対立を望まない

僕は対立を望まない。
文化庁が補助金を出さないと言い出して、その夜デモに行ってみたら何人もが叫んでいた。
「検閲やめろ」
「表現を守れ」
「アートは自由だ」
僕も同じことを思ってる。でも僕は叫ばなかった。

僕は誰とも対立を望まない。
文化庁と対立したくない。表現の不自由展にテロを予告した人(と、彼に同調する人)とさえも、対立したくない。もちろん、韓国人とも(他のどの国の人とも)対立したくない。日本の政治家とも韓国の政治家とも対立したくないし、彼らに対立してほしくない。
Aokidさんが言った。
「頼むよ文化庁」
これなら僕にも言えると思った。
考えが違う人にも、わけのわからない行動をする人にも彼ら/彼女らなりの理由や経緯がある。
ネットを眺めていても、文化庁の職員の声というのが(長官含め)不思議なほど出てこない。発言することを禁じられてるんだと思う。僕なんかよりも百倍の密度と大きさで言いたいことがあるだろうに、たぶん何も言えていない。

踏みつけられてるのに対立したくないなんて甘すぎるということもわかってる(つもりだ)。対立を辞さない覚悟で人が動いたから民主化したり、差別がひっくり返った歴史が世界中であるんだって事実も頭の片隅にある。このままじゃいろんなやりな方で殺される、あるいはもう殺され始めてるという実感もある。
それでも僕は対立したくない。

今、状況について語ると何もかも右か左かと規定されてしまう風潮がある(と僕は感じてる)。そうやって、線を引いて、自分とちがう立ち位置の人間に攻撃をしていいと思うこと、誰かを見下していいと判断することが右の人にも左の人にも起きている気がする。
それが何になるのかと絶望しそうになる。
違う意見をぶつけ合って互いへの理解が深まる場面も社会にはある。でも今はそういうときじゃないのではないか思う。
ぶつけ合う前に何かするべきことがないだろうか。
相手を想像力のない権力者だと断じて「検閲やめろ」と叫んで熱くなることが(共感はすごくするけれど)僕にはできない。
対立しても動かない。守れない。
ここまで政治的状況が悪化してきて、そう痛感してる。
今、書きながら気づいた。対立は仕方ないかもしれないと感じている。当たり前に起きることだ。でも、対立の溝をより深くするようなことはしなくていいじゃないかと僕は思っている。その先にはどちらが正当かという血まみれの論争しかないのではないか。
相手を想像力のない馬鹿者と断じていては何の対話もできない。
僕らはそのことをインターネットが出てきてからのこの20年くらいで散々学んできたはずだ。

僕は甘い。
たぶん、致命的に甘い。もしかしたらこの甘さのせいで本当に若死にする。最悪、周りの人を巻き込んでしまう。
それでも、僕は誰とも対立を望まない。
対立してしまったら、対立を解消するための努力をしたい。それでもダメなら、距離や時間を置く。保留にする。そういうスタンスでいる。これまでそういうスタンスでずいぶん損をしてきた。
でもやめない。
いつまでこんな甘いことを言ってられるのかな、とも考える。

一方で、誰にも不幸になってほしくない。
わがままだ。
対立しなけりゃ両方を望めないんだろうか?(わからない)

僕がデモに行ってやりたかったのは、頭数になること。
今の状況に違うと思ってますよという表明。
怒っている人を否定するつもりは毛頭ない。その怒りは正当なものだと思う。
でも僕のやり方は怒りの表明じゃない。

僕は対立を望まない。
でも、それはおとなしく従うことと同義ではない。
何ができるか考えている。
何もできないかもと絶望して安易な方法を選びそうになる。
でも、少しずついろんなやり方で努力している友人たちがいる。とても励まされる。
彼ら/彼女らを見習いながら、考えることを続ける。