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【日本とプロイセンの関係②~独貴族シーボルト家~】


プロイセンが日本へも浸潤していたであろうことは前回の記事でもお伝えしましたが、今回はイエズス会ザビエル来日から明治維新、戦後のGHQ占領までのプロイセンの関与について、特に【シーボルト家】に焦点を当てて考察していきたいと思います。


江戸時代の鎖国下、長崎の出島に訪れたシーボルトといえば学者や研究者のイメージが強いかと思いますが、実はプロイセンのスパイではないかという視点から情報を整理していきたいと思います。

wikipediaだけでもかなりのヒントが得られます。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

【シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。

ドイツ地方の名門貴族で特に医学に精通していた家系だということです。


【近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたことから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている。】

【1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽って、その場を切り抜けた。】

【日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ」(内情探索官)と答えたと渡辺崋山が書いている。】

【1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。

【1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪中津藩主奥平昌高蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した。】


多くの日本人と交友が進む中、1828年シーボルト事件が起きました。日本の地図を国外に持ち出そうとしたのがばれて国外追放処分となったのです。(シーボルト事件)


その時にシーボルトが持ち出した地図を元に1832年にヨーロッパで『NIPPON』という書籍名が出版され、日本の地図が載っています。


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つまり、シーボルトの活躍によりペリーが開国を迫る前、明治維新前に欧米は正確な日本地図を手に入れることができていたようです🍿🐸


【帰国後の1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜される。蘭領東インド陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。】


シーボルトはただの学者・研究者というよりもスパイだった可能性が非常に高いと思われます。また、アメリカのペリー提督が来日して開国を迫るということを事前に察知して連絡を取れる関係性だったようです。

1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。】

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アメリカのペリー提督が来日して開国を迫るということを事前に察知して連絡を取れる関係性だったようです。プロイセンがアメリカに浸潤していたことはプロイセンゲートで説明されています。

ペリーがシーボルトの持ち出した日本の情報を見ていた可能性は当然あるでしょうし、また、シーボルト自身も日本にいるときに開国の必要性を説いて回っていたようです。

1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。】

シーボルト事件で日本を追放されていた身でありながら、1861年には対外交渉の幕府顧問になっています。

【プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させる。自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。】

対外交渉の幕府顧問の身で日本に関する研究をつづけながら、ロシア海軍司令官、フランス大使オランダ植民大臣らとの情報共有も怠たっていなかったようです。


シーボルト自身は1866年に病気で亡くなりますが、シーボルト家と日本の関係はこれだけでは終わりません。

長男 アレクサンダー・フォン・シーボルト

シーボルトの長男アレクサンダーは明治政府にお雇い外国人として40年間雇われており、明治政府にかなり影響力を持っていたことがわかります。

【1861年(文久元年)、父が対外交渉のための幕府顧問となったため、親子は江戸に出て、芝赤羽接遇所(プロイセン王国使節宿舎であった)に居住することとなった。長崎滞在中に、父はアレクサンダーをロシア海軍の通訳になるよう手配していた。

【1867年(慶応3年)、徳川昭武(当時14歳)がパリ万国博覧会に将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられると、アレクサンダーはその通訳として同行した。

【1870年(明治3年)8月に英国公使館を辞職、文明開化の最中の新政府に雇用され、上野景範の秘書に任ぜられロンドンに派遣された。同時に英国に留学していた日本人の監督保護を担当した。その後フランクフルトに出張して、紙幣印刷の交渉を行う。】

【1873年(明治6年)2月、駐オーストリア・イタリア弁理公使佐野常民への随行が命じられ、再び渡欧した。1874年(明治7年)末に日本に戻る。】

佐野常民は日本赤十字社の設立者でアレキサンダー・シーボルトも協力しているようです。


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【1875年(明治8年)5月には大蔵省専属の翻訳官となる。】

【1892年(明治25年)からロンドンにおいて駐英公使青木周蔵の条約改正交渉を手伝い、1894年(明治27年)に日英通商航海条約の調印に成功した。

【1910年(明治43年)8月、政府勤務40年の記念祝典が開催され、勲二等瑞宝章が贈られ、ドイツからもプロイセン第二等宝冠章を贈られた。】


次男 ハインリヒ・フォン・シーボルト

【日本が初の正式参加となったウィーン万国博覧会では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、通訳としても帯同、日本館は連日の大盛況で、成功を収める。その際に選定に共に関わった町田久成、蜷川式胤らとはその後も親交を続けた。

