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塩飴がやけに酸っぱく感じた日の記憶

あれは数年前の梅雨の合間の蒸し暑い日だった。
朝8時、オレたちは団地内で危険木の伐採準備を始めていた。
ここの団地の住人らしきお婆ちゃんが通りかかったので挨拶すると、
お婆ちゃんは周りをキョロキョロと見渡し、まるで中学生時代に人目を避けてラブレターを渡すような仕草で
「今日は暑いからね。これ食べて」と塩飴を3つくれた。
飴はいま風の一つづつ小さな袋に包まれて小分けされているタイプでは無く、
昔ながらの一つづつナイロンで包んで両端をくるくると巻いているタイプの飴だった。

飴は少し湿っているようで、包み紙にくっついてなかなか剥がれなかった。
飴は少し濡れているようで、包み紙と飴の境目が見つからなかった。
飴をとり出そうと苦戦しながらオレはハッと気がついた。
これはもしや、お婆ちゃんのなめかけの飴??を包み直したやつ??
一回口に入れてなめてから、また包み直した飴っだたりする??
もしそうでないとすれば、どうしたってここまでベタベタ飴になるはずがない。

昔は甘いものは希少で貴重なものだった。昔の人たちはじっくり味わって最後まで大事に味わい尽くして暮してきたんだと思う。だからきっとあのお婆ちゃんも大事に何度も何度も取り出しては飴をなめて包み直してきたんだろう。

オレはお婆ちゃんがなめて途中で戻したかも知れない飴を、やや後退りしながら口に含んでみた。
飴がとても酸っぱく感じたのは、ただ単にきつい塩味が効いていたからに違いない。決して胃液が込み上げてきたからでは無い。
普段なら甘さに飽きたら噛み砕いて食べるのだが、今日ばかりは包紙にそっと戻してみた。残りは次の休憩時間になめてみよう。

20年前のあの夏の日。
灼熱の影もない炎天下で1人草刈りをしていたとき。通りすがりのお婆ちゃんが「お兄ちゃん暑いね。これ飲み」といってペットボトルのお茶をくれた。
草刈機のエンジンを止めて飲もうとしたそのお茶はぬるくボトルの蓋はゆるかった。よくよく見てみるとお茶の量も3分の2しか入っていなかった。
これお婆ちゃんの飲みかけやん。

20年前のオレは人の優しさを受け入れることができなかった。かと言ってお婆ちゃんの優しさをむげに捨てる勇気もなかったオレは、いただいたペットボトルを車のダッシュボードの上に1ヶ月間置いておいた。できれば誰かが間違えて飲んでくれることを願いながら。

人の優しさは時に残酷で、分かりやすい形ばかりでも無い。
受け手の心の準備が出来ていなければ優しさを大きなお世話だと感じてしまう事もある。
20年経って少しは成長した自分への御褒美と再確認のために、包み直した飴をもう一度取り出してなめてみた。
胃が少し拒否したような酸っぱさを喉の奥にを感じたオレの、一流への道のりはまだまだ遠そうだ。


#エッセイ
#アーボジャパン
#一流への道のり


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