのに。」
そうなの。
アタシはなぜキリさんに見せたくなったのだろうか、絵のわかる人にではなくて。
なんで。きっとキリさんに見せたら何か起こるような気がしたに違いない。
うん、きっと。
セイコ「なんでだろ。キリさんに見せたらいいような気がしていたの。……なにか、道が開けるような……。」
するとそれを聞いたキリさんは少し笑った後に悲しそうに言った。
キリ「ごめん。私には無理よ……道に導けるのは道を探した人だけ。私はあきらめた人だから導けない。」
セイコ「…………」
キリ「見せるのなら……ね?適切な人物がいるじゃない。」
セイコ「でも……」
キリ「未来は自らが動かなければやってこない。誰かさんが昔言っていた言葉よ。その人に見せてきなさいな。」
キリさんとの話から数日後。
天気は至って晴天。
暑いくらいに晴天で。
……
暑いよぉ……。
うだるような暑さはイヤだけど、これは日本が、世界が動いてる証なわけけで……
とか、意味の分からないことを考えてみたり。
……。
電車でアトリエに向かいながら、電車のなかでイチャイチャしているカップルを眺め(なんでカップルって片方がかなりかっこよかったりすると相方が……)とか考えたりしているうちに駅につく。
降りて改札を抜けて、歩き始めると空はよりいっそうに熱を高めてくれた。
アタシは一種の決意をしていた。
カノウタダミチに見せる絵をカバンに入れている。
アタシは見せてみる。
きっと酷評される。
未完成だし……。
でも見せる。
今できる精一杯のアタシの表現法だし。
空は暑すぎるほどに歓迎してくれた。
キリさんも見せろと言っていた。
大丈夫。
これがアタシの明日につながるんだ。
それは確信に近かった。
正午をすぎていた。
太陽は真上を走り、影をアタシの真下に縛り付けた。
従順な影はアタシを見守るように歩くスピードをあわせてついてくる。
建物の下を通るときはどこかに遊びに行ってしまうけど、陽に当たるとまたついてきた。
アトリエは少し遠い。
影が疲れて背伸びをするほどじゃないけど……。
でも、それでも駅をでてから40分はかかっていた。
日差しの情けはないし、日焼け止めも効果無いくらいにジリジリする。
けど歩く。
時々休みながら歩く。
アトリエに行くときは動きやすいようにショートパンツで、上はTシャツ。
日にさらす肌が多い反面風を受けることもできる。
セイコ(……暑い……)
歩くことやく一時間。
アトリエが見えた。
アトリエが見えたとたんに暑さが和らいだ。
海風が強くなったのか、気持ちの問題なのか……
相変わらずきれいなアトリエ。アタシは思わず携帯で写メってしまった。
セイコ(待ち受けにしとこうかな……)
自分の人生の方向性が決まろうと思う日に、こんな「観光客よろしく」なことをしているなんて自分でもバカみたいだ……。
けど知っているんだと思う。
きっと今日からいつもとはまた違う。
すばらしい日が始まることを。
アタシは息を一つ、二つ吸ってからアトリエのドアをゆっくり開けた。
きっちり計算された作りのドアは悲しい悲鳴すらあげずに閉じる。
するとアトリエ内に叱責の思いがこだました。
セイコ(おわ!なんだ?)
いきなりで驚いたけど聞いたことある声だ……
途切れ途切れではあるが明らかに敵意のある声が響いている。
声のする方へ行く。
じわりじわりと廊下を進んで、怒声の主へと近づいていく。
しかし、というかやっぱり。
怒声はカノウタダミチの部屋からしていた。
少しあいている扉の隙間から中をうかがい見る。
すると中には見たことのある人がいた。
セイコ(お父さん!)
カノウタダミチとお父さん、違和感のある取り合わせに一瞬見間違いかと思ったが、あの後ろ姿は間違いない。
セイコ(なにやってんの、お父さん!)
