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ネットの友だち

10代の終わり、20代の始まりの夏の数年間のことをたまに思い出す。

1年浪人して入った大学に通うため実家を離れ、本州から海を渡り、それまでの同世代の友だちや、恋人とも遠距離になった。
でも持ち前の鈍感さで、さみしさよりも新しい土地の、全然違うルールをそれなりに楽しんでいた。山の中腹にある、お化け屋敷みたいなボロボロの4階建て・4人部屋の狭い寮の生活もなんだかんだ気に入っていた。

ずっと携帯を持たずに過ごしていた。
だから、初めの春からは100円玉と10円玉を死ぬほど溜めてポケットに入れ、海の見える公衆電話で恋人に電話をかけた。
寮の門限ギリギリまで暑いボックスの中で、やけに光っている蛍光灯を避けるように何度も姿勢を変えた。大体いつも恋人は「なにかおもしろいことはあったか」と聞いた。
「えー、おもしろいこと……なんだろう」と思いつくことを全然ない話芸で笑いも取れずボツボツと話すうちに時間になった。
来月は多分会える。「海が邪魔だな」と困ったように笑った声の感情を掴みきれないまま、自転車で潮の香りの町を猛スピードで走って、寮への坂を登る。

そんなことを繰り返して、数ヶ月が過ぎる。
同室の友だちに「おかえり」と迎えられて「わ〜!部屋涼しい!」と返す。
半地下になった1階の部屋は気温が上がり始めた5月や梅雨の時期になっても洞窟のようにひんやりとしていた。
共同のデカい風呂に入って、24時を過ぎたテレビのついた食堂で、ひあしあめを氷で割って飲んだ。

そのころ、招待制のソーシャルネットワーキングサービスというものが流行っていて、私も地元の友だちに誘われて入った。

ネットのない寮ではあまり更新しなかったが、大学のパソコン室や、カフェのWi-Fi接続した自分の富士通のパソコンで投稿しては、
同室の友だちの携帯で増えたコメントを読んで笑いあった。


そのうちに夏になって、私は寮を出た。
キャンパスの違う工学部に近く、本学である一般教養の週1の授業に出やすい駅近くの1LDKの格安のアパートだった。
引っ越しは友だちやバイト先で仲良くなった年上の車を持っている人に手伝ってもらって、すぐに終わった。
家の電話を引いて、全部整った後に恋人に「これからはこれで電話をするね」と伝えた。

1人の時間が増えたので、SNSのコミュニティを見て回ることが増えた。全く知らない歳も生活も違う人たちとすれ違っては挨拶を交わすのはなんだかハブ空港のようだった。
いくつかおもしろそうな人の日記に飛んでコメントをつけた。

そのすぐ後に大学のプチ留学的なものがあり、スイスやフランスに協定校やCERN、ベアリングの会社などの見学をした。
旅慣れた学務の人や建築科の教授ばかりだったので原則現地集合現地解散を推奨され、
行きは途中までみんなと、オランダの乗り換えからは1人で飛行機に乗って、
帰りもついでに数週間イタリアに住む知人家族を訪ねたり好きだった小説の舞台になった地を適当に放浪したりした。
恋人に手紙も書いた。
煙草を吸う人だったので、イタリア人の助言の通りに、お土産にはジッポーを買って帰った。


大阪の空港のパソコンで、webメールを開いた。
そしてSNSの返ってきていたコメントに目を通してすぐに閉じた。


そこからは過酷なバイト生活の疲れか、少しバランスを崩し、学校を休学した。
あまり恋人には連絡をしなくなっていった。次までの時間を考えるのが憂鬱だったし、すでに働いていた相手の負担にもなりたくなかった。
幸い私はそういう欲のないほうだったし、恋人からもたくさんは連絡がこなかったことも大きかった。

あっという間に冬になって、10代を過ごした人たちと疎遠になったころ、ずっと続けていたSNSで「これは」と思うコメントをコミュニティで見かけた。それを辿ってその人の日記にコメントしたところ、相手も私の日記を読んでくれて数日のうちにフォローをし合うことになった。
「海外に来て今から帰るところだけど、飛行機が怖い」とメッセージがきて、自分の半年前の1人で乗った飛行機体験との感じ方の差を思った。

その人は、音楽をやっていること、しかもその音楽はおそらく私の住む町でも購入が可能であることが解り、
誰なのかを探ることもせず、「そうなんだ」と思ったままやり取りを続けた。
まあ、数週間後には高校時代から好きで何度も聴いていたバンドのボーカルの人だと解って、
「絶対人生で使うことがないと思っていたare you〜?の文章が役立つ日が来るなんて!」とメッセージしたら、「いかにも、私が〇〇です」と笑った返事が来た。

