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【韓国】慶州瞻星台

場所:韓国慶尚北道慶州市
時代:7世紀

慶州瞻星台

慶州瞻星台(せんせいだい、Cheomseongdae)は、韓国の慶尚北道慶州市にある石造建造物で、韓国の第31号国宝に指定されている世界遺産慶州歴史地域に含まれる史跡のひとつです。建造年代や建造者、建造目的は未だ不明ですが、韓国では「新羅時代に建造された東洋最古の天文台遺跡」とされています。慶州での史跡巡りでは必ず訪れる場所のひとつで、場所も慶州中心部の古墳群、半月城や国立慶州博物館などがある広い公園内にあり、簡単に行くことができます。日没後はライトアップされ、昼間見るものとは違った印象を受けます。

ライトアップされた瞻星台

韓国では古くから瞻星台(天文台)であると伝えられており、これに関する記録としては、朝鮮半島に現存する最古の正史で、12世紀半ばに著された「三国史記」には一切記載がないものの、13世紀後半の「三国遺事」や18世紀後半の「輿地考」といった文献には見受けられるそうです。最初に登場するのが三国遺事の中の善徳女王(新羅第27代王、632-647年在位)についての記事であるため、その治世下である7世紀前半に建造されたとしています。ただし三国遺事の記述は簡単に「この王(善徳女王)の時に石を加工して瞻星台を築いた」とあるだけで、用途などについての記載はないそうです。李氏朝鮮時代の「東国輿地勝覧」には、瞻星台の内部構造についての解説や天文観測に用いられたという記述が見られるそうですが、実際の建造から数百年を経ている記録であることから、直接的な証拠にはならないのではないかとの指摘もあるそうです。また高麗末期から李氏朝鮮初頭にかけて書かれた何篇かの詩や、15世紀半ば編纂の「世宗実録地理志」などの中にも瞻星台は登場しています。余談ですが、これら朝鮮の記録は現在日本との間で領土問題になっている、竹島(韓国名独島)の帰属をめぐる韓国側の言い分のひとつにされています。

瞻星台の説明板

瞻星台の石材には花崗岩が使われていて、円筒状で上にいくほど窄まった徳利のような形状をしています。高さは約9.1m、地上部分の直径は約5m、上層部の直径は2.9mあります。花崗岩は厚さ約30cmのブロック状に加工され、27段の高さに積み上げられています。なぜか地上部分に入口はなく、中腹部分にあたる13段から15段の部分に四角い窓が一つあります。この窓に梯子をかけて内部に出入りしたとされています。現在内部を見ることはできませんが、地上部分からブロックの12段部分まで土で埋められているそうです。19段と20段の部分と25段と26段の部分には床があり、天井はなく上部は開放されています。
2009年の調査によって、瞻星台が建っている地盤は沈下していて、中心軸の傾きが毎年約1mmずつ増えていることが明らかになりました。単純に石材を積み上げた構造なので、このまま補修を施さなければ将来的には崩落することもあり得ると指摘されています。2016年9月12日に起こった慶州地震の際は、瞻星台に大きなダメージを与えました。傾きは一気に20mm増加したことで、224mmとなったほか、最上段に組まれた井字石をはじめとする石材の隙間も数mmから数cm拡がってしまったそうです。韓国国立文化財研究所は復元補修を検討していますが、残念ながら地震発生前の精密な構造記録は作成されていなかったそうです。

瞻星台の周囲にある新羅古墳群

瞻星台の存在を学界で発表したのは、戦前の朝鮮総督府観測所所長であった日本人で、伝承と文献記録の研究とともに、文化財として保護に努めました。瞻星台の頂上には木造の建造物が設置され、そこで渾天儀のような天文観測器具による観測が行われていたとし、瞻星台を東洋最古の天文台と考えました。大韓民国成立後は、1960年代になって瞻星台の学問的な調査研究が始まりました。1964年には瞻星台の構造と機能を検討し、天文観測用構造物を設置するには不向きな構造であると指摘した学者もおり、太陽の運行につれて日影の長さを記録する日時計としての役割が主であるとの説を唱えました。この頃から様々な説が発表され、多くの論争が繰り広げられましたが、中でも瞻星台は天文観測とは無縁な宗教的・象徴的な建造物だという説も登場し、一種の記念碑である、または古代の仏教の発展を願うための祭壇ではないかといった説も唱えられました。結局1990年代になると論争は収束し、1996年に開かれた第9回国際東アジア科学史会議では、瞻星台で何らかの天文観測が行われたかもしれない、という点で歴史学者の間に意見の一致が見られたものの、具体的な観測方法やその意味付けについて統一的な見解は未だに得られていません。


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