そう叫びながら入ろうと力を入れたが、お父さんのいつもとは違う怒声に体が動かなかった。
父「あいつでも飽きたらずセイコまでたぶらかすつもりか!」
言っている意味が分からないがカノウタダミチは初めて見た日のように、冷たい、なにも感情のない目で静かにお父さんを見ていた。
それがさらにお父さんの神経を逆撫でするのだろう、よりいっそう声が大きくなった。
はじめは脅すくらいの気迫だったに違いない。
けれど、カノウタダミチの目を見て今やアタシの知っているお父さんは見たことないほどの殺気でまくし立てている。
それなのにカノウタダミチの目は変わらない、いや、より一層感情のない、虫を見るかのような目でお父さんを見ている。
父「許さん!なぜおまえはこうまで私のじゃまをするんだ!」
お父さんの発言でカノウタダミチは眉をぴくりと動かした。
父「私がなにをしたというんだ!」
もはやお父さんはカノウタダミチと言うよりも目の前の虚空に叫んでいるみたいだ。
それを知ってか、カノウタダミチが静かに口を開いた。
カノウ「…………ふ、なにを言いに来たかと思えば……あなたはまだそんな事を…………あなたが言った言葉、そっくりそのままお返しします。」
あまりにも素っ気なく、また冷たい言葉にお父さんはもはや虚空を殴る寸前だった。
つまり、顔が真っ赤に燃えていたって事。
父「なんだとぉ!貴様!喧嘩売っているのか!」
カノウ「それはそちらですよ「おにいさん」」
セイコ(え!?)
父「貴様なんぞに、貴様なんぞに呼ばれる筋合いはない!」
セイコ(どうゆうこと?)
カノウ「私もできれば……いや、一生口にしたくない言葉ですが。……何しろあんたは……いや、いい。あんたになにを言っても無駄だ。」
そういうとカノウタダミチはクルリと背を向けて自らの机にむいた。
父「なんだ?妹をたぶらかし、娘までたぶらかした男なのになにも言わないのか?」
カノウタダミチは我関せずと言わんばかりに耳を貸さない。
お父さんはさらに続けた。
父「言えるわけないな、貴様は妹の将来をつぶし、娘のまでつぶそうとしているんだからな。」
すると思いだしたように向き直ったカノウタダミチがお父さんの胸ぐらをつかんだ。
カノウ「あんたがキョーコの兄貴じゃなきゃ今すぐぶち殺してやりたいよ、だがそれをやればキョーコが浮かばれない。」
胸ぐらを捕まれたお父さんは青い顔をしていたけどそれをきいて少し安堵したようだった。
カノウ「それとな、アンタ忘れているようだが、俺はキレるとなにするか自分でもわからん、「あの日」アンタにしたことは思い出せんが、アンタは覚えているだろ?」
その静かだが殺気のこもった声にまた血の気を失う。
がお父さんは声を振り絞って言う。
父「……し、しかし今回のことは貴様に手出しさせない!……セイコは、貴様の元には行かせない!」
カノウタダミチは手を胸ぐらからはなした、すばやく胸元をただしたお父さんに悲しみを感じた。
カノウ「アンタはあのときからなにも変わらんな、あのときもそして今も、俺は何も強要していない。キョーコは自ら運命を決めた。セイコくんも自ら決めるだろう。」
再びいすに腰掛けたカノウタダミチは今度はお父さんの顔を見据えるように、正面を向いた。
カノウ「子供は自分で将来を選ぶ、周りの人間にできるのは助言や忠告、ましてや反対じゃない。必要なのは子供の将来に同意して成し得させることだ。……アンタには無理だが。」
少し意地悪く笑った顔は子供のようだった。
父「きさま!」
カノウ「私の名前は「貴様」ではありませんよお兄さん。」
父「……っ!」
明らかに侮辱されたお父さんはカノウタダミチに近づいた。
カノウ「さっきも言ったろ、怒っているのは俺のほうなんだ、アンタがいかにキョーコの実兄であろうと、アイツを捨て、長い間探さなかったのは事実。しかも探した後、苦しめていたのを俺は知っているぞ。」
アタシには何がなんだかわからなかった。
わかるのはカノウタダミチ、お父さん、両方がキョーコさんのお兄さんだったってこと。
ふと山田先生の言葉を思い出した。
『ふたりは血がつながってないんだよ』
ということは、カノウタダミチはキョーコさんとは兄弟じゃない。
……。
けど、まさかお父さんがキョーコさんのお兄さんだなんて。
アタシは頭の中にハテナを作り出していた。
セイコ(え?てことは……キョーコさんはアタシの……おばさん?)