そこからはほぼ毎日記お互いにコメントをし合い、地震や災害が来れば安否を心配し合い、好きな音楽の話をしたり、バイトや人間関係の悩み相談をし合ったりした。
どういうわけか、日記の更新をするタイミングがかなり似ていて、眠れないときには何故かいつもそこにいるというのが、やりとりが続いた大きな理由のひとつだったと思う。


夏の前に今までとだいぶ方向性の違うシングルとアルバムが発売された。
感想をいうと「評論が堪えている。こういう個人的なウソのないものはうれしい」と言われた。

夏になると、「大切な人に贈るプレゼントに悩んでいるうちにあげる日が過ぎそう」という日記が更新されて、わちゃわちゃしているうちに本当に過ぎてしまった。
「盛り上げるだけ盛り上げて置いていくな!笑」というツッコミがあったので「じゃあ来年のを探しましょうよ!」と言ったら、強い同意があって、
こんなものはどうか、あんなものはどうかと提案した。

それが私の中ではとても楽しいことに思えて、「それ、いいな。うん、それがいい」と言った彼の気持ちを何度も考えた。


彼が誰なのかは誰も知らなかった。
「最近〇〇さんとよくやりとりしてるね」と友だちに言われても「そうなんだよ」というばかりで、別に話そうという気にもならなかった。

私にとっては彼はハンドルネームの彼でしかなかったし、
CDや雑誌、テレビを見れば、確かにちょっと前に読んだ日記と同じことを言っていたりしたけど、日記にしかいていないことのほうが圧倒的に多かったから、どれを見ても「まあそれはそれとして」と思っていた。

寒くなるころに引っ越しをした彼が「遅れたプレゼントはアドバイスを参考にして、自分の家の一画に椅子を置くことにした」と連絡があった。来年まで待てなかったようすが微笑ましかった。
写真も見せてもらったけど、近くにはストーブが置いてあって、プレゼントの相手へ自分の中に居場所を作ってほしいと思い続けていた彼の望むものが見つかってよかったと心から思った。



その冬。もう連絡が取れなくなってしまう事件があった。静かな事件だった。近くにいない私には何が起こったのかは解らなかった。
しばらくは何度も何度も更新の止まった日記を見にいった。

ある日、二度と更新されるはずのない日記が新着通知に出た。
彼の友だちの投稿だった。
その人は彼とお互いに何かあった時のためにSNSのパスワードを約束の場所に隠しておこうと決めていた、そこを見に行ったら本当に用意してあった、そして「SNSの友だちに心配をさせているだろうから伝えてほしい」とそのメモにあった、と書いていた。

その後、彼の友だちとやりとりをした。
その中で、「もしかしたら、日記になにか見てほしい隠された暗号があるのでは?」という話になって、私と彼の友だちの話を組み合わせたところ、日記に隠しコマンドがあることが解った。
私と彼の友だちは「彼らしいね」と2人で笑った。

全部見えていたと思っていた日記には、実は非表示にされたHTMLがたくさん仕組まれていて、
彼の友だちは全日記を時間をかけて開いていった。

私もそれと同時に開いてもらった日記を追った。

次の夏までかかって、膨大な思い出を一緒に見ていった。

最後の日記を読み終えたとき、「本当にいなくなっちゃったんだな」と遅れた実感が来た。

なんでも私たちは少し遅れている。

あなたの正体に気づくのも、
あなたの大切な人のプレゼント候補を見つけるのも、
あなたが大切な人にプレゼントを贈るのも、
あなたをネットの友だちだと認識するのも。


遅く来た喪失感は、どれだけ書いたのかというほどの膨大な日記で感傷的にはなりきれなかった。

怒ったり喜んだり悲しんだり皮肉を言ったり、いつもと同じ日記のもう少し深いところ、なにを気づいて欲しくて、なにを恥ずかしかったのか。
そんなことを変な顔で笑っては何度も読んだ。



そのSNSの日記も数年前に、削除されていった。
私は大学を辞めて、携帯を買った。仕事を始めて、仕事を辞めて、また仕事をした。
彼の大事だった人とそれもまた偶然にあのSNSで声をかけられて仲良くなり何度か遊びに行った。そして離れた。
寮の友だちは県外に帰って今もお中元を送り合う。あのときの年上の人は二度目の引っ越しも手伝ってくれ、唯一彼の本当の名前を知る人になり、今年も私の隣にいる。

ハンドルネームの彼の言葉は私のメッセージボックスにしかなく、それを見る日も少なくなった。


だけど、頭の中にぼんやりと点滅をする。
プレゼントはなにがいいかと考えては意見を言い合った、あの若い夏の日々のことが。


彼の代表曲は今年も町に流れている。

彼は私のネットの友だちだった。