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【埼玉県】まいまいず井戸

場所:埼玉県狭山市
時代:平安時代前期?
まいまいず井戸とは、地面をすり鉢状に掘り下げて、さらに底の部分に垂直に井戸を掘ったもので、東京都多摩北部から埼玉県西部にかけて多く見られた。井戸を螺旋状に掘り下げていく形がマイマイ(かたつむり)の殻の螺旋構造に似ているので、まいまいず井戸と呼ばれるようになった。このような構造の井戸になった背景としては、武蔵野台地が地質的に砂礫と火山灰によってできた台地であることから、地表から地下水脈まで通常の井戸のように垂直に掘ったのではかなり深く掘らなければならず、またすぐに崩れてしまう。そのため地表面に近い脆い層をすり鉢状に掘り下げ、崩れにくい粘土層が露出してから垂直に掘らなければならなかったことによる。

堀兼之井

堀兼神社
堀兼の井

井戸があるという堀兼神社へ行ってみたのは、2019年3月のこと。神社の境内の片隅に石の柵に囲まれてひっそりと残っており、すり鉢部の直径は約7.2m、深さは約1.9mと七曲井に比べるとかなり小さい。訪れる人も地元の人以外ほとんどいないのか、あまり管理されていないようで、現在は残念ながら大部分が埋まってしまっている。石垣で補強されている井戸のすり鉢部には大量の落ち葉も積もっていたため、中の構造はよく見えなかった。すり鉢部の中央には、かろうじて石組みの井桁があるのが確認できた。掘られた時期は記録がなく不明とのことだが、少なくとも平安時代前期には存在していたと考えられている。

堀兼の井
堀兼の井記念碑(左は江戸期宝永年間のもの)

他の井戸のように手入れが行き届いていない分、古い歴史を感じることができる。平安時代の和歌や文学に「ほりかねの井」という武蔵野を指す歌枕が多数載っているが、名称は同じでもこの堀兼之井を指しているのかどうかは確証がなく、まいまいず井戸全般を示しているという説もある。しかし、まいまいず井戸が東国の武蔵野を象徴する歌枕として、京の都の有名な歌人(紀貫之、伊勢、清少納言、藤原俊成ら)にまで知られていたとは驚きである。

七曲井

常泉寺観音堂境内に残っており、すり鉢部の直径は約20~25m、深さは約12mというかなり大きな井戸で、中央部には丸太を組んだ井桁が復元されている。こちらも掘られた明確な時期は不明だが、日本武尊によって掘られたという伝説があることから、古代から存在していたと思われる。また都と武蔵国を結ぶ街道沿いにあったことから、平安時代前期に武蔵国府によって掘られたという説もある。堀兼之井からは約2.5kmと近く、七曲井まで歩いて30分ほどの距離だった。

七曲井(補強工事されている)
七曲井
すり鉢底の井桁部分

現在は井戸の水は枯れているが、江戸時代の18世紀半ばまで改修工事が続いており、それまで長い間井戸として機能していたことがわかっている。こちらの井戸はきれいに復元されていて、構造などがよくわかるように整備されている。

その他のまいまいず井戸
時代は少し下がって、井戸から出土した板碑などからおそらく鎌倉時代に掘られたと思われる井戸が、東京都羽村市の五ノ神神社やあきる野市渕上に残っている。こちらのまいまいず井戸にはまだ訪れたことはないが、すり鉢部の底まで降りていく螺旋状の小道まできれいに復元されていて、井戸の構造がよくわかるようになっているらしい。また八丈島や式根島など島嶼部では、明治時代になっても同じ構造の井戸が掘られていたようである。

堀兼の井と七曲井の位置


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