彼らとは好古仲間として、幾度も古物会を開催し、参加者の中には9代目市川團十郎などもその名を並べた。蜷川たちはここでハインリヒと交流することで当時最先端であった欧州の考古学を学び、またハインリヒはここで彼らとより先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだ。】

【日本橋の商家の娘岩本はなと結婚し、2男1女を儲ける。】

【ハインリヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われる。福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めた。

【考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘。日本に始めて考古学という言葉を根付かせた。エドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させた。現在欧州に散らばるシーボルト・コレクションはその数、数万点にも及び、その約半数は小シーボルトこと、ハインリヒの蒐集したものであると言われている。


もちろん、シーボルト家に限らずお雇い外国人として明治政府で働いていた人はたくさんいるようです。ここに一部名簿がありますが、これだけ政府に外国人がいれば乗っ取られているといっても過言でないのではでしょうか。

【1868年(明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』、『近代日本産業技術の西欧化』があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。


もう一人、シーボルトと直接の繋がりは確認できませんでしたが、シーボルト家の人物と思われる面白い人物がいます。

GHQ ウィリアム・ジョセフ・シーボルド

彼はアメリカ生まれのシーボルド( Sebald)のようですが、実は出島のシーボルトの綴りを確認してみると(Siebold)。

"t"ではなく"d"なのです。

"ト"か"ド"かは発音の違いで。元は同じドイツの貴族シーボルト家ではないでしょうか?


ちなみに他のsebald姓を確認してみるとやはりドイツ系アメリカ人が多いようです。



ではこのウィリアム・ジョセフ・シーボルドは何をしていたのでしょうか?


終戦後の1945年、東京駐在連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役を務め、1946年に特別試験で正式に外交官の資格を取得。1947年から1952年まではジョージ・アチソンの後を継いで駐日政治顧問および連合国軍最高司令官総司令部外交局長を務めた。また対日理事会におけるアメリカ代表の役割も継承し、シーボルドは対日理事会において議長も務めた。シーボルドは連合国軍最高司令官総司令部における国務省代表として機能し、1947年から1951年にかけてはダグラス・マッカーサー元帥の代理人も務めた。

東京駐在連合国最高司令官(GHQ)政治顧問団特別補佐役

駐日政治顧問および連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)外交局長

対日理事会議長

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)国務省代表

・GHQダグラス・マッカーサー元帥の代理人

GHQといえばマッカーサー元帥のイメージが強いですが、このシーボルドも戦後GHQにおいて相当な権力を持っていたようです。

ブッシュ家やロスチャイルド家のようにプロイセン(ドイツ)人がアメリカへ浸潤していたという話はプロイセンゲートで掘り下げてられています。

プロイセンはアメリカへの浸潤後、アメリカ経由でも日本へ浸潤していたのではないでしょうか。

GHQにはドイツのフランクフルト学派が多く入り込んでおり、日本を共産化しようとしていたということは有名な話だと思います。

簡単に経歴です。

【1901年にメリーランド州ボルチモアで誕生。1922年に海軍兵学校を卒業。海軍兵学校時代は日本語を学んだ。 1918年から1930年まではアメリカ海軍に所属し、第一次世界大戦に参加。日本で海軍語学官を務めた。1925年から3年間は駐日アメリカ合衆国大使館武官部に所属した。1942年から1945年までアメリカ海軍に所属し、第二次世界大戦ではアメリカ海軍情報局に所属。】

ちなみにシーボルト以前の外国人といえば、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが有名ですが、18世紀にヨーロッパでイエズス会が弾圧されたとき、唯一イエズス会を保護したのはプロイセンだったそうです。

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【イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。】

【プロイセン王フリードリヒ2世は自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。】


ザビエル・イエズス会が日本で築いていた基盤を18世紀にプロイセンが引き継いだ後、シーボルトが1823年に来日し工作活動を継続したという可能性も十分考えられますね。




『全人類が悪魔支配から脱するためには、結局のところ、先に目覚めた人が 家族/親戚/知人/今日初めて会った人などに “話して伝える” という、地道な作業が必要になります。

何度も何度も大声で、あなたの声を、この世界に響かせてください(エコーチェンバー)。

あなたの声を通して、神からのメッセージが直接伝わります。

"神はあなたが人類を救うと知っていて、あえてこの時代にあなたを選んで地上に使わした" ということを、思い出してください。』



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