ドアの前で座り込んで思考するアタシは、もはや理解できなかった。
セイコ(でもなんでお父さんはカノウタダミチに対してあんな口調なの?血がつながってないとしても、お父さんがカノウタダミチを嫌う理由なんてないはず。カノウタダミチもなんであんなに冷たいの?)
ハテナの渦はより巨大になりアタシを飲み込んだ。
カノウ「どちらにしろあの子は、セイコくんは自らの道を選ぶだろう。」
静かにしかし悠然と言葉を並べるカノウタダミチの目には恐れも何も感じ得ない。
お父さんはまだ何か言いたげだったがカノウタダミチの気迫に押されてか、何も言えずにいる。小さく、舌打ちをしたお父さんは踵を返した。
背を向け、逃げるように扉まで来たお父さんにカノウタダミチが声をかけた。
カノウ「おい、もう二度とくるな……ここはアイツの夢の場所だ。貴様ごときが上がり込んでいいところじゃない……それに俺が貴様に何かをするかもしれんからな。」
その言葉にまたお父さんは顔を青くしたが、すぐに元に戻し扉を開けた。
セイコ「あ。」
父「……っ!」
お父さんはヘタレ込んでいるアタシを見るとチラッと部屋を見て舌打ちをした。
父「……母さんには……私から言っておく。」
それだけ言うとお父さんは足音をガンガンにかけながら入り口に向かっていった。
立ち上がることも、かける言葉もなくて座り込んでいたアタシにカノウタダミチが声をかける。
カノウ「……聞いていたのか……」
首が素直にカクンと落ちた。カノウタダミチはリビングへとアタシを促した。
ポットに火を入れてカップを近くに並べる。
いすに座っているアタシの対面に座ってカノウタダミチは手を口の前で組んだ。
カノウ「……で?どこからどこまで聞いていた?」
セイコ「あ、えと……『キョーコとアイツはおまえには』とかから……です……」
少しうつむき加減に言うアタシの目の前をトントンと叩いてアタシの顔を上げさせた。
カノウ「全部話さなければな……」
その言葉を聞いたとき、アタシはここにくる時に感じていたあの「今日から変わる」感じ、あれは「これ」から始まるのだと確信した。
この世界にどれほど自分の過去をすべてさらけ出せる人がいるだろうか、脚色やアレンジもせず、自らの体験だけを。
少なくともアタシの周りには今までいなかった。
それでなくとも自分のことを包み隠さずに言える人なんか探すだけ無駄なのに。
政治家だってホントのことは言わない。
もしかしたら大統領だって……。
けどアタシはこの人は、カノウタダミチは間違いなく真実を語ってくれると感じていた。
カノウ「さて……どう話そうか……」
目を少し細めて遠くを見ていた。
その先にはきっとわかかりし頃のカノウタダミチが見てきた風景が映し出されているんだろうな。と思う。お湯が沸くまで話さない気なのか、考え込んでいるのか。
カノウタダミチは口を開かない。
カノウ「…………聞いたかも知れんが、俺とキョーコは血が繋がっていない。……キョーコが施設にいたところを親父が引き取った。」
突然話し始めたカノウタダミチは思い出のかけらをつむぐように探っているようだ。
カノウ「俺は…………キョーコが家に来た日に……キョーコに恋をした。わかっていた、たとえ血が繋がらなくても兄妹は結ばれてはならないことは……俺は気持ちを隠すことにした。キョーコは俺と血が繋がっていないことをしらないようだった、あいつには生みの親の記憶がない、だから親父が引き取ったときに『おとうさんがむかえにきた』と本気で思ったそうだ。」
たどたどしく語っては黙るを繰り返して、記憶の海に潜るのはきつそうだ。
カノウ「俺はキョーコが成長するたびに心が苦しめられた、兄としての立場、一人の男としての立場に揺れていた。しかし俺はあいつを守る兄であることが事実、だから決意し、キリと恋仲になった。…………が、想いはより強くなった。高校にあがるとキョーコは芸術でも評価されるようになり、ファンがついた。」
アタシは今すごいことを聞いている。
いや、なんとなくだけどそんな気はしていた。けど、実際聞くと恐ろしくなる。
カノウ「あいつは兄という立場がなくてもかわいかった。俺は自分がわからなくなっていた……笑えるだろ?妹に恋をして、それを忘れるためにキリとつきあうなんて最低だ。ある日俺は決意をした、キョーコのためだけに生きると……あいつを守れるのは世界に俺だけだと……。………………その年の夏……キョーコは自ら命を絶った。」
セイコ「え?」
シュン!シュン!シュン!シュン!
