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トゥエンティーンエイジャー(1)

20〇〇年2月16日 7時12分 東京都新宿区

都内は初雪の予報だった。
急行電車が都心に近付くにつれ霧雨は粉雪に変わって、街は薄い膜を張ったみたいに白くぼやけている。
改札を抜けると、新宿は静寂していた。
まるで雪の一粒一粒が音を吸い込んでしまったみたいに。

駅前の歩道を渡った角地のコーヒーショップに入ってカフェラテを注文する。
実は今日、私のスケジュールは空白だった。
この肌寒さを感じながら一人で過ごすにはあまりにも窮屈だから、街に出た。
カウンターから交差点を眺めるとぼんやりとしたネオンの塊、色彩のない傘の連なり。
どうやら未だ眠気をひきづっているみたい。

ラテに口付けながらラインを開いてみる。
あの人の既読は一昨日から付かない。
今週忙しいっていってた気がするし。
まだ朝も早いしな。疲れて寝てるんだろう。
もう二年も一緒にやってるし、それくらいは許容範囲か。
そんなうまい妄想をして頬杖ついて、ため息ひとすじ。

そんな訳ないじゃんか。
悪い妄想は大抵当たるんだ。
だから今は少しでも平然を装ってたい。
休まなきゃ。自分を守らなきゃ。
雪の密度が濃くなって、交差点がフェードアウトしていく。
私は白く消えていく視界に耐えきれなくなって、目を閉じた。

別れられない。

散々酷いことをされた筈なのに、鮮やかな記憶の節々がまとわりついて逃れられない。
付き合って間もなかった頃の君の笑顔とか言葉のニュアンスが、胸の裏側に染み付いている。

いつからかズレた心は復元不可能で、
1cm離れたら、その1cmを
1m離れたら、その1mの距離を背負ったまま
私たちは付き合わなければならなかった。
それでも「あの頃」は自分のどの記憶よりも満たされていたから、どうにか関係を戻そうと必死になって、夜も眠れなくて。
でも考えれば考えるほど、自分の悪いところばかり浮かび上がってくる。
だらしない自分、甘えてしまう自分、執着する自分、君に受け入れられない自分。

そうやって空回りしている間に、あの人は最初の浮気をした。

付き合って8ヶ月、5月の頭のことだ。
その日も今日と同じ霧雨で(もちろん雪には変わらず)生ぬるい気配が季節の境目を有耶無耶にしている。
いつも通り家に泊まって、軽く戯言。
「好き」
「うん。」
予定調和な1日だけど、心地よい、何の意味もない夜だった。

午前3時、違和感を感じて目が覚めた。
体調とかでもなく、なんとなく空気がブレている。
ぼんやりと目が闇に慣れるまで蛍光灯を眺めていると、スマホのバイブレーションが鳴った。
私の携帯ではない。
少し躊躇ったけど一瞬鋭い魔が差して、手探りで取ってみる。
画面の向こうに知らない女が居た。

「ねえ。」
「起きてる?」

何度か肩をゆすったけど、
寝ている。
寝ているみたい。

翌朝、彼は流れるように嘘をついた。
「研究室の友達でさ、前から遊ぼうって約束してたんだ。」
バカ言わないで。
そんな友達があんな時間にライン送ってくるわけないじゃん
私も会いたい、だなんて。

部屋の鍵をテーブルに叩きつけて家を出た。
外は昨日の天気をこじらせた曇天で、私は呼吸を整えながら、複雑に絡まった感情を一つずつ吐き出した。

怒り。苛立ち。
それより、
やるせなさと悔しさと、妬みと哀しさ、
自分ではどうしようもできなかった惨めさ。
男は安心感を得た時に浮気するんだって。
誰かが言ってた。
あんなに苦しんで、考えたのに。
あの人は安心してたんだ。
私の力じゃ、何もできないや。
少し線路沿いを歩いてみたけど、足を前に出す度に身体がしぼんでいく気がして。
フランジ音に紛れて五月雨を拭った。

萎縮した身体は五感を研ぎ澄ましていく。
霧雨のノイズ、細かい波紋の広がり。
ヘッドライトを吸い込む壁面の艶やかさや、静かに溶ける土の臭い。
まるでその時間だけが真実みたいに、自然に身体に染み込む。

五感が心の空虚を満たした時、もうひとりの私のようなものが現れて耳打ちした。
「今なら間に合うよ」
「信じておけば楽なのに」
「あの人が悪いんじゃない。私のせいだ」
彼女は私よりもずっと伸び伸びしていて、ずっと私らしかった。

ふと空を見上げると、建物の連なりが心を閉ざそうとしている。
雨の音と早春が残していった肌寒さに負けて、 私は家に戻った。

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