2019年の夏と


マレーシアに来てる。

ひょんなことからレジデンスが決まって、気がついたらクルアンにいた。

実際にはいろんな人の尽力があり、レジデンスが決まってから日本を発つまで一ヶ月半あったので「気がついたらクルアンにいた」なんてはずはないのだけれど、忙しさに転がされたり、日々のニュースに気持ちを乱されたり、酔っぱらったり友達に励まされたり(ありがたい)しているうちに、クルアンにいた。

クルアンは小さな町で、たぶん大抵の日本人は知らない。

僕も来るまで知らない町だった。山が多い他は、これといった特徴もない。要するに観光地じゃない。大都市でもない。普通の人々が普通に暮らす。

猿と蝙蝠がたくさんいる。クルアンという名前の由来は、マレー語の蝙蝠(クラン)だそうだ。


僕がレジデンスで来ているということは、招いてくれてる人たちがいるということだ。

なので、丁重に扱われている。町をツアーで回ったり、現地のおじさんがガイドしてくれたり、山のふもとの集落を訪ねたりしている。

市井の人々はすごく親切だ。

おじいさん、おばあさんと呼べる世代の人たちは、日本に対して複雑な思いがあるという話をされた。

戦争のせいだ。

というか、戦争のときに日本人がしたことのせいだ。

今のところ、僕が日本人とわかっても彼らは何も言わない。僕も、そういうことについて何か訊ねる勇気はない。でも、今でも憎んでいる人はいると聞いた。そのことに僕はリアクションできない。ただ、身を固くするだけだ。

でも、みんな、信じられないくらいフレンドリーで、親切だ。


どうしてこんな、どこの誰かもわかんない日本人にみんな親切なんだろう? とウェイハンに訊ねた。

ウェイハンは、今回のレジデンスに参加している中国系マレーシア人だ(このレジデンスには全部で六人のアーティストが参加している)。

少し首を傾げた後、ウェイハンは「わたしは日本のアニメとか、漫画が好きなんだけど、」と話し始めた。


ワンパンマン、進撃の巨人、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、ナルト、エヴァンゲリオン、ドラゴンボール、セーラームーン、シャーマンキング、カードキャプターさくら、宮崎駿、YMO、久石譲、北野武、坂本龍一、宇多田ヒカル、山下達郎、竹内まりや、高畑勲、ヨコハマ買い出し紀行、新海誠、ヨウジヤマモト、コム・デ・ギャルソン、ソニー、三島由紀夫、川端康成、村上春樹、夏目漱石、時をかける少女……


ウェイハンの口から固有名詞が止まらなくなった。

ふと見ると彼女のパソコンに貼ってあるステッカーは伊藤潤二だ。

ウェイハンは語る。

「わたしが子供の頃、テレビはオリジナルのものをあまり作っていなくて、特にアニメは日本から輸入してたものが多かった。

わたしの親の世代は、やっぱり日本に良いイメージを持っていなくて、だから、あんまりいい顔をしなかったけど、でもみんな日本のアニメを見てた。

面白くって、楽しくって、わたしたちは魔法にかかった。

こんな素晴らしいものを作る人たちが遠くの国にいるんだと思って、わくわくした。

十五歳になって、歴史を学んで、どうして親たちが日本を嫌いなのかを知ったけど、それとこれは別のこと、わたしたちにかかった魔法はとけない。

今はアニメだけじゃなくて、日本の人たちが作った素晴らしいものを他にもいろいろ知ってる。

わたしは特に詳しいほうだけど、みんな日本に対して抱いてるイメージはおおよそ同じだよ。楽しくて素晴らしい仕事をする人たち。

あなた自身もみんなに対してフレンドリーだし、みんながあなたに親切にするのは何も不思議じゃない」


そう話されて、僕は泣きそうになってしまった。

最近、日本のニュースを見て憂鬱になっていたこと、京アニへの凶行、表現の不自由展、韓国との関係、そういうことが全部つながっている話だと思った。

人は文化を作って、それは思わぬところに届き、影響する。

ウェイハンの親たちは、日本で作られたものであるという理由でウェイハンたちにアニメを見せることを禁じなかった。

歴史が積み重ねてしまった複雑な憎しみを、文化が(全部ではなくても、少なくとも僕らの世代に対しては)解いた。

ウェイハンは、それを魔法と呼んだ。

その魔法は、簡単に否定とか破壊とか利用とかしていいものじゃない。


上手くまとめられないし、今のところ上手くまとめる必要も感じていないんだけど、今日ウェイハンと話していてちゃんと希望はあると感じて、その希望をつなぐのも僕ら自身なのだと感じている。

半分は自分に対するメモとして、書き残しておきたいと思った。

あいちトリエンナーレの参加者たちの出した声明にあった「連帯」という言葉。

その連帯は、時代や国に縛られていない。

ずっと遠くまで広がっている。