赤銅色のポットから水蒸気が沸いている。
カノウタダミチはしずかに席を立って火を消した。
カノウ「……紅茶でいいか?」
背中を見せながら少し遠慮したように、それでも少し親しげに聞いた。
アタシは縦に首を振り、その後ろ姿を見やった。
この人はどれだけ傷ついたのだろうか。
どれだけ自分を呪ったのだろうか。
それは思えば思うだけ、考えれば考えるだけ残酷な結果しか浮かばなかった。
大切な人を守れなかった時、想いを遂げれなかったとき、人は人として生きるのをやめてしまうほどに傷ついてしまう。
紅茶のパックをカップの中でジャンプさせて色を出したものをアタシの前に置いた。
カノウタダミチは簡易コーヒーを入れて自らの前に置いた。
カノウ「砂糖とかは自分で入れてくれ……」
そういってふたから棒が生えたカップをだす、中には粉砂糖が入っていた。
アタシは2杯入れてかき回す、紅茶の甘い香りが漂う。
カノウ「キョーコは紅茶が好きでね、絵を描く前、描いた後は必ずのんでいた。」
その様子を思い描くとそれだけで絵になる。しかし、もう飲めない。……あいつが死んだ後俺はせめてあいつの夢だけは叶えようとあいつの代わりに絵を描きつづった、元々繊細でない俺には地獄の日々だったが、それでもあいつを守れなかった俺には良い罰だった。あいつは何を悩んでいたのか、何を思っていたのか。描いていくうちに理解した。原因は俺だ。あいつが画家としてデビューしてからあいつの実の家族が現れた。お前の父だ。」
軽く紅茶をすすった。
ほのかな香りと甘みが口から脳へと駆け上がる。
カノウ「あの日、あいつらが……君のお父さんが現れたとき、俺にはキョーコの名声と金、そしてキョーコ自身を奪いにきた、そう感じた。当時の俺は頭が悪くてね、最愛の人がどうなれば幸せなのか、どう感じれば幸福を感じるのかがまったくわからなかった。俺は君のお父さんを今でも恨んでいるよ、しかしあの人からしたら俺こそが元凶、つまりは互いに大事な人をそばにおいておきたかっただけなのかもしれない。」
カノウタダミチ。
彼はキョーコさんが本当に好きだったんだ。
カノウ「結局キョーコはうちで今までどおりに生活を、たまに君のお父さんにあってはいたがそれでも俺は近くにキョーコがいる幸せを感じていた。しかしキョーコからしたらどっちつかずでかなりのストレスだったんだろうな。」
カノウタダミチは尚も遠くを見つめたまま想いを馳せている。
人は過去に想いを馳せる。
それは美しくも虚ろいの想いで、二度と還りはしない時間に縛られている証なのかもしれない。
『ああすればよかった』
『なんであのとき……』
たとえどんなに幸せな日々でもいつか必ず終演を迎えてしまう。
それがわかっているのに。もう戻らないのに。
想いは突然に風化し、突然に蘇り、また沈む。
振り返ることに意味がないとも知っているのに。
その想いに支配されるときに幸せを感ずることもある。
カノウ「俺はひどく憎んだよ、君のお父さん、うちの両親、そしてなにより何もなせなかった自分を。幾たび死を望んだかわからない。しかしそのたびにキョーコの顔が浮かんだ。俺は思った『あいつの夢だけは叶えさせてやろう』と、あいつの夢は『世界で活躍する画家になって個展を開くこと』そのためだけの命だ。そしてそれは達成されつつある。」
カノウタダミチはコーヒーを口に流しこんだ。
カノウ「それで?」
セイコ「は?」
カノウ「今日は何をしにきたんだ?」
セイコ「え?あ!そうだった。」
そうだったそうだった。
話の肝がでかすぎて忘れていた。
そうだった。
絵を見せにきたんだった。
けど。
セイコ(あんな話の後に見せていいんだろうか……。)
アタシは鞄をあさり絵を取り出した。
そして怖ず怖ずとカノウタダミチの前に差し出した。
それを手に取ったカノウタダミチはじっくりと目に焼き付けるように眺めている。
あのとき、犬くんと海に行ったときのようなあの余裕のない顔で。
カノウ「…………これは……なんで下書きなんだ?」
