野良犬

 子どもの頃は、その辺を野良犬が歩いていた。
 妙に目がキラキラしていて、毛並みがボロボロで、いつも口を開けてハアハアと呼吸をしていた。ヒョコヒョコと上下に揺れて歩いていた。今考えると、簡単にヒョコヒョコしてしまうほど痩せていたのだった。
 でも、こわかった。子どもは背丈が小さい。背丈が小さい者にとって、犬は大きい。
 いつの間にか、野良犬を見なくなった。
 子どもの頃の記憶だから、野良犬たちについての記憶がどのくらい確かかと訊かれたらまったく確かではないと答える。でも、帰り道は野犬に気をつけろよなんて言われたような記憶もぼんやりとある。僕の住んでいた辺りは変質者もよく出る地域で、夕方を過ぎたらその辺には近づくなという話もあった。子どもが三人で歩いていると真ん中の子をさらう山姥なんて噂もあったような気がする。
 ずいぶん物騒だ。
 変質者も山姥も僕は会わなかったと思うけれど、野良犬たちには会っていた(と思う)。
 あの野良犬たちは、いつの間にかいなくなった。保健所に連れていかれて殺されてしまったのだろうか。もしそうなら僕の記憶違いで最初から存在しなかった方がかわいそうではないとも思うけど、それは僕の勝手な感想だ。そういうことは僕が決めることではない。当事者が決めることだ。
 この話の場合は、あの野良犬たちが各々に決めることだ。

 マレーシアに来て、野良犬を見かけるようになった。
 マレーシアはムスリム(イスラム教徒)の多く住む国だ。イスラム教の教えでは犬は忌むべき存在だから嫌われていそうなものだけれど、平気な顔をして、その辺をヒョコヒョコ歩いている。
 そのヒョコヒョコは、僕の記憶の中にいる野良犬たちの歩き方と一致する。
 マレーシアに住むムスリムたちは、真面目だけれど柔軟な姿勢を持つ人が多い。ここが単一人種の国ではなく多文化圏でもあるという事情が影響しているのだろう。積極的に犬をかわいがるわけではないが共存している。ムスリムも様々だ。へらへらしながら「おれはビールも飲むぜ」と言った後に、不可抗力のように真面目な顔になって「おれの地元では酒も作るんだよ。それが文化なんだ。育った土地の文化に従って、コーランの教えとなんとか折り合いをつけながらやってる」と話したりする。
 千年以上前にある場所で説かれた教えが時代も場所も遠く離れて百パーセント有効じゃなくなっていることを、たぶん彼らはわかっている。それは言葉にするべきことじゃないから、彼らはそう言わない。でも、たぶん、肌で感じている。
 だから、この国では野良犬たちがヒョコヒョコ歩いて、ムスリムたちとすれ違う。

 今日も野良犬が歩いているのを見かけた。
 道を横切っているのを見つけて、あ、犬だ、と思ったら、後からもう一匹やってきて、二匹いる、と思ったらさらにもう一匹現れて、結局四匹の犬が道を渡った。傍目には仲がよさそうに見える。
 四匹目の後に黒い五匹目がいたけれど、そのとき車が走ってくるのが見えて五匹目は渡るのをやめたようだった。前の四匹は振り返らずに、急ぎもせず止まりもせずに歩いていく。
 車が途切れても五匹目は道を渡らなかった。
 妙にキラキラとした目で、大きな口から舌をぶら下げてハアハアと息をしていた。右前足が地面から浮いている。たぶん、あの足はちゃんと動かない。
 行かなくていいのか。
 他人事ながら思う。
 前の四匹はどこを目指すのか、ヒョコヒョコと離れていく。
 気を揉んでいたら、五匹目は不意にこっちを見た。
 こんな表情は、犬でも人でも見たことがなかった。少しも不安そうではない。愉快そうにさえ見えた。さっきまで連れ立っていたはずなのに、他の四匹のことなんてまったく気にせずうれしそうに突っ立っている。馬鹿じゃないのか。それとも神様みたいに賢いのか。気がつくと僕も笑っていた。
 記憶の中にいる野良犬とは、似ているけれど全然ちがう。
 いつまで見ていても動き出す気配がないので、気をつけろよと声をかけてその場を離れた。五匹目は僕の言葉に何の反応も見せず、ハアハアと呼吸を続けた。