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追いかけっこの考古学

昨年夏から今年の春にかけて、茨城県の大洗町で発掘調査していた。大洗は那珂川河口右岸の小さな海洋都市で、漁業や水産加工業が盛んな一方、海水浴客や磯前神社への参拝客で賑わう観光都市であり、さらには北海道と関東を結ぶフェリーの発着地として重要な流通拠点でもある。そして近年では、知る人ぞ知る「ガルパン」の聖地としても有名である(気になる人はGoogleで調べられたい)。

さて、年明け、我が岡安ファミリーが大洗に大挙集結して、新年会を催すこととなった。集合場所は、鹿島臨海鉄道の大洗駅(ガルパンではこの駅の前を何台もの戦車が駆け抜ける)。鉄道やマイカーで三々五々集まってくるのを駅前の小さな広場で待っている間に、孫達がさっそく「追いかけっこ」を始めて、私の座っているベンチの周りをグルグルと走り始めた。

走り回る子供たちに目が回りそうになりながら、私は読んだばかりの論文、スカリス杉山等の”Coalitional Play Fighting and the Evolution of Coalitional” Intergroup Aggression(「連合的遊戯戦闘と連合的グループ間攻撃の進化」とでも訳せばよいだろうか)を思い出していた。「双対的遊戯闘争は多くの種で行われているが、連合的遊戯闘争を行うことが知られているのは人間だけであり、そうした遊びが人類の致死的な襲撃に関連した技能の開発に役立ってきたのではないか」という趣旨の、ダグラス・フライあたりが読んだら憤死しそうな論文である。その主張はともかくとしても、ヒトや他の動物における遊びの行動は、広く適応とみなされており、その機能は、生物の生存や後世の繁殖に重要なスキルを開発し、リハーサルし、そして、または洗練させることであるということに関しては、間違いないだろう。

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29959606/

猛獣の子供や小鳥たちが追いかけっこして遊ぶのとおなじように、私の周りを走り回って遊んでいる孫たちの追いかけっこも、本来は、生存能力を磨くための大切な遊びであり、学びなのだ。コロナのこともあって、ますます野外でみんなと遊ぶ機会を奪われている子供たちは、そうした本源的な要求を遮断されてしまっているわけだ気の毒に。

などと思いに耽っていたら、「お爺ちゃんもかけっこ速いわよ!」と、某女が唆すものだから(後で「お婆ちゃん仮説」についても考えてみたい)、孫たちは大興奮。引っ込みがつかなくなった私は、どうにかヨロヨロしないで立ち上がり、この硬そうな舗装の上で転んだら痛いだろうなと内心怯えつつ、頑張って速いところを披露したのであった。とはいえ、ラグビーをやっている3年生の男の子のなんと疾走っこいこと………

Scalise Sugiyama, M., Mendoza, M., White, F. et al. Coalitional Play Fighting and the Evolution of Coalitional Intergroup Aggression. Hum Nat 29, 219–244 (2018). https://doi.org/10.1007/s12110-018-9319-1

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