セイコ「あ、えっっと、アタシには今それが精一杯っていうか、アタシの全力でいまそれっていう……」
カノウ「……なるほど。」
そういうとカノウタダミチは絵をまた見始めた。
アタシはなんだか少しずつだけど、自分の内面を見られているようで恥ずかしくなってきた。
残った紅茶をちびちびすすって自分の羞恥心と戦っていると、ふいにカノウタダミチが訪ねた。
カノウ「君は昔、俺が酷評したのを覚えているか?」
あたりまえだ。
セイコ「覚えてます。」
カノウ「あのときなぜ酷評したかわかるか?」
セイコ「??」
カノウ「君の絵には気持ちがないと言った。」
セイコ「あ!」
カノウ「芸術とは自らの心を形にすることなのだ。よかろう。…………君がこれ以降もこうゆう絵、こうゆう気持ちで描き続けると信じて。山ちゃんには俺から連絡しておく。」
セイコ「え?」
カノウ「忘れたのか?大学推薦の話だ。」
セイコ「あ、そうだった。」
そうだった。
いろんなことがありすぎて、当初の目的を忘れていた。
カノウ「そうだったって……覚えていないとは……。とにかく、山ちゃんならびに大学のほうには推薦を送っておく。軽いテストやなにかはあるだろうが……まぁ大丈夫だろう。」
不思議な感覚だった。
目の前が開けたというか、いきなり壁がなくなったような、あの不思議な不安感。あっけなさ。
カノウ「ただ君の場合はもっと身近に問題があるだろうが、まずはそれをどうにかしなくてはな。どうする?やめるか?」
やめるもなにも……絵は描きたいけど大学では……。
お父さんたちは反対するだろうし。
第一、そこ出ても生活はできないだろうし。
……。
セイコ「アタシは……」
カノウ「絵は、生活するために描くんじゃない。誰かに見せて評価を得るためでもない。…………自分が満足するために描く。大学はそのために必要な施設、利用するための施設だと思えばいい。そんなもんでいいと思う。」
セイコ「……。」
初めてアタシだけに見せたカノウタダミチの笑顔にドキリとした。
見せようとして見せた笑顔ではないと思う。
その証拠にすぐいつもの冷たい顔にもどっていた。けど確信した。
いや、せざるを得なかった。
セイコ(アタシはカノウタダミチに恋している。)
確実になったこの感情に恥ずかしさよりも、うれしさがこみ上げた。初めて内面を、荒削りの内面を見た人。そして初めてそれを認めてくれたヒト。
セイコ「アタシ、やる。」
せっかくヒトが認めてくれたんだ。やるしかない!アタシはグッと拳をつくった。
カノウ「やはり血は争えないな。」
セイコ「え?」
カノウ「キョーコもよくそうやって拳を作っていたよ。」
キョーコさん。アタシのおばさんにしてカノウタダミチの妹で最愛のヒト。
その血がそうさせているのか、今なら何でもできそうな気がする。
『だいじょうぶ。あなたなら大丈夫。』
きっとそう背中をたたいてくれているに違いない。
セイコ「大丈夫。アタシは大丈夫。」
カノウ「だろう、そうだな……これを持っていろ、ここの鍵だ。…………俺がいないときでも好きなときにアトリエを使え。」
セイコ「え?」
カノウ「俺がいつでもいるとは限らんからな。さぁ、夏休み中に親を説得した方が気持ちよく学校に行けるだろうから、さっさと帰って説得しろ。……決めたんだろ?」
セイコ「…………はい!」
きっとお父さんはカノウタダミチのことで反対するだろう。
お母さんもここぞとばかりに反対するだろう。
けど、アタシはアタシだ。
アタシの決めた道に進むんだ。アトリエを出ると、日が陰り始めていた。体は疲れていたが、不思議と足取りは軽かった。


―天蓋の現―

山田「あいじゃあ出席とるぞー、赤居!……浅田!浅田いないのか?浅田……?……」
窓際にある席に肘を立ててボーッと外を眺めている。
あの日アタシは家に帰ると予想通りに怒り狂ってるお父さんとお母さん相手に戦いを挑んだ。今までのアタシならまた腐っていいなりになっていただろうけど。
