俺の昔の話

私は昭和52年製のオッサンだ。
東京都板橋区生まれ、北海道釧路市育ち、そして今は愛知県民だ。
北海道出身の両親が東京に住んでいた頃、俺が生まれた。そして小学校に入学する前に北海道へ引っ越した。
若い頃からクルマが好きで、夜な夜なドリフトをしていた。20代の頃の愛車はAE86と180SXだった。
北海道に住んでいた学生の頃、バイクに乗りたかったが親の反対にあい免許を取りに行けなかった。
未成年なので保護者の同意が必要だったが、『お前は事故って死ぬからダメ』の一点張り。18になって、仕事するためには必要だからと漸く親の許可をもらって普通自動車免許を取りに行かせてもらえた、もちろん自分の金で…。
普通自動車免許を取得し、自分の働いた金でクルマをローンで買った。走るのが楽しくて楽しくて、仕事が終わった後はひたすら乗り回す日々が続き、気づけばガソリン代は1ヶ月で10万円を超えていた。
当時のガソリン価格は1L/約100円。1L当たり10kmくらいの燃費のクルマだ。10万円分のガソリンは約1000L、距離にしてみれば約10000kmということになる。
初めて買ったクルマはTOYOTAのCYNOS-βという1500ccのFF車だ、マイナー車なので安く買えた。
コルサ、カローラIIのシャーシに1.5LのDOHCエンジンを搭載したマニュアル5速のなんちゃってスポーティカーだ。
その時はクルマの事はよくわからないので、乗れれば何でも良かった。とにかく運転して何処かへ行ってみたい、あの先に何があるのだろうか、道は何処へ続くのか知りたいという好奇心だけで運転していた。初めての自分だけのクルマを運転して出かけるのはとっても楽しかった。
もっとクルマの事を知りたい、もっと運転が上手になりたい、そう思う様になって雑誌や本(当時はインターネットがしょぼくて雑誌や本が主流だった。)で勉強したもんだ。
雑誌を見ても俺のクルマは載っていない、、、。
当時のスポーツ車といえばS13シルビア、AE86レビン・トレノ、RX-7(FC3S)、R32スカイラインが多かった。
丁度その頃は頭文字Dという漫画が流行っていた。
レーサーの土屋圭市がドリフトの大会をビデオOPTIONでよく主催していた頃だった。漫画とビデオとドリフト天国という雑誌に魅了された俺がいた。FF(フロントエンジン・フロントドライブ)、つまり前輪駆動でもドリフトはできると知ったのはビデオを見て知った。
基本的にドリフト走行はFR(フロントエンジン・リヤドライブ)車が主流だが、シビックなんかのFF車もたまにドリフトしていた。
見よう見まねでやってみたが上手くできない。サイドブレーキ片手に後輪をスライドさせるけど中々キレイに決まらない。もどかしい、、、。
どノーマルのCYNOSでは、セッティングの仕方すらわからない少年の俺が独学でわかる訳もなく、ただひたすら広い場所で練習するのみだった。
そんな折、色々と考えて走る事に気づき、問題はタイヤの空気圧である、と知った。フロントタイヤの空気圧を1.7キロ、リヤを3.0キロくらいにしてみると、みるみるドリフトができる様になった、それはもう嬉しかった。
彼女もいない、友達も少ない俺は、夜な夜な埠頭の広場で練習を積んだ。
そしてある日の夜、調子に乗ったクソガキの俺はいつもの埠頭でドリフトをしていて、対向車が来てビビってアクセルを抜いた。
FF特有のタックインというお釣りをもらい、カウンターを切っている方向へスピン状態でぶっ飛んだ。縁石に乗り上げ、後輪をヒットした。無惨にも後輪は折れ、もうクルマは動けない。
俺の愛車は廃車となった。
なぜか自分のクルマに愛情の欠片すらなかった、、、そう、クルマは単なるオモチャだったのだ。もっと物を大切にしなければいけない。
今となっては反省しかないが、10代のクソガキの俺はただひたすら走る事しか考えてなかった。
雑誌やビデオで見る、FRのクルマが欲しい!そう言って俺は中古の180SX(中期型)を19才でローンで購入した。
親父に1ヶ月間、頭を下げてなんとか拝み倒して保証人になってもらい、やっとの事でローンを組んだ。
まぁその後は想ご像通りですが、狂った様に毎日ドリフトの練習。FR車まじ楽しい、、、。タイヤがいくらあっても足りない。ターボ車の180SXはとにかくタイヤがすぐにケムリと化した。
そんなドリフト狂の俺にもクルマ好きな友達も増え、毎日が楽しかった。
週末に埠頭へ行けば顔なじみのやつに必ず会う。
そのうち、知らないやつからも話しかけられる様になっていった。
無限の体力と気力と想像力、若気の至りとでも言えるが、ただひたすらドリフトする事しかなかった。
もう中毒だろう、というくらいまで走った。昼間は仕事をしていたが、アル中の様に週末になると手が震える。
気づけばアドレナリン中毒となっていた。
ドッグファイトがしたい!
もっと上手くなりたい!
友達やその辺の走り屋には負けたくない。
そんな一心でただひたすら練習した。
そして遂に出会ってしまう。
そう、AE86に。
兄貴の様な従兄弟がいたのだが、そいつが5万円でハチロク買えるぞ!と持ちかけてきた。頭文字Dが好きだった俺は、その話に飛びついた。当時貧乏だった俺は、従兄弟と共同でボロボロのハチロクを買い、コツコツと修理して車検を取り、そして夜の埠頭へAE86に乗って繰り出した。
ドリフトが、、、、できない。
そう、1.6LのNAエンジンのハチロクは非力だった。
しかしクルマ自体はとても軽く、キビキビと走れる楽しいクルマだった。
ここから一皮剥けた俺のドリフト人生が始まると言っても過言ではなかった。
初心に帰り、砂利道から練習を積んだ。軽量なFR車のハチロクはパワーこそないが、メチャクチャ速い。これがハチロクの戦闘力か、、、と自分でも驚いた。
もっと速く、もっと上手く、もっと華麗にこのクルマを乗りこなしたい!そんな欲望に駆られる悪魔の様なクルマだった。
しかもNAエンジンなので燃費がいい(ドリフトしてもリッター9km、180SXはリッター5km)。貧乏な俺にはサイフに優しいボログルマのハチロクが最高にハマった。
ある日のこと、後輩がバイクいらないすか?と言ってきた。その後輩はバイクからクルマにシフトしてきたので、もうバイクはいらないと言うのである。
そして、バイクに乗ると運転が上手くなれるというから、ドリフトバカの俺が飛びつかない訳がない。
その後輩からNSR(50ccレース用)を無料で譲り受けた。
今となっては貴重な2stエンジンのNチビことNSR50が俺の初めて所有するバイクとなった。
バイクが楽しくて楽しくて、意味もなく走った。
しかもレース仕様のNチビである、遅い訳がない。
後輩の手によって色々とカスタムされていた。キャブもレース様、リミッターなんてあるはずもない。
原付バイクのくせに最大150kmくらいスピードが出た。今考えると恐ろしいバイクである。
あの頃は、何の知識もなくただバイクを楽しんでいた。週末は埠頭へハチロクで行きドリフト、夜中になると郊外の峠(周りには家すらない)でドリフト。
それ以外の平日の夜はバイクでお散歩。
そして俺の楽しいバイクライフが始まった。

『続く』。






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