見出し画像

プラネテス第1話「大気の外で」

 名作アニメ「プラネテス」の地上波での再放送が始まったらしい。この機会に全話観返してみようと思う。

 ということで、第1話「大気の外で」。脚本の大河内一楼か誰かが、インタビューで「プラネテスの第1話には、プラネテスのエッセンスがすべて詰まっている」的な話をしていたのを覚えている。気がする。
 正直なところ、プラネテスに一番ハマっていた中高生のころ、第1話の印象はかなりあっさりしたものだった。けれど、改めて観てみると、ドタバタコメディ要素、タナベv.s.ハチマキ、テクノーラの大企業的体質、デブリ回収の社会的意義、世界規模での格差と社会矛盾、そして宇宙と向き合うこと、全23話を通じて描かれる様々な要素が詰まっていて、それでいて違和感のない一本のストーリーにまとまっている。とんでもない構成力。

 中でも、「タナベv.s.ハチマキ」は、アニメと原作に共通していながら、アニメと原作の思想の違いを最も端的に表している要素だと思う。

 アニメのタナベは、会社ものドラマの主人公としてありがちなキャラクターとして描かれている。ちょっとドジで、ちょっと成績が悪くて、ちょっと猪突猛進なところがあるだけのただの新入社員であって、特別な要素は何もない。いわば「普通の人間」である。
 そんなタナベが唱える「愛」は、いつだって、どこかひとりよがりだ。第1話でも、タナベが、自らの正義感から連合の記念プレート廃棄に反対し、それが後に、タナベの思い込みであったことが分かる(そして、ハチマキはそれらをすべて分かった上で、あえてマナンガの子どもたちに美しい光景を見せようとしていた)。

 この関係性は、原作では絶対にあり得ない。原作は基本的にハチマキの視点で描かれていて、タナベは独善に陥ったハチマキを救うために現れた愛の化身のようなキャラクターでえる。「タナベの愛が否定されて、ハチマキの配慮が肯定される」なんて展開は、原作を読んでいれば、まず想定されない。
 原作では愛の化身であるタナベ(彼女は幼少期に特殊な経緯があり、一時期的に神=愛に直接触れることができた、特別な人ということになっている。)を「普通の人間」に堕とし、彼女の「愛」が真の愛に到達するまでを追っていこうとする、というのがアニメ版プラネテスなのである。
 そして同時に、原作でも自意識の闇に捉われて苦しむことになるハチマキも、アニメでは、タナベという救いを失ったことで、原作以上に深刻な闇に蝕まれていくことになる。

 このように、ハチマキ一人を追い詰めていく原作から、対立する主人公二人を用意して、彼らを並行して追い詰めていく構造に転換する発想。そして、追い詰めるなら徹底的に、という思想。このあたりが、アニメ版プラネテスの最大の特徴で、そして魅力なのだと思う。


サポートエリアってなに???