今のアタシは違う。
山田「神谷!神谷セイコ!いないのか?」
セイコ「あ!はい!」
あの日以来アタシはアトリエには行っていない。
行きたくないわけじゃない。
むしろ逆だ。けど、未だに続くお父さんたちとの戦いに終止符を打たない限りは行くわけには行かない。
アタシは首にかけているネックレスの先を握る。
たしかな厚みと金属の堅さが決意をより強くする。
この鍵の存在がよりアタシを強くしているようだ。
シン「なぁ、ちょっといいか?」
それは昼休みのこと。
いつも通り友達と食べようと思っていたら、シンちゃんが声をかけてくれた。
セイコ「あ……うん。いいけど、なに?」
シン「ちょっと報告しておきたくてさ。」
セイコ「??……あ!ちょっと。」
そういうとシンちゃんは先に教室をでた。あわてて追いかけると、階段のところで待っていてくれていた。
シン「今日は天気がいいからな、屋上にしよう。」
セイコ「うん……。」
先に上がるシンちゃんに少し遅れてついて行く。
セイコ(いったいどうしたんだろ。)
屋上に続く扉を開けると見渡す限りの深い青空が広がっていた。
セイコ「うわぁ……。」
シン「うをぉ……。」
二人して声を上げてしまった。
シン「屋上に出て正解だったな。」
セイコ「うん。」
言いながらシンちゃんは適当なところに座った、アタシは少し離れたところに座った。
シン「いただきます。」
顔の前で合掌してシンちゃんはお弁当を食べ始めた。
セイコ「……いただきます。」セイコ(話……しないのかな?)
そう思いながらもお弁当に箸をつける。
海苔弁。
この醤油に浸された感じが好き。
一口食べてまた一口いただく。
何度食べても癖になる味。するとシンちゃんが食べながら言う。
シン「あのさ…………俺……っ……新しい夢見つけたんだ……」
セイコ「ほぇー、また何で?」
シン「ほら、あのとき口げんかした日に言われてからさ考えてたんだよ……したら、何も俳優にとらわれることはないって。」
シン「そんな考えが浮かんでさ……で、思った。俺は学校の先生になる。」
セイコ「意外。」
シン「だろ?一番驚いてるのは俺だよ。」
ニカっと笑うその歯に海苔がついているが言わない。そして自分にもついていないか舌で探る。
シン「ほら、学校の先生ならさ、学歴高ければよりいいし、親も先生なら許してくれると思う。」
セイコ「ふ~ん。」
シン「なんだよ、冷たいな。」
セイコ「だってさ、シンちゃんが決めたことだもん。アタシが何を言っても……ね?」
シン「そりゃそうだけどさ。」
少し悲しそうな顔がそそる。
セイコ「じゃあ仕方ない、ほめてあげる……よく決意したね!やった!すごい!」
シン「聞かなかった方が良かった。」
セイコ「嘘嘘。ホントによく考えたね……シンちゃんが先生っていいと思うよ。みんなに最適に接してくれるし、熱血漢だし、顔が良いし。」
シン「はいはい、ありがと。」
セイコ「ホントに思ってるよ?」
シン「うん。わかってる。」
セイコ「でもなんでまた先生になろうと?」
シン「なんつーかさ、俺は一度夢やぶれてる訳で、すごく悲しい思いをした。だから二度とそんなことを経験する人がいないようにさ、諦めないように教えてあげたいんだ。」
セイコ「『夢は持ち続ければ必ず叶う』って?」
シン「そんなとこ」
肩をすくめてニカっと笑いお弁当をかきこむ。
空を見上げて思った。
夢なんてモノは一人一人違う、目指す方向も方法も。
ヒトの役に立ちたくて目指すヒトもいるし、自分の為だけにってヒトもいる。
なら他人によって夢を潰されるのはもってのほかで。
他人が勝手に方向を決めていいもんでもない。
あくまでもその人の夢はその人の夢で、達しかたはその人にしか決められない。
なのに今現在、夢は他人の認識によって左右される。
漫画家になろうとしても『それで食えるのか?まともな職種に就け』などと言われたヒトもいる。
アタシなんかは未だにお父さんと争い中だし。
なら俗に言われている『まともな職』とはなに?
サラリーマン?外資系?
アタシが思うにそれらは『影響が出にくい』ということと、『自らの力では動かせない』ということしか違いはなく。
ひとたび恐慌が起こればひたすらにダメージを食う。
大人の言う『まともな職』とは、目に見えて博打を打つか。
目に見えないところで他人が博打を打つかの違いしかないと思う。
いっきにスるか。じわじわスるか。
アタシは自分の力で生きていきたい。
だから……。
だから、芸術という博打の舞台にたった。
シンちゃんはそれを諦めてヒトにこつこつ打ってもらうことを決めた。それだけのちがいだ。
シン「それとさ、あと1つ報告っつか言いたいことが……。」
セイコ「…………?なに?」
シン「えっとさ、俺……。」
ピンポンパンポーン!シンちゃんが口を開きかけたときに校内放送が入った。
「神谷セイコさん、神谷セイコさん。山田先生がお呼びです。至急職員室までお越しください。」
セイコ「?……なんだろ。あ、さっき何言おうとしてたの?」
お弁当箱を片づけながら聞いた。
シン「いや……いい。また後で言うよ。」
セイコ「あ……そう。」
お弁当箱を片づけて屋上を後にした。何を言おうとしてたんだろ?
セイコ「失礼しまーす。」
言いながら扉を開けて山田先生を捜した。
山田「……おー、こっちだ。」
手招きしている先生に近づいた。
セイコ「なんの用事ですか?」
山田「いや、まぁなんだ。ちょっと座れ。」
山田先生は他の先生のいすを流してきた。
アタシはそれに座りお弁当箱を膝の上にのせた。
山田「えっとな…今キリちゃんから連絡が来たんだが……その…………」
セイコ「なんです?」
山田「あいつが……カノウタダミチが死んだ……」
セイコ「へ?」
山田「昨日アトリエで……倒れているのを発見されたらしい。」
セイコ「…………え?……うそ。」
山田「嘘ならもっとおもしろく言う。」
セイコ「なん……で。」
思わず鍵を握りしめた。
山田「……あのな…………じつはあいつな……病気をしていたんだ。」
セイコ「病気……。」
山田「キョーコが亡くなった年から発病していたらしい。自分でも今年までだと知っていたと言っていた。」
セイコ「…………」
目の前が真っ白になった。
死んだ?
カノウタダミチが?
嘘でしょ?
山田「…………式には……お前も出席してほしいと、キリちゃんが言っていた。……どうする?」
セイコ「アタシは……」
山田「無理に出なくてもいい、あいつは世界的なアーティストだからな、告別式だけでも良いと思う。ファンに紛れて。」
セイコ「アタシ……行きます。」
山田「……そうか。」
式は厳かに行われた。
世界的アーティストカノウタダミチの死は世界に悲しみをもたらしたらしいとキリさんが後々教えてくれた。
参列してくれた人たちは皆泣きながら花を添えてくれた、その中に初めてカノウタダミチを見た日にあったおじいさんの姿もあった。
アタシはただ写真に残ったカノウタダミチを見つめていた。
短い夏の間の師匠にして淡い恋の思い人。
アタシの知るカノウタダミチよりも幾分か若めの彼は、あの最後に逢った日と同じ笑顔で皆の前にいる。
「あれはキョーコが撮ったのよ」と、またキリさんが教えてくれた。
カノウタダミチは本当にキョーコさんが好きだったんだな……。
アタシは不思議と落ち着いていた。
カノウタダミチの死も、キョーコさんへの想いも受け入れていれる。
ただアタシはこの夏、とびきりの経験をし、得難い出会いをし。
人生を自分のモノにできた。
その代償としてこの夏に思いっきり涙を流した。
そう。
ただそれだけだ。
それだけなんだ。
…………。

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